第2話『荒野のふたり』(1)
雨が降りしきる雑踏の中、自らの手を引く少女の背中を見上げながら走った。
握られた手の痛みに耐えながら、小さな足を必死に動かし追い縋った。少女の歩みはとてつもなく速く、立ち止まれば腕が引き抜かれてしまいそうだった。
白い軍服を着た少女は手を握ったまま、振り返ることも声を発することもなく、ひたすらに先を進んだ。
行先も告げられず、空っぽの胃袋を片手で押さえながら走り続けた。
物心ついたばかりの頃、村の農夫が些細なことで兵士に殺される瞬間を見たことがあった。自分もそうなるのではと怯えていた。
いつまで走ればいいのだろう。心の中で呟いた瞬間、足を滑らせた。気づいた時には、身体が宙を舞っていた。
強く手を握られている為、受け身も取れなかった。反射的に目を瞑り、冷たい石畳に叩きつけられるのを覚悟したが――。
「あれ……?」
恐れていた痛みも衝撃もなかった。温かく柔らかいものが身体を受け止めていた。
恐る恐る目を開けると、暗い鳶色の瞳が目の前にあった。少女の胸に身を預けていることにやっと気づいた。
少女の顔を、初めて間近で見た。首までの長さに切り揃えられた艶のある黒髪と白い肌が印象的な、美しい少女だった。
自分より年上だが、それでも兵士としては幼い。それだけに目の鋭さが際立ち、視線を合わせているだけで恐ろしさが込み上げてきた。
起き上がろうとするも、強く抱き締められて身動きが取れなかった。少女は無言でこちらを見据えるだけで、言葉を発する気配もない。
数秒の視線の交錯の後で少女はこちらを抱き起こすと、自身も静かに立ち上がった。
「あ、ありがとうございま――」
言いかけて、大変なことに気がついた。少女の髪と軍服が泥だらけになっていた。
「ご……ごめんなさい! ご主人様……!」
慌てて少女の手を振りほどき、雨に濡れた地面にひれ伏した。
名前も知らない少女を何と呼べばいいのか分からず、口をついて出たのは使ったこともない『ご主人様』という言葉だった。
「……ご主人様?」
それまで殆ど口を開かなかった少女が、ようやく言葉を発した。
「それは……私のことを言っているの?」
「はい。ご主人様」
ご主人様――そう呼ぶ以外に考えられなかった。何故なら、僕は――。
ご主人様。ご主人様。ご主人様。何度も反芻する、その言葉。
――ご主人様。ご主人様――。
「……ご主人様。ご主人様……!」
闇の中の独白が、誰かの声と重なった。
「ご主人様! ご主人様!」
誰かが自分を呼んでいる。「ご主人様」と――。
「ご主人様! ご主人様! しっかりしてください!」
自分を呼ぶ少女の声が、次第にはっきりと聞こえてくる。
うっすら目を開けると、エプロンドレスを着た少女が困った顔で覗き込んでいた。
「あれ……ここは……?」
「ご主人様! お目覚めになったのですね! よかったぁ~!」
少女――ナツキはプラーヤを力いっぱい抱き締めた。
「わぷっ!」
豊満な胸に顔が埋め込まれ、再び視界が真っ暗になった。
「一時はどうなることかと思いましたぁ~! もう、大丈夫ですかぁ?」
「むーっ、むーっ!」
密着した胸が鼻と口を塞ぎ、返事はおろか呼吸さえできない。
「ご主人様ったら、急に倒れてしまうんですもの。びっくりしましたよぉ~」
「むーっっ! むーっっ! むーっっ!」
身動き一つ取れなかった。一見して華奢な身体からは想像もできない腕力だった。
――冗談じゃない……こんなことで死んでたまるか!
「うぁぁぁぁーっ!」
間一髪、意識が遠のく寸前でナツキの腕をすり抜けた。
「きゃっ」
ナツキの抱擁から逃れたプラーヤは地面に手を着くと、肩で大きく息をした。
「はいっ、ご主人様っ。お水をどうぞ」
ナツキが何事もなかったかのようにアルミ製の軍用水筒を差し出すと、プラーヤは無言で受け取り一気に飲み干した。
「はぁ……はぁ……し、死ぬかと思った……!」
プラーヤは額の汗を拭うと、辺りを見回した。
そこは小さな川の畔だった。星も見えない夜空の下、簡素なテントの傍らに置かれたランタンが頼りない光で宵闇を照らしていた。
「もうっ。大袈裟ですよぉ~、ご主人様っ」
「全然、大袈裟じゃ……って。『ご主人様』……?」
「はい、ご主人様っ」
ナツキの能天気な笑顔を前にして、プラーヤは廃墟の街で交わした言葉を思い出した。
「ご主人様? 冗談はやめてくれ。僕には人を雇うようなお金も地位もない」
ナツキは笑ってかぶりを振った。
「ナツキにとって、そんなことは関係ありません」
「意味が分からない。僕なんかに仕えて何の得があるんだよ」
「あなたはナツキに無いものをお持ちでいらっしゃいます。それは……ナツキにとって何より必要なものです」
「必要なもの……?」
ナツキは自身の胸に手を当て、目を閉じた。
「ナツキに無いもの、ナツキに必要なもの……それは、悲しみです」
「……悲しみ?」
ナツキは微笑んで頷いた。
「左様でございます。ナツキには、あなたの持つ『悲しみ』が必要なのです。ナツキは悲しみという感情を理解したいのです。どうか、ナツキが悲しみを理解できるまで……おそばに置いていただけませんか。その後は、決してご迷惑をおかけいたしません」
結局、あまりにしつこく同行を求められた為、助けてもらった恩もあり同行を許した。
「ナツキはかつて、師から命じられたのです。『お前は悲しみを知らない。旅をして人々と触れ合い悲しみを知れ』と。その後、ナツキはメイドという天職を見つけて旅を……」
「ふーん」
「師はナツキにとって、育ての親でもありました。ナツキはその人から生きる術を授けられたのです。ナツキはその教えを胸に……」
「ふーん」
街を出発してからナツキはそれまでの経緯などを語って聞かせたが、プラーヤは彼女の話に全く興味が持てず、聞き流した。
ただ一つ、自身の得た力についての忠告を除いては。
「ご主人様。恐れ入りますが、魔法の力……黒い炎を繰り出す力は、あまりお使いにならない方がよいかと思います」
「どうして、そんなこと言うんだ? あの力……魔法がなきゃ、征討軍とは戦えないのに」
ナツキは「ごもっとも」と言わんばかりに何度も頷いてから、言葉を紡いだ。
「確かに仰る通りです。ですが、ナツキは師から聞いたことがあります。魔法とは命を担保として用いる術だと。そして魔力とは命そのものなのだと」
「命……? 魔力の適性さえあれば、誰だって魔法器具……いや、魔法が使えるんだぞ。水道や照明に加熱器具、自動車……戦闘用じゃなくても魔法器具を使ってる人はたくさんいる。そういう人はみんな、命を削ってるって言うのか?」
「いいえ、ご主人様。魔力結晶を動力源とする器具を用いることは、魔法を用いることと同義ではありません」
「……僕にはよく分からないな」
ナツキはにっこり微笑むと、両手を揃えて深々と頭を下げた。
「な……何だよ」
「申し訳ありません、ナツキにも詳しく説明することはできません。ですが、ご主人様の魔力結晶は、ご主人様の心臓と一体になっていると思われます。そして、魔力がそこから供給されている以上、魔力を用いることがお身体に負担をかけるのは間違いありません」
「そういえば……僕が死ぬ時に爆弾も爆発するとオリアンも言ってたな」
「左様でしたか。でしたら尚のこと、魔法の使用は慎重になさってくださいませ」
「慎重も何も……魔法の使い方そのものを僕は知らないんだぞ」
「魔法は使用者の精神を具現化したもの。ご主人様の魔法は、怒りと闘志に結び付いています。何かに怒った時、誰かを倒したいと思った時に……それは自然と発現するでしょう。これから先、そうした機会が必ず訪れるはずです。ですが、魔法だけに頼ることなく……まずはご自身の持つ本来の力を、本来の強さを信じてください」
プラーヤは腑に落ちないものを感じながらも頷いた。
オリアン率いる征討軍第十五遊撃旅団がどこへ向かったかは分からない。まずは最寄りの街である小都市・アルセントで情報収集をすることにした。
素性の知れない少女と連れ立って旅をすることに不安はあったが、オリアンへの復讐という自身の企てを話した以上、放っておくわけにもいかなかった。
プラーヤはナツキとのやり取りを整理すると、真新しいジャケットの袖を見ながら小さくため息をついた。
胸元にプリーツの付いた真っ白なシャツに青いヴェストとジャケット、ハーフパンツ。襟を飾る赤いリボンタイ――。ナツキがトランクケースから取り出した衣類一式は靴下と靴に至るまで、オーダーメイドのようにぴったりだった。
見た目だけなら、確かに良家の御曹司に見えるかも知れない。
事実、プラーヤは偵察任務を遂行する上で様々な役柄を演じていた。その中には資産家や有力者の子息なども含まれ、テーブルマナーや上流階級の嗜みも身に着けていた。
それは、故郷の村にいた時には考えもしないことだった。
命の危険があることを除けば、タロス都市同盟軍での生活は故郷の村と比較して遥かに恵まれていた。満腹になるまで食事を摂ることも、風の吹きこまない宿舎で眠りに就くことも、読み書きをすることも――軍に入って初めて体験したことだった。
故郷の村が怪獣に襲われ滅びたと風の噂で知ったのは、軍を離れてすぐのことだった。
――姉さんに会わなければ、僕は……。
「ご主人様?」
思案に耽るプラーヤの顔をナツキが覗き込んだ。互いの頬が触れんばかりの近さだった。
「うわぁぁっ」
プラーヤが慌てて飛び退くと、ナツキはその分だけ歩み寄って顔を近づけた。
「どうかなさいましたか? ご主人様」
「ち……近いんだよ。もう少し離れて……」
「いけませんかぁ? うふふっ」
プラーヤは能天気な笑顔から目を逸らし、再びため息をついた。
「そんなことよりも、ご主人様っ」
そう言って、ナツキが何かを差し出した。
「ひっ……!」
危険を感じ、後方宙返りでその『何か』から離れた。飯盒に盛られたドス黒い外見のそれは鼻から脳天を貫くような異臭を放っていた。目の錯覚か、周囲の空間が歪んで見えた。
「な……何だ、それ!」
「ご主人様、お食事がお済みではありませんよぉ。今日はしっかり召し上がって、お休みになりませんと」
ナツキがその『何か』を手にしたまま、歩み寄る。
「や、やめろ! それ以上、近寄るな!」
「いけませんよぉ、ご主人様ぁ。ちゃんと召し上がりませんと。せっかく栄養のある食材をふんだんに入れて作ったのですから――」
そこまで言われて、プラーヤはハッとした。
「ちょっと待て。もしかして僕が気を失ったのは……」
「はい。ご主人様はナツキの作ったシチューを一口召し上がると、そのまま意識を失われてしまったのです。一体、どうしたのでしょう?」
「今、手に持ってるそれが原因だよ!」
ナツキはきょとんとした顔で、手元の飯盒を覗き込んだ。
「このシチューがどうかなさいましたか? 手持ちの乾燥野菜全種類と栄養がありそうな野草とキノコと大豆ミートと干し魚を入れて、元気の出る香辛料とハーブとお塩とお砂糖とお酢とお味噌と豆板醤とブルーベリージャムと脱脂粉乳と――」
「わーっ! もういい! とにかく一口、食べてみろ!」
「お言葉ですが、それはできかねます。メイドがご主人様のお食事に手をつけるなど、以ての外ですので」
「そういう問題以前の話……って」
プラーヤはランタンの傍らに置かれたものに気がついた。封の空いた袋入りの乾パンと蓋の空いた缶詰だった。
「……その乾パンと缶詰は?」
「ナツキの食事ですよぉ」
「ちょっと待て。どうして僕と違うものを食べてるんだ?」
ナツキはにっこりと微笑んだ。
「よくぞ聞いてくださいました。こんな格言があります。『庖人は調和すれども敢えて食わず』と。即ち、料理人は料理を作っても自分では食べない。だからこそ料理人である、という意味です。よってナツキも、ご主人様の為に作った料理を食べるわけには参りません」
「ちょっと待て。まさか、味見も……」
「してません!」
プラーヤは無言で乾パンと缶詰を奪い取った。
「ああっ何をなさいます! それはナツキの分ですよぉ!」
「やかましい!」
プラーヤは奪った食料をあっという間に食べ尽くした。缶詰の中身は豆とパスタをトマトソースで煮たもので、それなりの味だった。
「僕は寝る。その物体は責任を持って自分で食べろ。川に流したり地面に撒いたりするんじゃないぞ。川と土が汚染される」
「川に流す? 地面に撒く? 汚染? はてな。どういうことでしょう?」
「とにかく自分で食べろ。分かったか」
「不本意ですが……ご主人様がそう仰るのであれば、ナツキは従わざるを得ません」
プラーヤは鞄から毛布を取り出すと、テントに潜り込んだ。
「おやすみなさいませ、ご主人様。どうぞよい夢を」
プラーヤはナツキが言い終わる前にテントの入口を閉め、毛布にくるまった。
しばらくするとテントの外から悲鳴が聞こえてきたが、気にせず眠りに就いた。