姉小路古川継承(三)
さてここで、前節まで縷々記した永禄二年(一五五九)七月十九日から「御湯殿上日記」に随時記録されている光頼の飛騨介任官に至るまでの記事に検討を加えてみたい。
まずは七月十九日、
ぶけへひだのみつぎ、三国司の内へ入たきよし申さるゝ
とあるのは、朝廷にとっての武家代表即ち将軍義輝に対し、飛騨の三木が三国司家入りを希望したという意味であるが、その後八月八日付の記事で
くはんぱくより、ひだの光頼三国司のうちへの事申文いださるゝ
とあって、七月十九日時点では「ひだのみつぎ」とされている表現が、八月八日条では「ひだの光頼」という表現に微妙に変化していることが分かる。「ひだのみつぎ」は飛騨の三木家という「家」を連想させるが、「ひだの光頼」は明らかに「光頼個人」を指している。似て非なるものである。
このことは、最初から三木光頼の名で三国司入りが奏請されていたが、七月十九日の記事を記した女官なりの官人が、光頼を指して「ひだのみつぎ」と単に記しただけの話か、若しくは、当初は飛騨三木家という「家」単位で三国司家入りが奏請されたにもかかわらず、朝廷の間で種々の検討が加わった結果、改めて八月八日、三木光頼という「個人」を三国司のうちに入れることが関白(近衛前嗣)から上申されたかのどちらかを指している。
「御湯殿上日記」は禁裏に勤める女官が代々書き継いだ勤務日誌であるから、書き手は当然単数に限定されるものではない。
文明九年(一四七七)から文政九年(一八二六)までのちょうど三五○年間、脈々と書き継がれてきた日誌であり、記者は何百人にも及ぶであろう。時によっては天皇自らが記載したと思しき箇所もあるほどの貴重な宮廷記録であり、記者、記事ともに膨大な量に及ぶ日記記録である。
博識の読者諸氏にとっては釈迦に説法であろうが、戦国史上最大の謎に「三職推任問題」という論争がある。
天正十年(一五八二)四月下旬に、織田信長を関白か太政大臣か、はたまた征夷大将軍に推任するよう申し入れたのは何者で、誰に申し入れたのか、から始まり、そこから織田信長の朝廷に対するスタンスを解読しようという日本史上最大級の論争である。
廿五日
天晴、村井所へ参候、安土へ女はうしゆ御くたし候て、太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然候よし被申候、その由申入候
従来「天正十年夏記」と称されていた断簡の右一文が、永年論争の的であった。
この「天正十年夏記」が、武家伝奏を勤めた勧修寺晴豊の日記「晴豊公記」の欠損部分であることが判明したのは昭和四十三年(一九六八)のことである。
このことを前提として歴史学者の立花京子氏は「晴豊公記」に一貫する「被申候」の用法について詳細な検討を加えられ、「太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然候」の発言者を京都所司代村井貞勝と特定された。卓見であり従うべきであろう。
しかしかかる芸当は、「晴豊公記」の記者が勧修寺晴豊という一個人に限定されるからこそ可能なのであって、「御湯殿上日記」のように、書き手が多数に渡る場合、文体や字体といった文章の持つ癖や用法から、「ひだのみつぎ」が三木家を指すものか、或いは三木光頼という「個人」を指すものかを特定することは、他の傍証史料がない限り不可能と言わざるを得ない。
次に、「ひだのみつぎ」或いは「ひだの光頼」が望んだという「三国司」についても考察したい。
これは「三国司」とある以上、単に国司職というのではなく姉小路三家を指す語と断定して差し支えあるまい。
もし「ひだのみつぎ」が国司という職を望んだのであれば、ひだのみつぎの代表者はいうまでもなくこのころの家督者良頼なのであって、既に飛騨守任官を果たしていた良頼が重ねて国司を望んだということになり辻褄が合わない。
「三国司」という語は、すんなりと姉小路三家と読み替えるのがやはり妥当であろう。
なお、飛騨姉小路家、土佐一条家、伊勢北畠家をさして「戦国三国司」とする場合もあるが、三木家が飛騨姉小路家以外を望むはずがないので、この語は考慮の外とする。
「ひだのみつぎ」若しくは「ひだの光頼」の希望は飽くまで姉小路三家入りであること、そして、その希望を幕府を通じて朝廷に明示していることは、ここで改めて確認しておきたい。




