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冷たい桜  作者: 七三 一二十
8/8

(8)

 列車の中はがらんとしていた。乗客は僕たちの他には、浮浪者然とした格好の中年の男が真っ赤な顔をして舟をこいでいるだけだった。山間部を伸びる線路の上を黙々と走る気動車の床からは、足元を通して規則的な振動が伝わってくる。時折車輪とレールが擦れ合う、甲高い音が響いた。

 殆ど貸し切り状態と言ってもいい車両で、僕達は隅の座席に身を縮めるように寄り添って座っている。妹は僕の肩に頭をもたせ掛け、目を閉じている。起きているのか眠っているのかわからない。僕もあえて確かめようとはしなかった。

 席の下から吹きだしてくる暖房の温風が、腿の辺りを撫でてくる。如何に今夜が冷え込むとはいえ、少し暖房の勢いが強すぎるらしい。車両内は蒸され、汗が沸き出そうな程だった。

 千依の左手は今でも僕の右手を強く握りしめたままだ。繋いだ妹の手から、時折小刻みな震えが伝わってきた。いや、震えていたのは僕の方だったのかもしれない。

 あの後、来る時に降り立った最寄りの駅まで夢中で走り、券売機で行先も決めず値段も碌に確かめずに2枚の切符を購入し、倒れこむように改札を潜り、無人の夜のホームに辿り着いた。ちょうどそこに重苦しいエンジン音を轟かせて列車が入ってきた。

 窓口の駅員が不審そうな目を僕達に向けていたが、構ってはいられなかった。行先も方向も確認せず、妹と共に飛び乗った。

 僕の髪にも公園で妹に羽織らせたブルゾンにも、血が付着していた。衣類の中で最も血に塗れているのがブルゾンで、これは千依が警官に切りつけた時に浴びた返り血によるものだ。

 警官の脇腹を刺した時はナイフが栓の役割を果たしたので、刺突箇所からの返り血は殆どなかった。警官が口から吐き出した血は僕の頭に落ち、その下までは流れなかった。だから僕の衣服には然程目立った汚れはない。

 髪の中で赤黒く固まった血糊は殆ど目立たなかったし、席についてからブルゾンは畳んで僕の膝の上に乗せている。

 それでも、僕のセーターにも千依のジーンズにも、点々と細かな赤黒い沁みは無数に付着している。注意して観察する者がいれば、荒事の後だと疑いを抱かせるには十分だろう。幸い車内に人気がなかったので今の処見咎められることはなかった。しかしあの駅員はどうだっただろう。あの時はまだ千依もブルゾンを着用していた。咄嗟の上に夜だったので、多分気づかれなかったはずだ。そう思いたい…

 あの警官はどうなっただろう。自力で池から這い上がれただろうか。脇腹を刺され、弱った状態で4月の冷たい池の中に放り込まれたのだから、それは難しいように思われた。 

 掌に脇腹の肉を刺した時の感触が蘇ってくる。どちらにせよ、僕達が追われる理由がまた1つ増えることは間違いないだろう。

 髪に着いた血も落としたいし、代えの衣類も購入しなくてはならない。予算に余裕がなかったので、僕も千依もトップ・ボトム共に今着用しているものしか持っていない。リュックの中には下着や靴下がわずかに入っているだけだ。死出の旅路にあんまり荷物が嵩張っては様にならないだろうと思って、最小限に抑えたのだが。

 朦朧とした頭がとりとめのない思考をなぞる。さっきの喧騒でホールディングナイフも失ってしまった。貴重な自殺用具の1つだ。どこかで新調したい。

 ナイフ…そうだ、ナイフを警官に刺したまま置いてきてしまった。あのナイフの出所を突き留められたら、僕達の足取りが辿られてしまうのではないか。そうなると警察なり誰なり捜査する人間が最初の事件、浦澤殺し―死んでいたとして―と繋げて考えるのは、そう難しいことではないだろう。購入したディスカウントショップは同じ市内でこそないものの、例の廃病院から然程離れた処でもない。

 それに僕も千依も、手を覆う軍手も手袋もしていなかったし、つける余裕もなかった。ナイフにも或いは警官の制服にも、しっかりと指紋が付着しているはずだ。

 どんどんドツボに嵌っている、と思った。元々少なかったこの世界での僕達のスペースが、急速に削られ減少していく…

 全てのスペースが消えてしまったら?その時はこの世を去るだけだ。元からそのつもりなのだから深刻に考えることもない。心中でそう唱えても、一度覚えた息苦しさは消えなかった。

 腕時計の針は夜の11時を回ろうとしている。

 いつ浮浪者が目を覚ますか新たな乗客が現れるかして、この言い訳しようのない血の付着した姿を見られてしまうかわからないのだから、すぐにでも何処かの駅に降りて行動に移るべきだろう。一先ず身を落ち着かせる宿も今から探さなくてはならない。

 頭ではそう考えても、身体が動かなかった。鉛のような倦怠感に襲われ、ぐったりと座椅子に凭れ掛かることしかできない。もうどうにでもなれ、と心の隅で投げやりになっているのかもしれない。

「兄さん…」

 僕の肩に頭をもたせかけた妹が何か呟いている。寝言だろうか。それともそう装って、何かを伝えたいのか。僕はそっとその唇に自分の焦点を合わせた。

「寒い」

 暖房で熱いくらいの車内だったが、そんなことは今、僕にも千依にも関係なかった。膝の上のブルゾンをかけてやった処で、この“寒さ”はどうにもならないだろう。

 僕は妹を起こさないよう、横からそっと両の腕でその身体を包み込んだ。そうして強く、激しく、だけど壊れ物を抱くかのように繊細に、抱きしめた。既に僕達から去ってしまった温度をもう一度取り戻す為に、抱きしめた。燃えカスの残り火に必至に息を吹きかけて再び炎を甦らせようとする作業に、それは似ていた。

「ふふ、兄さんの匂いがする」

 腕の中から、妹の呟きが漏れた。笑いを含んだその声は、とても安らいだ響きを持っていた。こんな状況でもまだそんな声を出せる妹が、たまらなくいじらしかった。

「ごめんな…ごめんな…」

 掠れたようなその懺悔が、自分の口から発せられていることに、しばらく気づかなかった。いつの間にか頬に、涙が伝う感触が生まれていた。

 何を謝っているのか、その謝罪が千依に向けられたものなのかどうかも定かでないまま、僕は自分でも抑えきれない感情に突き動かされるように、「ごめん」と繰り返していた。

 窓の外は人家の灯りさえなく、ただただ暗い夜の風景。

 残された時間は多くない。警官を刺したことで、更に少なくなったと思った方がいい。だからそれまでに、僕達は僕達をはじき出した世界と決着をつけなければならない。明日になれば、また死に場所を探す為に僕達は歩むだろう。だがこの夜が明ける時は、本当にくるのか?

 何処にも行き場所がなくなったと心底実感したのだったら、この列車が駅に着いた時、止まるのを待って昇降口から乗り込むのではなく、減速しきれずにいる列車の正面にホームから身を躍らせるべきではなかったろうか。

 最早悠長に死に場所がどうのと言っていられる段階はとうに過ぎた。そう分かっていながら、一瞬の死出の旅路に僕達は飛び込まなかった。

 …つまりは、そういうことではないのだろうか。

 吸い込まれそうな深い闇に覆われた山間の線路を、時代遅れの気動車がどこまでも走って行く。

 ふと、視界の隅を何かが過った。顔をあげると、薄紅色があった。

 僕か千依の衣服のどこかに付着していたのだろう、一弁の桜の花びらが暖房の熱風に浮かされ、車両の宙を舞った。


(了)

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