江馬再乱(四)
具足を収容していると思しき櫃を二つ抱えた一団が、安房峠を越えて高原殿村の江馬家下館に入ったことを、檜田次郎左衛門尉は常陸守輝盛に復命した。岩ヶ平城にあってその方向を聞いた輝盛と河上中務丞富信は
「時盛再乱の予兆と見える。引き続きその一行の動向を見極めよ」
と檜田次郎左衛門尉に命じた。
行商を装った一行が江馬家下館を辞したのは翌日のことであった。もはやこれひとつ取ってみても、一団が単なる行商でないことは明らかであった。たかが具足の引き渡し如きで、行商の一行が一晩の宿を武家屋敷に借りることが出来るほど歓待される理由がなかったからである。一団はやはり、時盛が一夜の宿を提供するような任務を帯びていたのであろう。そしてその一団が安房峠を越えてきたということ自体が、檜田次郎左衛門尉にとっては一団と木曾のつながりを示す証拠と思われた。
一団とつかず離れずの距離を保って送り狼のようにつきまとう檜田次郎左衛門尉。
山村三郎左衛門尉良利、三郎九郎良候とて木曾の重臣として鳴らした侍であってみれば、自分達の跡を執拗に尾行する檜田次郎左衛門尉に気付かぬ道理がない。良利は檜田に気付かぬふりをしながら嫡男良候の横に並んで
「間もなく安房峠に至る最後の宿場となる。一人殿軍を置いてあの者を斬って捨てねば企てが漏れようぞ」
と警句を発した。
これは良利一流の人心操縦術で、そう言えば良候は有無を言わさず殿軍に名乗りを挙げるだろうと見越しての声かけであった。
嫡子を殿軍に自分は逃げおおせようとしていると聞けば、なんとも酷い親のように見えるが、良利の考えはそんなところにあるのではない。彼はただこの任務を成功させることを第一義としていただけであって、嫡子良候であれば執拗に自分達をつけ回す敵と思しき侍をきっと片付けてくれるだろうとその剣技に全幅の信頼を置いて、良候に殿軍の必要性を説いたのであった。
良候は案の定
「それがしにお任せあれ」
と請け負った。
一行は休憩を装って宿場の茶屋に立ち寄った。
軽く茶を喫したあと、茶屋から出て来たのは先ほどより一人人数を減じた一行。
檜田次郎左衛門尉は、茶屋に残った一名が殿軍として残置された事を瞬時に悟った。もはやこの一事取ってみても、彼等が武田の息のかかった連中であるということが明らかであった。一行は昨晩一晩かけて江馬家下館に密議を懲らし、そしていま、そのはかばかしい結果を携えて信濃に帰還しようというのだろう。
そのことを考えれば、檜田次郎左衛門尉に課された
「一行の動向を見極めよ」
という輝盛と富信の下命は既に果たしたも同然であった。重ねて殿軍として残置された一名と斬り結ぶ危険を冒す必要などないのかもしれぬ。
しかし自身も江馬常陸守家中きっての使い手と呼ばれた檜田次郎左衛門尉は、その誇りにかけて殿軍の一名と手合わせもせず踵を返すことをよしとしなかった。
次郎左衛門尉は殿軍の存在に気付かぬふりをしながら、茶屋の前を通り過ぎようとした。
そのときである。
気合いとともに茶屋の納戸の陰から一閃、刀が振り下ろされた。あらかじめそのような敵の挙動を読んでいた次郎左衛門尉は後方に身を躱して第一撃を見事よけきった。
納戸の陰から身を現したのは、次郎左衛門尉の案に相違して、一見して弱冠にも満たぬ若者である。しかし相手が若者だろうが何だろうが、躊躇している暇などない。敵は自分を斬り殺そうと襲い掛かってきたのだ。次郎左衛門尉は考えるより先に抜いていた。
切っ先に相手に向けて構える両者。宿場の店々は突如起こった喧嘩のとばっちりを恐れて身を潜め、納戸を閉じる。格子越しに両者の斬り結ぼうという様を恐る恐る覗き見るだけで、諸人行き交う宿場町とも思えぬ静寂と緊張が辺りを支配した。
先に仕掛けたのはまたも三郎九郎良候であった。気合いのかけ声とともに鋭く踏み込んだが、次郎左衛門尉は冷静にその切っ先を見極めて躱し、競り合いに持ち込んだ。
「そなたどこから来た。武田のいずれの手の者か。木曾か」
次郎左衛門尉は競り合いながら問うたが、無論身元の露顕を恐れる良候は無言である。
辺りが静かなために、次郎左衛門尉の問いかけた声が響いて後は、両者の激しい息づかいが聞こえるのみだ。膂力に任せて次郎左衛門尉が良候の打刀をカチ上げると、良候は跳ねるように退いて間合いを取った。再び切っ先を相手に向け合う両者。
膂力に優るのは次郎左衛門尉。一方で持久力と瞬発力に優れるのが若い三郎九郎良候。互いに火花を散らして何合斬り結んだものか数知れない。
ふと、次郎左衛門尉が打刀を投げ捨てて構えを解いた。
「何度も斬り結び刃こぼれしてもはやものの役に立たん。そなたの打刀も同じであろう」
そう言われた良候も、刃こぼれだらけの打刀を納めた。
決闘は一瞬にして已んだ。
「そなた等木曾の衆がこの荒城郡に出現し、下館に一晩を過ごしたということは、近く武田がこの飛騨に侵入してくる予兆と見たが相違あるまい」
次郎左衛門尉は言った。
無論良候はこたえない。ただ若者らしからぬ不敵な笑みを浮かべ、無言で踵を返すのみであった。
次郎左衛門尉は良候を追わなかった。次郎左衛門尉もまた、主君輝盛に結果を復命しなければならなかった。
次郎左衛門尉が岩ヶ平城に向けて歩み始めると、背後から大きな声が聞こえてきた。振り返り見ると、声の主は先ほどまで命のやりとりをしていたあの若者であった。
「次のいくさ場で、相まみえることは出来ますか」
若者はそう言った。決着は戦場でつけようというのだ。
「必ず会おう」
次郎左衛門尉はそうこたえた。
次郎左衛門尉からの復命を聞いた輝盛は武田による飛騨侵攻及び、時盛の再乱を確信したのであった。




