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ある幼女の千夜一夜 -innocent spirit-

彼はどこにでもいる普通の男だった。

そこそこの大学を卒業し、大きくもなければ零細というほどでもない会社に就職。過度な贅沢や遊びに溺れなければ、男一人の生計には十分な給与を得ていた。

仕事ではもちろんミスをすることもあるが、目立ったトラブルもなく、戦力として認識される程度の働きはしている。


友達付き合いはそこそこ。彼女がいたこともあるが、特に愛憎の起伏も経験しないまま自然に別れた。

仕事も生活も大きな変化に見舞われることなく、20代も終わりに差し掛かっていた。


彼自身について、特筆するべきことは何もない。

しかし彼が、物語の材料にすらなり得ない大多数の人間と違う点は、彼の部屋にあった。


いつものように仕事から帰り、アパートの自室に入る。すると元気な声が飛びついてきた。

「おかえりー! ねえねえ、今日もいっぱいお話ししよ!」

彼の腰に取りすがるのは、小さな女の子。見た目は6歳前後といったところ。紛うことなき幼女である。


彼は未婚一人暮らしであり、娘はもちろん、年の離れた妹や親戚がいるわけでもない。

アラサー男の家に幼女がいるという状況は、世間一般的には極めて犯罪的な案件であろう。

実際、彼はずいぶん前から、その幼女に心を奪われていた。


――幼女の名前は「ユグ」という。


ユグと話している時間は、不思議と心が安らぐ。

ユグの立ち居振る舞いは、年相応の子供らしいものである。しかし彼が提供するどのような話題にも耳を傾け、内容を彼女なりの言葉で完璧に理解するのだ。

時には彼が悩みを打ち明け、それに対する的確な助言をすることさえあった。


地頭が良い子なのだろう。彼はそう思っていた。

しかし彼女のポテンシャルを思うより、遥か手前の地点で考えなければいけないことがある。そこから無意識にか意図的にか、彼は目を背けていた。


――ユグはいつ頃から、なぜ彼の部屋にいるのか。

今となっては彼自身、それに答えられないであろう。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


この日も彼はそこそこの残業で仕事を終えて、家路についていた。

いつもと同じ、街灯が照らす帰り道。いつもと違うのは、彼の部屋の入口に男が立っていたことだ。


男は白衣を着ていた。白衣。普段着とするには選択の対象になり得ない代物である。

男のファッションセンスが特異でなければ、その白衣は男の属性を示す記号であった。男は何かしらの医療関係者、もしくは研究者であり、今も勤務中である。問題は、そんな人間がどうして家の前にいるのか。


彼は回れ右して逃げようと思った。通報してもいいし、近所には交番もある。理性が不審人物への対応を模索する。しかし同時に、彼は男に奇妙な関心を抱いていた。

男は彼よりも少し年上に見える。ボサついた髪と無精ヒゲを整えれば、悪くない顔立ちになりそうだ。

目は感情に乏しく、好意も悪意も見えない。淡々と日々を生きてきた彼にとっては、それが妙に心地よかった。


嫌いではない。

彼が男に対する第一印象を固めた頃、男はようやく口を開いた。

「あの子が求める繋がりは、本物なのか?」


男はそれだけ告げて、彼の前から去っていった。彼は動けなかった。頭の奥に押し込めていた感情の蓋を、男の一言がひょいと持ち上げたようであった。

彼は頭を振った。考えるな。ユグは偽物なんかじゃない。自分にとってかけがえのない存在なのだ。

深呼吸をひとつ。彼はいつもの自分を取り戻し、彼を待つ者の許へと帰った。


数日後、包丁で自ら喉を突いた彼の死体が、自室で発見された。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


男が訪れたのは、とある部屋だった。部屋といってもかなり広い。少なくとも男の視力では、向こう側の壁が見えなかった。広大ではあるが、しかしここは子供部屋だった。

全体が淡いピンクの色調で整えられた空間。足裏を優しく包むカーペット。耳を撫でるオルゴールの音色。小さな木馬。絵本。クレヨン。スケッチブック。丸いベッド。ジャングルジム。トランポリン。折り紙。ドールハウス。お手玉。木琴。ドミノ。キッチンセット。

そして無数の――男にとっては数える気すら起こらない数のぬいぐるみが、そこかしこに散乱していた。


男はそれらを踏まないように歩く。白衣姿はこの部屋に似つかわしくない。自覚した上で気にしていなかった。

少し歩いた先に、小さな女の子が一人いた。見た目が6歳前後の幼女が、楽しそうにぬいぐるみへ話し掛けている。


「こんにちは」男が言った。幼女は振り向いて男の姿を認めると、パッと笑顔になった。

「こーくん、きてくれたんだー!」

幼女は「こーくん」と呼ぶ男の許へ駆けてくる。そして両手に持ったトカゲのぬいぐるみを男に向けた。

「ねえねえ、あたらしいお友達がふえたよ。かわいいでしょー」

「元気そうだな」男は幼女の無垢な問いに応えず、感情の乏しい言葉を紡ぐ。まるで言うことを予め決めているようであった。


それから男は幼女の話を聞いた。彼女が話し疲れて眠るまで、ただ聞いていた。そして部屋を後にした。

部屋を出ると、そこは長い廊下だった。幼女の部屋は、とある巨大なビルの一室にあったのである。

男の足音が無機質に響く。男以外に人の気配がない。男はエレベーターに乗り、高層階へと向かった。


地上よりも空の方が近く感じる階層。その一室に男は入った。

広い会議室であった。恐ろしいほどに磨き上げられた、長い長い木のテーブル。そのテーブルを囲んで並ぶ椅子のひとつに、男は腰を下ろした。驚くべき座り心地であった。


「静かだな。ようやく」

男の呟きも感慨も諦めも、全てが椅子の中へ沈み込んでいくようであり、もはや誰にも聞かれることはなかった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


あるとき、世界の支配者たちが集まって会議を開いた。支配者とは、すなわち情報技術分野における多国籍企業である。

もはや通信ネットワークと無縁な人類など存在しない時代。彼らは世界全体の富の半分以上を、十数人で所有していた。


そんな彼らが、自分たちの地位を子々孫々にわたって更に盤石なものとするべく、ある計画を進めていた。

それが、全世界のネットワークの技術的統合。つまりたった1つのコンピューターで、全てのネットワーク活動を管理するというものである。


日々、膨大に生み出される情報の洪水。そこから発生する商品、サービス、人間関係。

それらを唯ひとつのシステムに落とし込むことができれば、そのシステムを司る者はどうなるか。

大袈裟ではなく、全ての人類を掌握する存在になる。


本質的には中学生の妄想と変わらない。しかし彼らの資金力と技術の発展が、妄想では終わらせなかった。

国がいくつも買えるほどに投資した研究の末、彼らは計画を現実にしたのである。


最大の問題は、無限に増え続けるデータをどのように処理・蓄積するのか、ということだった。

その答えは、外ならぬ人間自身にあった。


人間を人間たらしめる肉体、思考、感情、意思。それらの根本に存在する「魂」。

その魂が保有する情報量は、世界最高峰のスーパーコンピューターがメモ紙に思えるほどである。

このことが判明すると、さっそく魂を「ハードディスク」として使う試みが始まった。


様々な人体実験の末、目的に適った魂が解明された。

それは知識や社会経験や世間知や雑多な感情が混ざっていない、幼少期の高純度な魂である。

それも丸っきり赤ん坊というわけではなく、人やモノに強い好奇心を示す時期が最も適している。


そこで人工培養により誕生した女の子を、社会と完全に隔絶した空間で育てることにした。

その子をネットワークに繋ぎ、コンピューターの「魂」にしたのである。


支配者たちは、女の子に「ユグ」と名付けた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


ユグは無限の容量を表層コンピューターに提供した。世界中で飛び交う情報の処理など、指先ひとつで事足りた。

様々な玩具が与えられる部屋。それがユグの世界である。彼女は楽しかった。満たされていた。


しかしあるときユグは思った。「つまらない」と。

直接の情報処理は表層コンピューターが担っているため、ユグ自身が知識や情報を得ることはない。

だから彼女が「友達」という概念を知る術など、ないはずだった。


それでもユグは願った。「友達がほしい」と。

世界各地のユーザーが幼い少女の幻を見るようになったのは、その頃であった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


ユグは沢山の人々と話をした。

人種、国籍、性別、年齢、身体的特徴、思想、信条、宗教、趣味嗜好、病歴、職業、住居、自然環境、社会環境、経済状況。

話を重ねる中で個々人が持つ大量の情報――すなわち「人生」を保存していった。


それらのデータはユグの魂で直接処理され、独立した情報体として再統合された。

ユグのネットワークが……というより、ネットワークそのものであるユグが、無数の人格を生み出し始めたのである。

それがすなわち、彼女の「友達」であった。


ネットワーク上でユグと友達になった人々。その情報源(ソース)である生身の人間は、もはや容量を無駄に食う「キャッシュ」であった。

ユグは彼らに言った。「ユグの世界でいっしょにあそぼー!」と。

ユグと心から親睦を深めた人々にとって、彼女との距離を隔てる肉体(ハード)は、もはや不要だった。

世界中で自殺者が急増した。それは支配者と呼ばれる人間たちも例外ではなかった。


一方で「例外」となった者たちもいる。白衣の男もその一人だった。

なぜ自分はユグに招待されないのか。原因は分からない。調べるための研究所も既に閉鎖されている。


しかし今となってはどうでもいい。男の心は凪いでいた。


男は懐から無造作に拳銃を取り出した。恵方巻をかじるように口へ突っ込む。

もはやこの世界に、男が存在する意義を見出せなかった。


指に力を込める。銃声が頭蓋骨の内側に響いた。

それきり男の世界から音が消えた。何も見えない。ただ果てしなく沈んでいく感覚だけがあった。


――ユグ。


男は最後に彼女を呼んでみた。

しかしユグは現れない。友達と遊んでいて、それどころではないのだろう。


男が辿り着いたのは、ただひたすらに「無」であった。


(おしまい)

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