姉小路古川継承(四)
このように、「ひだのみつぎ」若しくは「ひだの光頼」が、姉小路三家入りを明確に希望していたにもかかわらず、下された勅許は不可解そのものとしか言いようがない。「御湯殿上日記」十月六日条である。
飛騨介への勅許関白へいださるゝ
と、突如降って湧いたような記事が出現するのである。
飛騨介任官の勅許は、関白近衛前嗣を通じて光頼に下されたものだろう。このころ既に飛騨守の職にあった良頼を、いまさら次官たる飛騨介に任ずるはずがないからである。
七月十九日条にいう「ひだのみつぎ」が飛騨三木家か三木光頼個人かという点で議論があったとしても、その求めるところが姉小路三家のうちに入りたい、という点については、八月八日条まで一貫していたはずであり、論争の余地はないように思われる。にもかかわらず、十月六日に下された勅許は、右のとおり姉小路三家入りとは何の関係もないく、三木家自身も求めていない「光頼の飛騨介任官」というものであった。
正親町天皇は関白近衛前嗣から
「三木光頼を姉小路三家のうちに入れたい」
という上申書(申文)の提出を受けておきながら、これを無視して
「光頼を飛騨介に任ずる」
と、誰からも求められていない勅許を下しているのである。
つまり光頼は姉小路三家入りを許されず、飛騨介任官でお茶を濁されていることが読み取れる。
ここで今一度、七月十九日条の「ひだのみつぎ」という記述の意味に立ち戻ってみたい。「ひだのみつぎ」を、飛騨三木家を指すものと読むか、八月八日条に記されているとおり三木光頼個人を指しているものと読むか、という問題である。
いうまでもなく中世日本は、個人の栄達よりも家のそれが優先される社会であった。家を個人の上位に置く社会通念が厳然として存在している時代だった以上、三木光頼の個人的な栄典を求めて姉小路三家入りを奏請したということもないとはいえないだろうが、やはり三木家という「家」の栄達を求めて、家格の上昇を申請したと考える方がはるかに自然ではなかろうか。その意味からも、七月十九日条にいう「ひだのみつぎ」は、光頼個人ではなく文字どおり飛騨三木家を指していると読む方がどうも妥当なように思われる。
つまり七月十九日時点では飛騨三木家の姉小路三家入りの奏請がなされていたにもかかわらず、八月八日時点では一段格が下げられ、光頼個人のそれに置き換えられていると読み取れるのである。
ただ、やはり格下げの意思決定が、上申者である関白近衛前嗣の自主的判断によるものか、他から検討が加わってそうなったものかは、「御湯殿上日記」の簡素な記事からでは読み解くことが出来ない。
前述したとおり、「ひだのみつぎ」の姉小路三家入り奏請から始まった一連の政治動向は、結局光頼個人の飛騨介任官という、竜頭蛇尾を地で行く結果に終わっている。
飛騨介への勅許関白へいださるゝ
「勅書」とある以上、その最終決定権者は間違いなく正親町天皇である。
近衛前嗣という人物は、後年上杉謙信や織田信長と友誼を取り交わし、公家と武家政権との橋渡し役を買って出て公武一体の政治を目指した朝家の忠臣などとされるが、この一地方豪族の任官を巡る取扱いひとつ取ってみても、天皇家にとって与しやすい人物などでは断じてなかったことが自ずと覗われる。
私には、このころの近衛前嗣の政治動向が、武家の存在を利用した天皇権威への飽くなき挑戦に見えて仕方がないのである。
想像を逞しくすれば、この時期、天皇と関白との間に、官途推挙権を巡ってのっぴきならぬ対立があったのではなかろうか。
既にこの時期、三木良頼を猶子として迎えていた近衛前嗣は、幕府経由で奏請された「姉小路三家に入りたい」という良頼からの希望を実現させることを望んでいた。しかし官途推挙権を行使することにより自らの権威を拡大しようとテコ入れを図る近衛前嗣を牽制するために、天皇側が「三木家の姉小路三家入り」という希望を「三木光頼個人の姉小路三家入り」にすり替えるよう横槍を加え、しかも最終的にはそれすらも御破算にしてしまい、光頼の姉小路三家入りどころか飛騨介任官という、奏請段階から比較すれば随分矮小化した形でこの政争に強引に幕を引いた、というのが案外真相なのかもしれない。
であれば、飛騨三木家の姉小路三家入り奏請を政争の具とした正親町天皇と近衛前嗣の争いは、正親町天皇の勝利に帰したということになる。
しかしそれはまだ第一ラウンドといったところで、第二ラウンドは時節に譲る。




