(6)
東北地方の一角にあるこの公園を見つけたのは、高架橋の上を進む列車の中だった。窓から外を覗いていた千依が、眼下にこの公園に咲き誇る桜の群れを見つけ出し、行ってみたいと言い出したのだ。時刻は既に夜の9時に近かった。安い定食屋で適当に食事を済ませ、行く充てとてなくやみくもに気動車に揺られていた処だった。眼下の桜の群れは澄んだ星空の下に拡がる闇の中でスポットライトの光に淡く照らされ、不気味でさえあった。
それまでも桜の木など窓枠の中を幾つも流れすぎていた。そんな時間になって、とりわけその公園に興味を覚えたのはどういう気まぐれなのかはわからなかったが、特に妹の要望を断る理由もなかった。まだ泊まる場所も決めていなかったが、贅沢さえ言わなければ深更でも取れる宿はあるだろう。24時間営業のネットカフェなんかを探して潜り込んでもいい。
最寄りの駅で降りると、公園までは5分もかからなかった。この辺りではちょっとした名所の1つだったらしく、駅前に立てられた観光案内用の地図にもでかでかと記されていたので、場所はすぐにわかった。スポーツ用のグラウンドや植物園なども内包した、かなり規模の大きな公園らしかった。
正面入口を潜り煉瓦で舗装された通りを数分も歩くと、左右両端に林立していた暗い常緑樹の群れが途切れ、代わりにライトアップされたソメイヨシノの並木道が始まった。
着いたばかりの頃はまだわずかに花見客らしきグループも散見されたが、気温の低さも手伝ってか幾何も経ずに解散してくれた。周囲から他人の気配が消えるのは僕達にとってはありがたかった。
そうして千依と並んで順路を歩いてみると、この公園は静謐で空気が澄んで、やはり桜は美しい。「ここで心中するのはどうだろうか」という想念が、じわじわと僕の中に湧き上がってきた。
「桜の木がなんで綺麗なのか、知っているか?」
池から少し離れた樹々の繁みの中に、四阿が設置されているのをみつけた。屋根の下には木製の長椅子が2脚おかれており、その内の1つに2人で並んで座った。
桜並木とは反対側にある、芝生の広がる狭いスペースで、近くには灯りもなく薄暗い。三方は常緑の喬木と灌木が入り乱れて密生し、残る一方の前を、池から更に奥の繁みへと分け入るように伸びる小道が横切っていた。この小道は、或いは公園の裏口へでも通じているのかもしれない。
小道の向こうに、幽玄な池の周囲の桜が小さく、それらの向こうに豪奢なレンガ通りの桜並木がより小さくみえた。さっきまであの下にいたというのに、そうやって光に照らされた桜の群れは離れて見るとまるで夜空に投射される映画の一部のように、どこか遠く非現実的に感じられた。高架橋から見下ろした時も、似たような印象を抱いたのを思いだした。
「木の下に人間の死体が埋まっているから、なんて陳腐なこと言わないわよね」
「…」
まさに言おうとしていたことを先取りされ、僕は黙るしかなかった。
あまり文学に馴染のない妹までしっているとは、この俗説は思った以上に人口に膾炙しているらしい。梶井基次郎も罪なことをしたものだ。
「もう、兄さんってばワンパターン過ぎ。そんな文学被れの話題ばかりじゃ、女の子は喜ばないわよ」
「話題性が乏しくて悪かったよ。あと被れとか言うな」
…どうも今日は何をしても締まらない。桜の香気に当てられたのだ、ということにしておきたい。
くす、と千依が小さく笑った。
「兄さん、難しい小説とか好きだもんね。私にはよくわからないけど。文芸部、だっけ、部活にも入ってたんでしょ?」
「…そんなことも、あったっけかな」
改めて指摘されると恥ずかしくなって、妹の反対側へと顔を逸らした。
自分で言うのも口幅ったいが、僕はいわゆる文学愛好者である。と言ってもまだまださわり程度しか読めていないので、“被れ”と言われても仕方ないかもしれない。
文芸部は僕の他には同級生の男子が2人いるだけの、こじんまりした部だった。尤もこれは僕が2年生の時の話なので、今どうなっているのかは知らない。
文学の話なんて人にするのは照れ臭いし、大抵の人は興味もないからしても白い眼を向けられるだけ、ということを経験上学んでいたので、僕は高校に入ってから人前では自分の趣味をあまり語ることはなくなっていた。文芸部だったら同好の士も見つかって思い切りスタンダールやコクトーについて話せるかもしれない、と期待をして入ったのが1年の春だったが、その時の他のメンバーも殆ど本を読まず、読むとしても流行の作家の本やライトノベルだけという感じで、あまり活動らしい活動のない部を「楽でいい」という消極的理由で選んだような輩ばかりだった。最初は随分失望した。
それでも他人と本の話をできる場所自体結構貴重なものだったし、少しなら文学の話を切りだしてもそれ程馬鹿にされたりはしない土壌がその部にはあった。居心地が悪くなかったので、2年に進級して当時3年生だった先輩達が卒業し、残ったメンバーが僕を含め同級生の3人だけになってしまっても、何となく足を運び続けた。他の2人の男子は、友達の殆どいない僕にとって、気軽に話せる稀少な存在でもあった。
だが彼らとも、例の事件以来疎遠になった。積極的に僕への迫害に加担こそしなかったが、廊下で偶にすれ違っても声をかけることもなく、お互い目を反らし合うような関係になってしまった。もちろん部室にも足を運ぶことはなくなった。
「兄さん、後悔してる?」
いつの間にか、物思いに沈んでいたらしい。
千依が暗がりの中、僕を見つめながら尋ねてくる。その声の中には、怯えの微粒子が混在しているように聞こえたのは、気のせいだったろうか。
僕は千依に笑みを返した。自然な表情を造ったつもりだったが、あまり自信がなかった。
「そんなわけないだろ。だから謝るのはなしだぞ」
僕は千依の頭に手を乗せ、髪をかき回した。千依は水を引っかけられた猫のように敏捷に身を離すと、「もう、子ども扱いしないで!」と言って頬を膨らませた。
その後、どちらからともなく、再び身を寄せ合った。池の近くほどではないにせよ大気は依然冷え冷えとしていたが、こうしていれば多少は温かい。
「もし、大勢の死体が埋まっているほど桜が美しくなるんなら」
遠くの桜をぼんやり見つめながら、千依が呟いた。
「あの桜達の下には、どれだけの死体が埋まっているのかしら」
ライトアップされ、闇の中に浮かび上がる桃色の雲海。これだけ離れていて、非現実感をも覚えるのに、同時に僕はその幻の中で溺れ、窒息しそうな錯覚に襲われる。この地方は今が開花時期なのだろう、1つ1つが満開に咲き誇った桜の樹が無数に林立し、存在を主張する様は、それだけ圧巻であり、美々しく、凄愴でさえある。
-一体、どれだけの死体が埋まっているのだろう。
自分が冗談で言おうとしたはずの俗説が、妙な恐ろしさを伴って迫ってくる。
「私は兄さんと眠るなら、2人きりの場所が良いな」
こういう殺し文句が何気なく口をついて出るのだから、ひょっとしたら僕の妹は結構な悪女なのだろうか。しかしそんな印象を抱かせた千依の声には、どこか元気がなかった。
僕自身も、先刻はあれ程素晴らしい死に場所に思えていた桜の樹々の光景を、どこか冷めた視線で眺めている自分に気づいていた。単に見慣れただけなのか。或いは2人共無理にはしゃぎすぎて、疲れたのかもしれない。
と、どこからかくぐもったような人の声が、僕の耳に届いた。傍らの千依の反応を見ると、どうやら彼女にも聞こえたらしい。樹々深く森閑としたこの公園は、ちょっとした物音でもよく響く。
妹と顔を見合わせ、席を立った。傍らの小道を、池とは反対の方に歩いて行った。声はそちらから聞こえたように思えた。常緑樹が密生する辺りは、ライトの灯りは全く届かない。華やかな桜を傍目に暗がりに取り残された樹々の、鬱屈が伝わってくるような気がした。
そんな無数の繁みの中の一角を通り過ぎた時、その緑のベールの向こうから、先ほどよりも一段はっきりとした音声が漏れ出で、僕達の耳朶を撫でた。今度ははっきり、女性の甲高い声だと断定できた。
妹と密着して並んで、共に幹の陰からベールの奥を覗く。闇に慣れてきた目が、ぼんやりと一対の重なる影を捉えた。大柄な影が上から被さり、組み敷かれた小さな影が白く浮き上がっている。その白さが若い女の肌だと気づくのに、僅かな間を要した。2つの影は重なりながら、小刻みに揺れていた。大柄な影の方も、上半身は背広で覆っているものの、下半身には何も身に付けていないということが、段々わかってきた。樹々がざわめくような音と共に、艶やかな押し殺した声が一層耳に迫ってくる。
そのような声は、目の前の一対からのみ発せられるのではなかった。ふと勘づいて辺りを見回すと、似たような対となった影の組み合わせが、3,4組も土がむき出しになった地面の上で重なり、蠢き、獣のような息遣いを漏らしている。
土と草木の匂いに混じって、狂熱と湿っぽい溌剌が闇の中に満ち溢れている。
「…」
僕はそっと樹々の繁みから離れた。妹が何も言わず、ついてくる気配が後ろから伝わってきた。
2人共無言で、暗がりへと続く小道を歩き続けた。特に意識したつもりはなかったが、自然と華やかなスポットライトの反対方向へと進んでいた。
「ここも、違うみたいだね」
妹が、感情をはらまない淡白な口調で声をかけてくる。僕は応じた。
「光の当たる部分は死者で埋まってて、闇に閉ざされた部分は生者で満杯だ。どこにも僕らの為の場所は残されていないらしい」
あの闇に蠢く男女が偶然に集まってきたのか、それともこの公園が元々地元ではそういうスポットとして有名だからあそこまで盛況なのか、それはわからない。いずれにせよ、春先に盛るのは犬猫に限ったことではないのだ。
僕達にはあのように夜空の下で大っぴらに営みを行うことはできない。その資格を与えられていないからだ。2人が兄妹だと知る者はここには誰もいないと頭では分かっていても、やはりそんな気にはなれない。兄妹だけあって容姿が似ていないこともない、知り合いがこの場に突然現れないとも言いきれない。万が一、億が一僕達の本当の関係に気づかれてしまったら、ゲームオーバー。その思いが胸の底で消えず、本能が恐怖する。
だから人目を避け、屋内へ閉じこもり、誰にも気づかれないよう、静かに、片隅で、恐る恐る互いを感じ合うことしかできない。この世の誰にも大っぴらに愛を囁くことのできない僕達にとっては、あの獣達の闇の中の蠢動さえ妬ましく、いたたまれなかった。