表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
飛州三木家興亡録  作者: pip-erekiban
第二章 三木良頼の謀略
105/220

姉小路古川継承(七)

 光頼が岩鶴と称していた未だ幼年のころから、母英子は岩鶴に対し、

「岩鶴様はゆくゆくは姉小路古川の名跡を継ぐべきお方。今は同じ三木を名乗る弟亀千代とは違い、一段上のお立場とお心得あそばせ」

 と、異母弟亀千代の名を挙げてことあるごとにそう語って聞かせたものであった。

 岩鶴はそうやって滔々と語る母の目を、いつのころからか怖い目だと思うようになっていた。


わらわは元を辿れば従二位じゅにい中納言姉小路古川基綱卿の曾孫ひまご。父済俊(なりとし)さえ早逝しなければ今のような立場にあるはずがなかったのです」

 

 もしかしたら母は、岩鶴が幼かったから言いっている意味を正確には理解できないだろうと考えてそのようなことを口走ったのかもしれなかった。

 しかし子供は存外大人の言っている言葉そのものの意味も、微妙なニュアンスでさえも嗅ぎ取って、その言わんとしているところをほとんど正確に理解しているものである。岩鶴もそうだった。


 要するに英子は、三木良頼正室としての立場に不満を持っていたのである。


 あの桜洞城の人質曲輪での情事があったとはいえ、これなど実家の古川を失い、寄る辺を失った英子が、三木家の庇護を受けるためにやむにやまれず選んだ道に違いなかった。そうでなければ、血筋においてどこの馬の骨とも知れぬ三木家如きの膝下に何故屈さねばならないのか。不満を持つなという方が無理な話であった。


 そして岩鶴が大人の言っていることを幼いながらに理解していたのと同様、英子も、祖父済継(なりつぐ)と父済俊の二代にわたり、小島時秀によって毒殺された事情に薄々ながら勘付いていた。そしてその小島時秀を三木直頼が支えていたという事実も、英子は知っていた。


 英子は今でも悪夢に苛まれ、自分自身の悲鳴と共に目を覚ますことがある。


 家宰渡部筑前に連れられて、幼い弟とともに古川蛤城を落ち延びたあの時のことである。

 背後に迫る馬蹄の音、追いすがる三木諸兵と斬り結んで殺された家中衆の断末魔。弟の腹は渡部筑前によって刺し貫かれ、自身の庇護者たる伯父古川重継も喉を突いて果てた小鳥口おどりぐちでの悲劇の一部始終である。


 古川一門を族滅に追いやったのはどこの誰だったか。

 

 古川の家名復活は確かに英子の悲願ではあった。その血を半分受け継いでいる岩鶴こと光頼が古川を名乗ることについてもとより異存などあろうはずがない。

 しかし良頼となると話は別であった。

(もしかしたら夫は、亀千代にも古川を名乗らせるかもしれない)

 良頼自身が古川の名跡を許されたことで、この不安が英子を襲った。


「そなたも感無量であろう」

 古川の名跡継承を祝賀し、桜洞城で執行された祝宴で、良頼は白く塗った顔と鉄槳おはぐろに染めた歯をみせながらそう言った。


 なにが感無量か。感無量なことなどあるものか。


 英子は危うく本音を口にするところで思いとどまり、言葉もなく無言で頷くだけであった。


 この席上、良頼は家中の新たな人事配置について命じた。

顯綱あきつなを鍋山家に入れる。今後豊後守を名乗り、鍋山城に入ること」

 鍋山家はもともと、鍋山城に本拠を置く飛騨国内の土豪であった。三木家の飛騨国内における威勢が拡大するに従って、先代直頼はこういった国内諸豪族に親族を入嗣させる方法で実質的な乗っ取りをはかってきたのである。このような経緯で、鍋山家は直頼の弟新左衛門尉(しんざえもんのじょう)直弘の家系が継承していた。

 新左衛門尉直弘は既に亡く、いま鍋山家はその息子監物が継承していた。良頼は従弟監物に次男顯綱を入嗣させる人事をこの場で発表したのであった。そのことは、顯綱が継承すべき家は鍋山家なのであって、顯綱は姉小路古川を名乗ることが出来ないということを意味していた。

 無論これは英子が強く望んだことであった。

「古川の血を引かぬ顯綱殿に、古川名跡を名乗らせるわけには参りませぬ」

 英子にそう言われると、為す術なく従うしかない良頼である。顯綱の鍋山家継承は、飛騨の山猿三木良頼が古川名跡を名乗るという不愉快の中にあって、英子が果たした慶事のひとつであった。


 三木良頼は姉小路古川家継承を望み、斯くして果たされた。

 その後、永禄五年(一五六二)二月には


非参議従三位藤嗣頼、二月十一日叙、越階、元飛騨守従四下、元良頼今日改名

飛州守護三ツ木飛、依武家執奏、直任参木(参議のこと)称古川国司、姉小路事也、希代例也

(「公卿補任」)


 とあるように、近衛このえ前嗣さきつぐの偏諱を得て良頼の名を嗣頼と改めている。

 驚くべきは同年十二月のことで、良頼は従二位中納言にまで昇った姉小路古川基綱卿に倣おうと企てたためか、図々しくも中納言の職を望んだが、これにはさすがの主上も


ひだのみつぎ中納言の事、これはれいもなき御事に候へば、くわんぱくに御ふんべつ候て、ぶけへ御返事申され候へ

(「御湯殿上日記」永禄五年十二月十一日条)


 と仰せられ、お許しにならなかったが当然のことであろう。

 なお良頼が関白近衛前嗣の偏諱を得て、「嗣頼」と改名したことは先に陳べた。

 しかしこれなど栄典の類いであって、事実改名後も周辺諸勢力とのやりとりでは「良頼」と記されていることから、今後作中でも継続して「良頼」と表記するので、その旨了承願いたい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ