第10話『さようなら、ご主人様』(1)
チェルフカ市庁舎一階のホールに設けられた献花台では、多くの人々が花を手向け、祈りを捧げていた。
街の郊外で防衛に就いていたチェルフカ防衛隊員千二百六十五名、地震による犠牲者、クナーシュをはじめとする近隣の街や村の人々――征討軍第十五遊撃旅団によって命を落とした人々を弔う追悼式が、厳かに執り行われていた。式場となった市庁舎前広場には先日までの閑散とした様子が嘘のように、多くの市民が詰めかけていた。
プラーヤは白いカーネーションを持ち、献花の順番が回ってくるのを静かに待っていた。
勤務服である黒いスリーピーススーツに黒いネクタイを締め、葬儀用の礼装とした。
隣に立つリディアは遺跡での戦いで着ていた礼装を身に着けていた。リディアの希望に応え、プラーヤは汚れを綺麗に落とし、破れやほつれを丁寧に修復して新品同様にした。
ナツキも普段のエプロンドレスではなく、黒い礼装を身に着けていた。
前列の一家が献花に向かうと、リディアがプラーヤとナツキを促し献花台へと向かった。
プラーヤはリディアの見様見真似で献花台に花を置くと、静かに目を閉じた。
――姉さん、さようなら。僕の姉さんになってくれて、ありがとう――。
初めての式典で緊張したことも加わり、マヤの為に用意した言葉は簡単なものだった。
祈りの後、献花台を後にして市庁舎の出口へと向かう。不思議と涙は出なかった。
三人で揃って市庁舎の外へ出た時のことだった。
「こんにちは。リディアお嬢さん……ですね」
喪服を着た妙齢の女性が歩み寄り、微笑みながらリディアに会釈をした。
「はい。リディア=ハセルハールは私ですが……」
「はじめまして。私はイリーナ=クレスファンと申します。ヤコブ=クレスファン兵長の姉です。弟が大変お世話になりました」
「クレスファン兵長……」
ややあって、リディアはそれが誰のことか悟った。
「相談窓口の、兵長さん……?」
イリーナが微笑みながら頷いた。
「はじめまして、イリーナさん。私、兵長さん……ヤコブさんには、随分と迷惑をかけてしまって。申し訳ありませんでした」
リディアが頭を下げようとすると、イリーナはその肩に触れた。
「謝ることなんてありません。弟は家に帰ると、いつもお嬢さんの話をしてたんですよ。とっても楽しそうに。弟は……お嬢さんに会えて幸せだったと思います」
イリーナの穏やかな笑顔を前に、リディアの唇が震えた。
「イリーナさん。兵長さん……ヤコブさんは、最後まで私を気遣ってくださいました。亡くなるその時まで……私を心配させまいと笑顔だったんです。本当にいい人でした。私……最後まで兵長さんに迷惑をかけてばかりで――」
言い終わる前に、リディアはイリーナに抱き締められていた。
「お嬢さん、本当にありがとうございました。弟に、ヤコブに何度も会いに来てくれて。最期を看取ってくれて。最期を看取ってくれたのがお嬢さんで……本当によかった」
リディアの肩に温かな雫が落ちた。
それがイリーナの涙だと分かった瞬間、リディアは声を上げて泣いた。
式典の会場へと向かう人、会場から出る人が、リディアとイリーナの姿に涙を流した。
気がつけば、プラーヤも泣いていた。ようやく泣くことを許されたような気がした。
やがて、身体が優しい温もりに包まれた。すぐにナツキだと分かった。
「ナツキ……ありがとう」
自然と感謝の言葉が出てきた。何も言わずに抱き締めてくれるナツキの優しさを、人の優しさを、これほど素直に受け入れたことはなかった。
ひとしきり泣いた後、プラーヤは涙を拭い、顔を上げた。
「ナツキ……?」
プラーヤはナツキの顔を見上げて、動きを止めた。
「ご主人様……どうかなさいましたか?」
「ナツキ……泣いてるのか」
ナツキの目から、一筋の涙が溢れていた。
「えっ……?」
ナツキは自らの頬に手を触れ、ようやく自身が泣いていることに気づいた――。
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「市民の皆さん。皆さんが愛し、守り続けてきたこの街……チェルフカは大きな傷を負いました。この私、アルヴリーサ=ハセルハールはチェルフカ市長として……」
献花が終わり、広場では黒い礼装に身を包んだアルヴリーサが弔辞を読み上げていた。
街の上には、雲一つない晴天が広がっていた。
「この街を守る為に倒れた防衛隊の将兵と、地震に巻き込まれて命を落とした人々。そして、クナーシュ、アルセントをはじめ、近隣の街や村で命を落とした人々がいます。征討軍は街を去りましたが、それは絶対の安全を意味するものではありません。この戦乱の時代で、生き残った私達がすべきことは……」
アルヴリーサの凛とした声に人々が耳を澄ます中、プラーヤは広場の周りを走っていた。
「ナツキの奴、一体どこに……!」
息を切らして立ち止まるプラーヤの下にリディアが駆け寄る。
「どう、見つかった? ……って、聞くまでもないわね」
プラーヤはため息をつきながら頷いた。
「どこにも見当たらない。弔辞が終わったら会食だと言っておいたから、それまでには戻ると思いたいけれど」
「食べ物以外のことで考えられないの……さすがにかわいそうなんだけど」
「それにしてもナツキが何も言わずにいなくなるなんて、これまでなかったのに」
「何か心当たりはないの?」
プラーヤが首を傾げた。
「心当たりって言われても……ナツキがお昼をすっぽかすなんて考えられないし」
「だから! 食べ物から離れなさいって!」
「そう言われても……三度の食事と三時のおやつよりもナツキが優先するものがあるなんて、僕には思えないし」
リディアが頭を押さえて大きくため息をついた。
「ナツキもひどい主人を持ったものね。そんな言葉を聞いたら、きっと悲しむわよ」
「本当のことなんだから、しょうがな――」
プラーヤは言いかけて、リディアの発した言葉を反芻した。
「悲しむ……?」
そして、ナツキが自分を抱き締めながら、初めて見せた涙を思い出した。
――ナツキは悲しみという感情を理解したいのです。どうか、ナツキが悲しみを理解できるまで……おそばに置いていただけませんか――。
脳裏に蘇ったのは、出会った時にナツキが口にした言葉だった。
「まさか……あいつ!」
そう口にするのと同時に、プラーヤは駆け出していた。
「あっ! どこへ行くのよ、プラーヤ!」
「ナツキの奴……この街を出て行くつもりだ!」
プラーヤは振り返ることなく言うと、郊外へ通じる道路をひた走った。
「あっ、ちょっと! もう……プラーヤったら!」
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「はぅぅ~……」
ナツキはチェルフカ市の郊外に広がる森の中を歩いていた。黒い礼装ではなく、普段着のエプロンドレスを身に着け、手には大きなトランクケースを持っていた。
「お腹、空いたぁ……」
独り言を呟きながら、そっとお腹をさすった、その時。
「そんなにお腹が空いてるなら、なんで会食をすっぽかしたんだ?」
ナツキは声のする方へ、ゆっくりと振り返った。
「ご主人様……どうしてここへ?」
視線の先に、息を切らして自分を睨みつけるプラーヤの姿があった。
「それはこっちの台詞だ! アルヴリーサ女史は、お前の為に料理をたくさん用意してるんだぞ。ほら、戻るぞ。リディアも心配してる」
ナツキはその場を動こうとしなかった。
「おい、ナツキ! 早く――」
「ご主人様は……ナツキと、初めて会った時のことを覚えておいでですか?」
ナツキはプラーヤの言葉を遮って問いかけると、俯いて拳を握り締めた。
「ナツキはようやく……悲しみとは何か理解したのです」
そう言って振り返ったナツキの目からは涙が溢れていた。
「大切な人を失う痛み……大切な何かを失う痛み。それが悲しみなのだとナツキは知りました。追悼式でリディアお嬢様の涙を……ご主人様の涙を見た時。ナツキは考えてしまったのです。もしも、ご主人様がいなくなってしまったらと」
ナツキはトランクを落とし、両手で胸を押さえた。
「ご主人様と離れることを思うと、リディアお嬢様と一緒に三人で暮らせなくなることを思うと、苦しくて……胸が痛くて。たまらないのです。ナツキは最初にお約束しました。こうして悲しみを知った以上、もうご迷惑をおかけするわけには参りません」
「バカ野郎!」
プラーヤは叫ぶよりも早く、ナツキを抱き締めていた。
「ご主人様、泣いて……悲しんでおいでなのですか?」
「当たり前だ! 勝手なこと言いやがって! 悲しみを知ったって言うなら、置いて行かれる僕とリディアの気持ちがどうして分からないんだよ!」
ナツキは自分の胸に顔を埋めて泣きじゃくるプラーヤの肩に、そっと手を触れた。
「行くなよ……! お願いだから行かないでくれ、ナツキ」
ナツキはしばしの沈黙の後、プラーヤの肩を抱きながら口を開いた。
「ナツキを引き留めてくださってありがとうございます、ご主人様」
プラーヤは腕の力を緩め、顔を上げた。ナツキの笑顔はどこか寂しげだった。
「ご主人様。少しだけ、ナツキの思い出話を聞いていただけませんか?」
プラーヤが無言で頷くと、ナツキは両手で涙を拭って微笑んだ。
「ありがとうございます、ご主人様」