第1話『はじめまして、ご主人様』(1)
夕陽を背にして迫り来る人影を、ただ呆然と見つめていた。
死神……或いは悪魔だと思った。血と焼け焦げたニオイの立ち込める廃墟の街をたった一人で歩くそれが、人間とは思えなかった。
不思議と、その場を逃げ出す気にはならなかった。
やがて、逆光で見えなかった顔が見えるのと同時に聞こえたのは――。
「お目覚めですか? よかったぁ」
美しく澄んだ……しかし、まったく緊張感のない声だった。
声の主――人影の正体は、白い肌に黒い髪の美しい少女だった。背が高く細面で、年齢は十八歳前後――自分より四、五歳ほど年上に見える。
肌と髪の色に合わせたかのような純白と漆黒の衣装に、独特の様式美を感じた。
「うふっ」
屈託のない笑顔を浮かべる少女の姿を、少年はしばし無言で眺めた。大人びた容姿を持ちながら、その笑みにどこか幼いものを感じた。
七三分けにした前髪で右目を隠し、髪の間からのぞく黒い瞳は深く澄みきって優しい光を放っていた。目はぱっちりとして鼻筋も通っているが大づくりな部分が無く、透き通るように白く滑らかな肌に艶やかな髪と相まって、その美貌はまるで人形のようだった。
長い黒髪を飾るレースのついたカチューシャ、しなやかで豊満な肢体を包むエプロンドレス。少年は、このような装いをした女性達が旧時代から存在することを知っていた。
少女は片足を半歩引き、ロングスカートの裾を両手でそっと持ち上げて優雅に一礼した。
「はじめまして。わたくしはナツキ。メイドのハヤテ=ナツキと申します」
夕暮れの廃墟を背景にしての時代がかった挨拶は、ひどく場違いだった。
「恐れ入りますが……よろしければ、あなた様のお名前を教えていただけませんか?」
「……プラーヤ。僕の名前は……プラーヤ=プラシャースタ」
忘れていた自身の名前を思い出すように少年――プラーヤは名乗った。
「プラーヤ様……ですね。素敵なお名前です!」
少女――ナツキが手を合わせ、感嘆の言葉を口にした。そんな彼女を訝しむうちに、プラーヤはあることを思い出した。
「そうだ……姉さん! 姉さんは――!」
「姉さん……ですか?」
ナツキは不思議そうに首をかしげた。
「僕と一緒に、この街に来ていたんだ。どこかではぐれて――」
「はてな。この街には、わたくしとあなた様以外に生きている人はいませんよ?」
ナツキは微笑みを浮かべながら、こともなげに言った。
「えっ……?」
「あなた様以外に、生きている方は見つかりませんでした。隅々まで見て回りましたから、間違いありませんけれどぉ」
絶句するプラーヤの視線を受け止めながら、念を押した。
「そんな――うぐっ……!」
ようやく口を開いたプラーヤの胸に、激痛が走った。
「あーっ。大丈夫ですかぁ?」
よろめく身体を抱きかかえられ、プラーヤは自分達の身に何が起きたのかを思い出した。
――そうだ。姉さんは、あの時――。
この街――独立都市クナーシュでの体験が脳裏に蘇った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……プラーヤ、プラーヤ。起きなさい」
押し殺した声で呼び起こしたのは姉――マヤだった。
「姉さん……どうしたの」
「敵襲よ。街が攻撃を受けているわ」
言うが早いか、マヤは背を向けて寝間着を脱ぎ始めた。
「早く着替えなさい。すぐにここを脱出するわ」
「分かったよ、姉さん」
プラーヤは安物のベッドから飛び起きて枕元の外出着を手にした。
薄暗い室内から窓の外に目を向けると、街の外れで建物が煙を上げるのが見えた。反響を伴って、遠くから戦場騒音らしきものが聞こえてくる。
薄明の街に人通りはなく、住民の殆どは眠りから覚めていなかった。
「この進撃の早さ、征討軍の機甲部隊よ。遂に沿海州まで来たのね」
ブラウスに袖を通すマヤの表情を横目で窺いつつ、プラーヤが遠慮がちに口を開いた。
「……姉さん」
「何? あまり無駄口を聞きたくないわ」
「宿の人を連れて出るのは駄目かな?」
マヤが振り返り、プラーヤの目を見た。
長い睫毛で飾られた鳶色の瞳に射すくめられ、思わず息を呑む。
端正なボブカットに切り揃えた黒髪と白い肌のコントラストが印象的なマヤ。その繊細な美貌に怒りが宿る度に、プラーヤは底冷えするような戦慄に襲われた。
「……相変わらず甘いわね。暗殺任務や破壊工作に従事していた人間が言うことかしら」
「ごめん……」
プラーヤが消え入るような声で言うと、マヤは小さくため息をついた。
「第一、街の外へ逃がしたところで、生き延びられるとは思えないわ。野盗か兵隊崩れに襲われたらどうするの? 最悪の場合、怪獣に遭遇することも考えられる」
「……だったら」
「だったら、何?」
マヤは着替えの手を止め、プラーヤの青い瞳をじっと見据えた。
「だったら……隣の都市まで僕達で護衛しようよ」
「プラーヤ。本気で言っているの?」
「本気だよ、姉さん」
プラーヤは静かに、しかしはっきりとした口調で答えた。
「……なるほど。あの女の子に情が移ったのね」
マヤはしばし考え込む素振りを見せた後、再びため息をついた。
「助けるのはこの宿の人達だけよ。それ以外は見捨てるわ」
「ありがとう、姉さん……!」
マヤは応えずに顔を背け、すらりとした脚をタイツに通した。
プラーヤはマヤのしなやかな肢体にしばし見惚れていたが、やがて思い出したかのように着替えを再開した。
マヤとプラーヤは、肌の白さ以外で似たところが全くない。プラーヤのカールした金髪と青い瞳を見た人の多くは、彼の「姉さん」という呼びかけに違和感を隠さなかった。
「おばさん、急いで。荷物は持てる分だけにして」
プラーヤが宿の女将とその娘を伴って勝手口に向かうと、マヤはドアの隙間から外の様子を窺っていた。
徐々に近づく戦場騒音。気がつくと、女将の幼い娘がプラーヤの上着の裾を掴んでいた。
「おにいちゃん……」
夕食時に手品を見せたことで、プラーヤは彼女にすっかり懐かれていた。他に客がいなかったこともあり、女将はマヤとプラーヤを実の家族のようにもてなしたのだった。
不安を和らげようとプラーヤが大きく頷いてみせると、女将は「大丈夫よ」と言って、娘を抱き寄せた。
「姉さん、外の様子はどう?」
「兵士の姿は見えないわ。今なら行けそうね」
プラーヤがマヤの下に駆け寄り、静かにドアを開けて振り返った。
「今なら大丈夫。慌てないで――」
言い終わる前に、重々しい地鳴りを伴って地面が激しく揺れ始めた。
「急いで! 早く外へ……!」
「プラーヤ!」
宿の中へ戻ろうとするプラーヤの手をマヤが引き、地面に押し倒した。
「姉さん……離して!」
プラーヤが叫ぶのと同時に揺れが増した。街のあちこちで悲鳴が上がり、石畳の道路が波打つのが見えた。
立ち上がろうとするプラーヤの身体をマヤが押さえつける。
「駄目よ、プラーヤ!」
必死に手を伸ばすプラーヤの目の前で宿屋が倒壊した。崩れた屋根や壁が、取り残された母娘の悲鳴を飲み込んだ。
「あなたは、私が守る」
周囲の建物が倒壊する中、マヤは耳元で囁くとプラーヤの身体を強く抱き締めた。
やがて――数分間に渡って続いた揺れが収まると、マヤはプラーヤを解放した。
「立ちなさい、プラーヤ」
「……うん」
マヤはトランクから三本のバトンを取り出した。普段は大道芸の道具として使っているが、内部に仕込んだ鎖で連結して三節棍となり、刃物や発火装置が内蔵された万能武器でもあった。
続いてプラーヤがリュックサックから投擲用のナイフを取り出す。これも大道芸の道具であり武器であった。
「諦めなさい、助けようがなかったわ」
「うん」
「後方の警戒は任せるわ。瓦礫に隠れながら進むわよ」
マヤは鞄を背負うと、腰を低くして歩き出した。
「それにしても……このタイミングで地震なんて。征討軍も混乱してるだろうね」
「どうかしら」
マヤは背を向けたまま言葉を続けた。
「このタイミングで地震なんて、あまりに不自然だわ。おそらく魔法によるものよ」
「魔法……? まさか、征討軍が?」
「常識では考えもつかない兵器と戦術で、征討軍が勢力を広げてきたことを忘れたの? 征討軍にはとてつもない力を持つ魔法兵器……或いは魔法戦士が存在するんでしょう。地殻変動を操れるほどのね」
プラーヤは言葉を失い、無言でマヤの後に続いた。
街には凄惨な光景が広がっていた。石畳の道路はことごとくめくれ上がり、建物の大半が倒壊し建材の下敷きとなった死傷者にすがって声を上げる人の姿が至る所で見られた。
「言ったはずよ。宿の人以外は見捨てると」
「えっ、僕は何も――」
「おそらく征討軍はこの街の人間を皆殺しにするつもりよ。この状況では誰も助けられないわ。警戒をしっかりなさい。私とあなただけは生きて街を出るのよ」
プラーヤは歯を食いしばって、助けを求める人々から目を背けた。
「本当に甘いわね、あなたは」
街の郊外を目指して路地裏を進んでいると、不意に空気を削るような音が聴こえ、一瞬遅れて重苦しい砲声が轟いた。
超音速で砲弾を撃ち出す魔力砲の発射音――!
「プラーヤ!」
マヤの呼び声を待たずしてプラーヤが地面に伏せる。次の瞬間、街の中心部にある時計塔で爆炎が上がった。
砲弾の直撃を受けた時計塔が崩れ落ちるのを皮切りに、砲弾の飛翔音と発射音が立て続けに鳴り響く。街のあちこちで悲鳴と怒号が上がったが、そのどれもが沈黙へと変わった。
どこが標的か分からない状況では建物の影に隠れることもできない。もとより、この小さな街には砲弾の直撃に耐えられる建物など一つもなかった。
砲声が百回を超えたあたりで、プラーヤは数えるのをやめた。
やがて、砲声が止んだ時には建物の大半が瓦礫と化し、悲鳴も聞こえなくなっていた。
「……終わったようね」
マヤに促され、プラーヤが身を起こした時だった。
「見ろ! 生きている奴がいるぞ!」
反射的に、声のした方向へ振り返る。深緑色を基調とした詰襟の軍服に、頭頂部が高く短い庇の付いた戦闘帽――。征討軍の兵士達が小銃を手に走って来るのが見えた。
人数は十人。分隊規模の歩兵だった。
「プラーヤ!」
マヤが声を上げるのと同時に、プラーヤは手にしたナイフを放った。
銃口を向けようとした兵士が喉を貫かれ、血を噴き出しながら地面に倒れた。
「貴様ッ――」
続いて声を上げた兵士の目にナイフが突き刺さると、すぐに次のナイフを取り出す。
普段は大道芸として披露しているプラーヤの投げナイフは隠密部隊で身に着けた暗殺術であり、二十メートル以内であれば急所を狙って命中させることなど造作もなかった。
「何をしている、撃て!」
サーベルを手にした下士官の命令一下、兵士達が一斉に小銃を構える。一糸乱れぬ無駄のない動きだった。
兵士達が狙いをつけるより早く、マヤが三節棍を振るった。瞬時に大きな火煙が上がり二人の姿を覆い隠す。
魔力結晶の反発力で弾丸を撃ち出すソルカー銃が甲高い銃声と共に青い炎を吐いた。発射された銃弾が全て煙の中へ吸い込まれ、下士官が歯噛みした。
「逃がすな!」
煙に紛れて逃走するマヤとプラーヤの頭上を、何発もの銃弾がかすめた。
「姉さん、これからどうするの?」
「直に兵士が殺到する。急がないと逃げる機会を失うわ」
「瓦礫に隠れてやり過ごすのは?」
「却下よ。見つかれば確実に死ぬわ」
短い会話を交わしながら、追手から遠ざかる。瓦礫の陰から陰へと移動する間にも、銃声と悲鳴が断続的に聞こえてきた。
「あいつら……生き残った人達にとどめを刺してる!」
「言ったでしょう。住民を皆殺しにするつもりよ」
マヤは脇目も振らずに言った。
「どうして、そこまで――」
「考える必要はないわ。逃げることに専念なさい」
薄明の空の下、プラーヤは無言でマヤの背中を追った。