第6話『賑やかな日々』(1)
「すごーい! 立派なお屋敷ですねぇ~」
三階建ての壮麗な屋敷を前に、ナツキが感嘆の声を上げた。
プラーヤはゴミにまみれた衣服を身に着けたまま、無言でリディアを見た。
「ふふーん。市長であるママの屋敷なんですもの、当然よ! さぁ、それよりも早く入って。特別に当家のお風呂を貸してあげるわ」
同じくゴミにまみれたリディアは、誰のせいでプラーヤがゴミまみれになったのか忘れている様子だった。
「ほら、早く早く!」
リディアに手を引かれながらプラーヤは屋敷に灯りがないことを不可解に思った。
「たっだいまーっ!」
「お邪魔いたしまーす!」
屋敷の中は真っ暗で、リディアとナツキの挨拶に応える者はなかった。
プラーヤがそのことを問い質そうとすると、リディアは廊下の明りを点けながらプラーヤとナツキに背を向けた。
「それじゃ、お風呂の用意は頼んだわよ。魔力結晶の残りを確かめてから給湯器のスイッチを入れてね。足りなかったら外の倉庫から持って来て。分かってると思うけど、湯船も床も壁も綺麗に磨くこと。分かったら早くしなさい。私は一秒も早くお風呂に入りたいの」
プラーヤが無言でリディアの肩を掴んだ。
「やぁん、何するのよぉ。レディの肩を掴むなんて失礼……ひっ!」
リディアが振り返った視線の先に、怒りに髪を逆立てたプラーヤの顔があった。
「お前なぁ……! さっきから自分が何やってるか、分かってんのか?」
「ご主人様、言葉遣いがよろしくありませんよぉ」
「黙ってろ、ナツキ! 何なんだ、一体! 風呂を貸してくれると言うからついて来てみれば、風呂掃除をしろだと? 僕達をバカにしてるのか!」
プラーヤに睨みつけられたリディアは顔を青くして震えていたが、やがて可憐な顔を歪めて泣き出した。
「びぇぇぇぇぇぇん! だってぇぇぇぇぇぇぇ! 私、お料理もお洗濯もお掃除もできないんだもぉぉぉぉぉぉん!」
「わーっ! うるさい! 耳がおかしくなる!」
「お願いだからぁぁぁぁぁぁぁぁ! お風呂洗ってぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
両手で耳を押さえるプラーヤにナツキが微笑みかけた。
「お風呂のご用意をしましょう。このままではご主人様もお風呂に入れませんよ」
数秒の間を置いて、プラーヤはため息交じりに頷いた。
「仕方ないな」
「わーい! やってくれるのね。ありがとう! お風呂の後でお夕飯の用意もお願いね!」
先ほどの泣き顔が嘘のように、リディアが笑顔で言った。
プラーヤは拳を握り締めて怒りをこらえ、ナツキと共に浴室へと向かった。
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「はぁ……気持ちいい……」
大理石の大きな湯船に身を沈めながら、プラーヤはほっと息を吐いた。
手で湯をすくい、そっと肩にかける。湯を弾く白い肌には傷一つなく、征討軍斥候との戦いが嘘のようだった。
「ソルカー銃で撃たれて、高熱のサーベルで抉られたっていうのに。魔法戦士はみんな、こうなのかな」
自問した後、すぐに考え直した。
曹長――ラシュカが自身と対峙した時の驚愕した様子は尋常ではなかった。日頃から魔法戦士と共に行動し魔法兵器を操る者にとっても、この力は恐ろしいものなのだろう。
「それにしても……とんでもないお嬢様だな。まぁ……いいところもあるみたいだけど」
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早く風呂に入りたいと言っていたリディアが一番風呂をナツキに譲ったのは意外だった。
「ナツキ、あなたが最初に入りなさい。私はその次、プラーヤはその後ね」
「お気持ちはありがたいのですが、ナツキはご主人様と一緒に入ります。ご主人様のお背中を流さねばなりませんので」
「えっ……一緒に入る……ですってぇ? あなた達、普段からそんなことをしてるの?」
リディアの顔がみるみる赤くなってゆく。
「バカ! そんなわけないだろ!」
「うふふふっ。お恥ずかしいです」
プラーヤとリディアの困惑をよそに、ナツキが恥じらいの表情を浮かべる。
「信じられない! 年頃の男女が一緒にお風呂に入るなんて! 不潔! 不潔よぉぉぉ!」
「おいナツキ! 誤解されるような素振りはやめろ!」
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一悶着の後、結局はリディアの好意を受け入れナツキが最初に入浴した。
しかし、ナツキは湯を汚すわけにはいかないからシャワーだけ浴びたと言っていたので、プラーヤは結果として二番風呂に入れたことになる。
「……ん?」
今いる場所のことを冷静に考えて、プラーヤは唾を飲み込んだ。
ほんの少し前まで、リディアがこの湯船に入っていた。
ほんの少し前まで、ナツキがここでシャワーを浴びていた。
二人が一糸纏わぬ姿で湯を浴び、身体を洗う姿を思い浮かべ、慌ててかぶりを振った。
余計なことを考えないよう、すぐに湯船から上がった。数分しか湯に浸かっていないはずなのに、身体が燃えるように熱かった。
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「おいしーいっ! ご主人様の作るお料理は本当においしいですねぇ~!」
牛肉とパプリカのシチューを食べながら、ナツキが顔を綻ばせる。
「なかなかの味ね。これなら当家の食卓に上る価値は十分にあるわ」
プラーヤは向かい合って座るリディアの声など聞こえていないかのように、黙々とスプーンを口に運んだ。
「ねぇ、プラーヤ! なに黙って食べてるのよ。せっかくの楽しい食卓があなたの仏頂面で台無しになっちゃうわ!」
「僕は楽しくなんかない。なんで食事の用意までしなきゃいけないんだ」
「私が食べる分だけじゃなくて、あなた達が食べる分の食材も提供したのよ。だからいいでしょ。特にあなたのメイドは胃袋も大きいみたいだし……ね」
リディアが意地の悪そうな視線をナツキに送った。
全く意に介さずパンをかじるナツキの能天気な笑顔から、プラーヤは目を逸らした。
「ま、食材が腐る前に調理してもらえて助かったのはこっちも同じなんだけどね。それはともかく、おいしかったわ」
リディアは白い手袋をはめた手にナプキンを持つと、品よく口元を拭きながらプラーヤに微笑んでみせた。
その笑顔の可憐さにプラーヤの胸が高鳴った。
「ごちそうさまでした。とってもおいしかったです」
ナツキが両手を合わせて頭を下げると、リディアは満足そうに頷いた。
「ところで、プラーヤにナツキ。もうホテルも閉まってる時間よね。今晩は泊まっていきなさいよ。客間のベッドはふかふかで気持ちいいわよ」
「えぇっ、本当ですかぁ! ご主人様っ。助かりましたねぇ~」
「目的は何だ?」
「えっ……ご主人様?」
「僕達を屋敷に留める理由は何だ。こうして食事やベッドを提供する目的は何だ。それが分からないことには、受けるわけにはいかない」
プラーヤはリディアの目をまっすぐ見据えながら、噛んで含めるように言った。
「理由……ね。いいわ、教えてあげましょう」
リディアは居住まいを正し、真剣な表情でプラーヤの視線を受け止めた。
ダイニングに重苦しい沈黙が訪れた。向かい合うプラーヤとリディアも、それを見守るナツキも――それぞれ言葉を発することなく動きを止めていた。
「実は、その……」
「実は?」
プラーヤが続きを促すと、リディアは突然、顔を覆って泣き出した。
「びぇぇぇぇぇぇん! 屋敷で働く人がいなくて困ってるのぉぉぉぉぉぉ! 求人を出してもぉぉぉぉぉぉ! 誰も来ないのぉぉぉぉぉぉぉぉ! お願いぃぃぃぃぃぃ! 私、このままじゃ生活できないからぁぁぁぁぁぁぁ! びぇぇぇぇぇぇぇん!」
「わーっ、うるさい! 部屋の中だと声がこもって余計うるさい!」
「びぇぇぇぇぇぇん! お願いだからぁぁぁぁぁぁ! 働く人が見つかるまででいいからぁぁぁぁぁぁぁ! ここで働いてよぉぉぉぉぉぉぉ! 私、お料理もお掃除もお洗濯もできないしぃぃぃぃぃぃぃぃ! このままじゃ死んじゃうぅぅぅぅぅぅぅ!」
両手で耳を覆うプラーヤの肩をナツキが指で叩いた。
「ご主人様、かわいそうですよぉ。お助けするべきではないでしょうか」
「かわいそうなもんか。使用人が逃げたのも求人に応募が来ないのも、こいつのわがままのせいに決まってる。ここにいれば毎日これに付き合わなきゃいけないんだぞ。僕なら三日……いや、一日で屋敷を逃げ出すな」
「プラーヤの意地悪ぅぅぅぅぅぅぅぅ! ママに言いつけてやるからぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「知るか! 僕はチェルフカ市民じゃない。ここにいられなくなったら他の街へ行くだけだ。もう行くぞナツキ」
舌打ち交じりにプラーヤが席を立つと、リディアが腰にしがみついてきた。
「行かないでぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
「おい、やめ……うわぁっ!」
床に引きずり倒されたプラーヤに馬乗りになると、リディアは何度もプラーヤの胸を拳で叩いた。
「びぇぇぇぇぇぇぇん! お願いぃぃぃぃぃぃぃ! 見捨てないでぇぇぇぇぇぇぇ!」
「あーっ、リディア様ぁ。あんまり乱暴しないでくださいよぉ」
緊迫感に乏しいナツキの制止を無視して、リディアはなおもプラーヤの胸を叩き続けた。
「びぇぇぇぇぇぇぇん! あなた達しかいないのぉぉぉぉぉぉぉ!」
「……いい加減にしろ!」
怒声と共にプラーヤはリディアの両手を掴み、一瞬で床に組み伏せた。
「あっ……」
突然のことに状況が理解できず、リディアが何度も瞬きする。
「そうやって泣けば言うことを聞いてもらえると思ってるのか。市長の娘だと言えば言うことを聞いてもらえると思ってるのか。今日だけでお前がどれだけ人に迷惑をかけてるか、よく分かった。お前の言うことを誰も聞いてくれないのは、お前自身のせいなんだよ」
「あ……あの、私……!」
「何だ? 言ってみろよ。そうやって――」
プラーヤは言いかけてやめた。リディアの身体が小さく震えていた。
「ご主人様、もうそのあたりで」
ナツキに促され、プラーヤはリディアの身体をそっと起こした。
「その……ごめん。言い過ぎた」
プラーヤが目を逸らしながら謝ると、リディアの両手が顔に伸びた。
「な、何するんだよ」
リディアはプラーヤの顔を自分の顔の前へ持って来ると突然、頭を下げた。
「プラーヤが謝ることはないわ。あなたの言う通りだもの。私の方こそ、ごめんなさい」
急にしおらしくなったリディアを前にプラーヤは困惑した。
「話した通り、ここにいるのは私だけなの。ママは政務が忙しくて一ヶ月も帰ってないわ。市庁舎に行っても会わせてもらえない。だから私、寂しくて……」
リディアは顔を上げて寂しそうに微笑んだ。
「二ヶ月前、レストランでママの名前を出して眺めのいい席を譲ってもらったことがあったの。そうしたら、その話がママの耳に入ったらしくて。市庁舎に呼び出されて叱られたの。『権威を笠に利益を得るなんて恥を知りなさい』って。とっても怖かったけど……ママに会えて嬉しかったの。それで、ママの名前を出して騒ぎを起こせば、またママに会えるんじゃないかって。そんなバカなことばかりしてたら……一人ぼっちになっちゃった」
リディアの目から涙がこぼれた。
「ごめんなさい……泣いちゃ駄目って言われたばかりなのに」
「……泣くな、なんて言ってない。泣けば思い通りになるなんて思って欲しくないだけだ」
「プラーヤ……」
リディアの華奢な身体をナツキの腕が優しく包み込んだ。
「うっ……うぅっ……! うわぁぁぁぁん……!」
リディアはナツキの腕の中で、声を上げて泣いた。
「一つだけ、答えてくれないか。僕の手品の続きを見たいって言ったのも、騒ぎを起こしてお母さんに会う為か?」
「いいえ。あなたの手品を見たいっていうのは本当よ。あんな楽しい手品、初めて見たわ」
そう言って、リディアは涙を拭い微笑んだ。
「……そうか」
プラーヤはそれだけ言うと、食器を片づけ始めた。
「食器を洗ってくる。まだここで働くと決めたわけじゃない。働くかどうかは契約次第だ」
「ありがとう……プラーヤ。うぅっ……!」
リディアは再び声を上げて泣いた。
ナツキはリディアが泣き疲れて眠るまで、その身体を優しく抱き締めていた。




