第2話『荒野のふたり』(2)
「おはようございます、ご主人様っ」
プラーヤがテントから顔を出すと、ナツキが能天気な笑顔で出迎えた。夜が明けたばかりで、外はまだ薄暗い。
「……おはよう」
数秒の沈黙の後、プラーヤは挨拶を返した。
「お早いお目覚めですね。まだ朝食のご用意ができておりませんので、これから――」
「なっ……それは駄目だ! 僕がやる!」
「そういうわけには参りません。身の回りのお世話はナツキの仕事ですから」
「駄目だと言ったら駄目だ!」
言った後でプラーヤは「しまった」と思ったが、ナツキはただきょとんとしていた。
「あ、その……」
「承知いたしました。ご主人様がそう仰るのでしたら」
予想に反し、ナツキはにっこりと笑って承服した。
「それよりも……どうして、こんなに早く起きてたんだ?」
「ナツキは、ずーっと起きておりましたよぉ」
「えっ……?」
驚いてナツキの顔を眺めた。屈託のない笑顔には、あくびをする気配も感じられない。
「ずっと、起きてた? どうして?」
「征討軍の部隊が近くにいるかも知れませんし、ひょっとすると怪獣が現れるかも知れません。ご主人様に何かあっては大変です。ですからナツキが不寝番をしておりました」
「なっ……僕はそんなこと頼んでないぞ!」
「そうは仰いますが、ご主人様をお守りするのもメイドの務めですので」
そう言って微笑むナツキの傍らには一振りの短剣があった。
鉄の鞘に収まった片刃の短剣は刃渡り四十センチほどで、現在では珍しい木製のグリップは長さが十センチほどしかなく、鉄の柄頭を備えていた。鍔はとりわけ奇妙な形状で、刃の側は上に大きく湾曲して伸び、峰の側には丸い大きな穴が空いていた。
ナイフとして使うには長過ぎ、剣として使うには短過ぎる。しかも、ここまでグリップが短くては片手でしか握れない。
とても実戦向きとは思えない短剣を見ているうちに、怒りが湧いてきた。
――守る……僕を? こんなもので……?
「余計なお世話だ! 自分の身は自分で守れる!」
ナツキが再び、きょとんとした表情で黙り込んだ。
その表情を見ているうちに、自分が悪いことをしているように思えてきた。
「うっ……とにかく。寝るのは僕だけ、なんてのは駄目だ。どうしてもというなら不寝番は交代制にしよう」
「交代制……ですか? はてな。ナツキは問題ありませんのに。もっとナツキのことを好きにお使いくださいませ、ご主人様」
「好きに……って」
プラーヤは一瞬だけナツキの豊満な胸に目を落とすと、慌てて目を逸らした。
「僕は……人に命令するのが厭なんだ。そんなことはできない」
「左様でございますか」
ナツキは小首を傾げてしばし考え込んだ後、にっこりと笑ってプラーヤを抱き締めた。
「わっ!」
「ご主人様は、本当に優しい方です!」
「暑苦しい、離せ!」
「うふふっ」
プラーヤはナツキの腕から抜け出そうと激しく抵抗したが、振りほどくことはできず――そのうちに疲れて抵抗をやめた。
「おいしーいっ! ご主人様っ、とってもおいしいです!」
ナツキは満面の笑みを浮かべてスプーンを口に運んだ。
「……ん」
プラーヤは自身で用意した朝食を、ナツキと二人で摂っていた。
大豆ミートと乾燥野菜を固形コンソメで煮たスープに乾パン。「食べられないことはない」程度のものを作ったつもりだったので、ここまで喜んで食べるとは思っていなかった。
「まったく……食事も満足に作れないなんて。メイドが聞いてあきれる」
「申し訳ありません、ご主人様。ナツキは料理が不得手でして」
謝罪を口にしながらも、ナツキは笑顔だった。
「不得手ってレベルじゃないぞ、あれは! どうしたら食材を毒に変えられるんだ?」
「申し訳ありません。もっと練習しますので」
「やめろ。食材を無駄にするだけだ」
プラーヤは目も合わせずに言うと、乾パンを立て続けに口へ放り込んだ。
「うーん、うまくいかないものですねぇ。多くの土地を渡り歩いておりますが、どこのお屋敷やお店も三日でナツキにお暇をくださるのです」
「三日も雇ってくれた人達に感謝しろよ。僕なら一日で追い出すところだ」
「うふふっ」
ナツキが不意に笑った。
「……何だよ? 気持ち悪いな」
「そうは仰いますが、ナツキを追い払うことなく、こうしておそばに置いてくださるんですもの。ご主人様は本当に優しい方です」
「……ふん」
不機嫌を隠そうともしないプラーヤの横顔を見つめながら、ナツキは幸せそうにスプーンを口に運んだ。
「ご主人様、本当においしかったです……ごちそうさまでしたぁ」
ナツキは飯盒を空にすると、姿勢を正して恭しく手を合わせ、目を閉じた。
「食べる前にも同じことをやってたけれど……それは何かの儀式なのか?」
「私の祖先の地にかつて存在した慣習です。食べる前には『いただきます』、食べた後には『ごちそうさま』と言って料理を作ってくれた人、食材を用意してくれた人、そして食材そのものへの感謝を表すのです」
「食材にまで感謝するのか? 肉や魚、野菜にまで?」
「左様でございます」
「変なの。食べた後で感謝するくらいなら、最初から食べなければいいだろ」
ナツキがきょとんとしてプラーヤを見つめた。
「な……何だよ」
「はてな。ご主人様は、食べることが悪いことだとお考えですか?」
「そんなことはないけれど……食べるってことは、その生き物を殺すってことだろ?」
「左様でございます」
「殺した後で感謝を述べられたところで、殺された生き物は喜ばないんじゃないのか?」
ナツキが微笑んだ。
「確かに、ご主人様の仰る通りかも知れません。食材となった生き物に祈りが届くかどうかも分かりません。ですが……大切な命を頂くことへの感謝を忘れると、人は命を軽んじるようになる。ナツキの師はそう言っておりました」
「命を、軽んじる……」
そう口にして、プラーヤは大きくかぶりを振った。
「その話は……もういい」
「承知いたしました、ご主人様」
プラーヤはナツキの視線から顔を背けるようにして、スープをかき込んだ。
自分の作る料理を姉――マヤはいつも無言で食べていたことを思い出した。自分の作った料理を「おいしい」と言ってもらったのは、これが初めてだった。
「ところで、ご主人様っ」
「なんだよ」
「おかわりをくださいませんか。『ごちそうさま』と言ったばかりで恐れ入りますが、ナツキはやはり食べ足りません」
笑顔で飯盒を差し出すナツキを前に、プラーヤは必死で怒りをこらえた。あの黒い炎が発動してはまずい。
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「ご主人様っ。今日は本当にいいお天気ですねぇ~」
プラーヤは耳を疑った。振り返ると、能天気な笑顔があった。
顔をしかめながら額の汗を手で拭うと、ナツキがトランクからタオルを取り出した。
「ご主人様。こちらのタオルをお使いくださいませ」
ナツキが差し出したタオルを無言で受け取り、汗まみれの顔と首を拭く。日に焼けた首筋がひりひりと痛んだ。
廃墟と化したクナーシュを離れ、野営を繰り返して西へ歩くこと一二〇キロ余り。それでも最初の目的地・アルセントまで三〇キロの距離を残していた。
直射日光が照りつける中、プラーヤとナツキは未舗装の道路をひたすら歩き続けた。
地平線は陽炎の彼方にある。草木も枯れる灼熱の大地は太陽と一体になってプラーヤを苦しめ続けた。
「ご主人様、どこかで天幕を張って休憩しませんか? お疲れのままで歩くのはよろしくありませんよぉ」
「僕は疲れてなんかいない!」
語調も荒くナツキを睨みつける。すぐにナツキはかしこまって頭を下げた。
「申し訳ありません、ご主人様。ご無理をなさってはいけないと思いましたもので」
「……もういい。それより、そっちは疲れないのか。そんな大きなトランクを持って」
「ありがとうございます。ナツキは問題ありませんよぉ」
顔を上げて微笑むナツキを、頭の天辺から爪先まで眺める。
丈の長いエプロンドレスと革の編み上げ靴を身に着け、左手には大きなトランク。腰には革のベルトを締め、短剣や雑具入れを提げている。
暑苦しい服を着て重い荷物を持っているというのに、この炎天下で汗一つかいていない。三日間の過酷な移動の中で、ナツキは一度も疲れた顔を見せていなかった。
プラーヤは目を疑った。長距離行軍の経験も豊富な自分がこの有様だというのに……。
「ご主人様、どうかなさいましたか? そのようにして見つめられると、ナツキは少し恥ずかしいですよぉ」
ナツキは笑顔のまま、小首を傾げてみせた。
「僕は……幻を見てるのか?」
「幻……?」
しばし、きょとんとした表情を見せた後でナツキが微笑んだ。心なしか、これまでの笑顔よりも真剣な表情に見えた。
「いいえ、幻ではありません。ナツキは……ご主人様のメイドは目の前におります」
そう言ってナツキは水筒を差し出した。
「ご主人様、お水をどうぞ」
「……ん」
苛立ちと共に水筒をあおる。自分が喉を鳴らして飲む様をナツキが笑顔で眺めているのが分かると、顔を背けて水筒から口を離した。
「……そっちは飲まないのか」
「ナツキは問題ありません。ご心配してくださってありがとうございます、ご主人様」
プラーヤは舌打ちをしてナツキを睨みつけた。
「……誰も、心配なんかしてない! いいから黙って歩け!」
ナツキがきょとんと目を丸くしてプラーヤの視線を受け止める。
プラーヤが「しまった」と思って口ごもると、ナツキは顔を綻ばせた。
「承知いたしました、ご主人様。ナツキはしばらく黙ります。御用がありましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
プラーヤは無言でナツキに背を向け、再び歩き出した。
これまで感じたことのない何か――。その正体が分からないことが余計に心をかき乱す。それは別としても、ナツキと一緒にいて気の休まる暇はなかった。
料理と称して猛毒を作り、洗濯と称して服をボロ布に変える。物を預ければ失くす。その上、食事の量は自分よりもずっと多い。結局、道中の家事の一切を自分がやっていた。
メイドを名乗りながら役に立つことは一つもなく、貴重な食料を食い潰し無駄口を叩くだけ。こんなことなら同行を許すのではなかった……そう思っても後の祭りだった。
プラーヤは一瞬だけ振り返り、ナツキの表情を窺った。この能天気な笑顔を前にすると、自分が自分でなくなってしまいそうだった。
彼女はプラーヤがこれまでに会った、どの人間とも違っていた。
微笑みに背を向け、少年は奔る。
死ぬならば、二人より一人がいい。
悲愴な勇気は誰が為のものか。
憎しみの刃がその身を裂く時、迸る血が炎へと変わる――。
次回『僕には関係ない』
見捨てられた少女は、まだ涙を知らない。