夫婦とは(こちらの世界の常識)下
視界の端で、武田さんがびくりと身体を弾ませたのが見えた。
ああ、そういえば、昨日武田さんを落ち着かせるために、私、彼の手を握ったような気がするな・・・。
もしかして、向井さんが望む「あわよくば」な出来事を、武田さんは図らずして体験してしまったのかもしれない。うん。大丈夫、武田さんに罪はない。私が勝手にしたことだ。ごめんよ武田さん。気まずいよね。でもそれは私もだから、一人じゃないよ。
それにしても、なんという下心なんだろう。
小学生の恋愛・・・?
いや、今時5歳児でもファーストキスをすませる子がいるらしいし、彼は本当に初心だな・・・。
例え教養として女性の部屋に容易に入ってはいけないと決まっていなかったとしても、彼は部屋に自ら入ることは躊躇しそうだな・・・。
ん?
でも、そんなに初心なのに、さっき私が部屋に入るように誘ったときにはなんだかんだ言って入ったよね。
誘われたら入らないといけない決まりでもあるのかな・・・?
そうじゃなきゃ、彼ほど初心ならば部屋に入れないよね・・・。
なんだか釈然としない。
「話が逸れそうだから戻すが・・・、というわけで、えりの部屋に入るのは、えりの貞操を守るために最低でも時間の制限はするべきだし、そう決めておかないと俺たちが付けあがっちまう。俺たちも気をつけるが、えりに部屋に入って良いと言われてしまえば、入りたいと思うから・・・えりの方でも、俺たちが部屋に入らないように線を引いて貰いたい。」
ああ、元々はそんな話だったよね。
ちょっと話が壮大になってしまったから、忘れてた。
なるほど。だから、女性のための制度だったのか。
石川さんがシンプルに私に要求してくれたので、私がどうするべきなのか分かりやすい。
でも、なぁ・・・。
この世界の女性に対する扱いは、本当にありがたい。私の身を守るためには、本当に必要なことではある。
けれど、この世界の常識だからと、はいそうですか、って受け入れるのはまた違う。
確かに、部屋に男を連れ込んでいちゃいちゃしたいとか思ってないし、いちゃいちゃ目的で部屋に入って来られても正直困る。だからと言って、部屋に入るのに時間帯によって制限が出来たりするのも面倒だ。
そう、いちいち決まりがある方が面倒くさい!
こう、どうにかならないものなのかな。
彼らの主張は、0か100しかないような選択だ。
グレーゾーンってのはないのかな。
「それ、朝晩に私の部屋に三人が入ってこないようにしたら、本当に三人とも私の部屋に入ってこないのでしょうか。」
「ああ。ただ、さっきも言ったけど、えりが風邪を引いていたり、緊急事態であれば、部屋に入ることは許してもらいたい。」
言っていることは分かるけど・・・。
ほんと、そちらの都合と常識を押しつけられているような気がするんだよね・・・。
石川さんの言っていることを受け入れたら、完全にこの世界の言いなりになっている気がする。
私の言い分も、聞き入れてもらいたい。
一方的に三人の言い分を聞き入れるのは、気にくわないというか・・・。
部屋に入るか入らないかの話ならば、生活費を決めた時のような、彼らが危ない橋を渡るようなこともないだろう。となれば、こういう時くらい、私の言い分を通しても良いと思うのだ。
「それだと一緒に住んでいる意味がないですよね。」
「そんなことは・・・。」
「お互いにプライベートがあるのは分かりますが、一緒に住んでいるのに、朝晩はこのリビングでしか会うことはないんでしょ?緊急事態の場合だけ、部屋を尋ねることができるけど、そうじゃない場合は、朝晩は部屋から出てこない限り接触はない、って不便じゃないですか?」
それって、もう夫婦じゃないよね。
他人だよ。
規則として定めてしまったら、冷めた生活にしかならないってのが目に見えている。
結婚したかったわけではないけれど、一緒に住んでいる人との接触を規則として制限されるのは、どうなんだろう。
私なら、息苦しいって思う。
「部屋にいつでも出入りが出来るって形にするんじゃなくて、相手が部屋にいるときにだけ入るとか、部屋にいない時には本人に許可をとって入るとか、部屋に入るときにはノックをするとか、そういう気遣いだけでも生活はしていけると思います。私は、人が部屋に入ってくるのを拒むのは嫌ですし、それをしてくれと頼まれても、したくないことなので出来ません。」
自分でも驚くことなんだけど、前の世界ではこんなこと、男の人に言ったことがなかった。
父も親戚の男の人も、女の人の意見なんて聞かないし、何か意見を言ってもあしらわれるか怒られるかのどちらかだったから。彼氏とだって、相手の意見を尊重して、関係が悪くならないようにずっと必要以上に気を遣っていた。
男友達とはそもそも意見が対立するようなことにはならなかったから、私が自分の意見を男の人にここまでストレートに伝えるのは、初めてかもしれない。
怖い、とは不思議と思わない。
だからと言って、心を許しているわけじゃないけど。
でも、私が自分の意見を言っても、彼らは怒らないだろうことは、出会ってたった2日程度でも分かってしまっている。私の意見を、あしらったりしないし、怒らないで、ちゃんと聞いてくれるだろうって。
甘えてしまっているのかな・・・。
ただ、この環境がそうさせているということは確実だと思う。
この世界の常識や決まりとして、女の人を大切にするというものがあって、彼らも私に気を遣って尊重してくれるから、私は私の意見を言えるのだと思う。
石川さんだって、武田さんだって、向井さんだって、私をうまくあしらおうと思ったらいくらでも出来るのに・・・。彼らは何らかの理由があって私と結婚したんだろうけど、それでも、割り切らずに私ときちんと向き合ってくれている。
私を説得しようとしているのが、その証拠なんだと思うんだ。
「この世界の常識とか、よく分かっていないのに、こんなことを言って三人を困らせるかもしれませんが・・・。家の中で、三人の迷惑にならない程度には、決まり事を取り払いたいんです。」
私が独身貴族を目指していたのは、男の人との関係に問題があったり、男の人に対する印象が最悪だったり、いろんな理由があるけど、
必要以上に家の中で相手に気を遣ったり、縛られたりするのが嫌だったからなんだよね。
家の中で男の人に気を遣い続けて、自分の行動を縛られるのが嫌だったから、結婚したくなかったんだよ。
今の彼らの要求は、自分の行動を縛ることに繋がりそうで嫌なんだ。
それは、私が彼らに縛られるだけじゃない。彼らだって、私の行動に合わせて行動していたら不自由なんじゃないのかな。
お互い、一緒に暮らすのだから、多少の気遣いはしても、それを何時から何時までは出入り制限とか、規則として決める必要はないと思うんだ。
「だって、友達の家に、確実に寝ている時間に訪れたりしないでしょ?」
「・・・そうだね。電話も、深夜には友だちにかけないかな。」
「反対に、夜中に家に泊まりに行くのも、その友人が良いと言ったら泊まりに行くでしょう?」
「そうですが・・・。」
「それと、おんなじだと思うんです。ちょっとした気遣いだけで、良いんじゃないでしょうか。朝も晩も、部屋の主が良いと言ったら入っても良いと思うんです。そこで、早朝だから、とか、深夜だから、とか、赤の他人である男女の仲なら分かりますが、同じ家に住んでいるのなら、反対にそういう決まりは面倒になると思うんです。
私のために言ってくれているのに、ごめんなさい。でも、そういう堅い決まりは無しにしませんか?」
どう反応するかな。石川さんの意見を真っ向から反対したわけだけど・・・。
三人の反応がとても気になる。だけど、私は自分の言いたいことは言ったし、ここで引いたら後々面倒だから、どうか、受け入れてほしい・・・。
じっと三人の出方を見守っていたが、ついに、石川さん以外の二人、
向井さんと武田さんは、「えりがそれで良いなら・・・。」と、言ってくれた。
「えりが嫌じゃないんなら、俺は良いよ。」
「ですが、入られて嫌な時はすぐに言ってくださいね。ノックの時に言って下さったら、それで引きますので。」
「はい。わかりました。」
向井さんも武田さんも、条件付きだけど納得してくれたようで、すっきりした顔をした。
石川さんはどうかな・・・と様子を伺ってみると、彼はやや納得できないといった表情をしていたが、少したってため息をついて、「まあ、えりにそこまで言われたらな・・・。」と言って、それ以上は反論しなかった。
よかった、納得してくれた。
男の人にあれだけ意見を言って、私も緊張していたらしい。
石川さんが理解してくれたところで、身体の力が抜けた。
すると、少し眠気が出てきた。
「えり、少し眠たいのではないですか?」
「あ、いや、大丈夫です。それより、三人の方が眠たいんじゃ・・・。」
「そうだな・・・。俺たちも少し休むか。この時間じゃ、次に起きるのは昼だろうが・・・」
「えり、目が覚めたら、絶対に俺たちのうち誰かを起こしてね!先にご飯作るのは無しだから!」
あっさりと話が終わり、さっさと再び寝ることになった。
私も、安心して眠たくなってきたので、トントン拍子に寝る方向に話が進むのを、黙って受け入れ、部屋に戻った。
本当に、良かった。
ちょっとしたことだったけど、家事をすることだけじゃなくて、部屋の出入りに関しても、彼らは私の意見を受け入れてくれた。
この世界の常識と逸脱すると、彼らが不利になることは分かっていたけど、家の中で済むことで、お金に関することじゃないし、彼らが朝晩に部屋へ来ることは私が良いと言ったことだから、彼らが不利になることもないよね。
彼らが不利になることだったら、そう言ってくれるだろうし。
大丈夫なはずだ。
一緒に暮らしていくんだから、お互いが辛くならない方が良い。
良かった、こうやって、ちょっとずつ、お互いになるべく不自由しないように、関係を作っていけたら・・・。
頭はいろいろ考えるけれど、安心して布団に入ったことで、意識が朦朧としてきた。
お昼まで眠ってしまうかもしれないけど、彼らとしてはお昼まで私が起きていかない方が良いはずだ。
お昼まで眠ろう・・・。
そうこう考えている間に、気がつけばあっさりと眠りに落ちていた。




