(3)
冬が明け、春が来て、僕は高校3年生になった。
始業式を終え、制服姿の生徒で溢れる校門までのアスファルト路を歩いていた。進級しても、僕の外部も内部も、一切様相を変えなかった。始業式の日から頬を晴らし、制服もボロボロになった姿を母親に見せねばならないのは、さすがに気が引けたが。
路を往く制服の群れの中に千依の姿を見つけたのは、ほんの偶然だった。人混みの向こうに遠目から後姿を見ただけだが、それでも妹の姿を見間違うはずがない。彼女の姿を目にしたのは数ヶ月ぶりだった。考えてみればその間も同じ学校へ通っていたのだから、偶然見かけることが一度もなかったことの方が確率の悪戯というべきものかもしれない。
自然と、足が彼女に向って駆け出していた。人混みの中を搔き分けるように走り、当然周囲から罵り声を浴びたが、そんなものに構ってはいられなかった。千依の背中は僕の視界でみるみる拡大していき、もう手を伸ばせば届きそうな距離まで詰め寄り、声をかけようとして…衝動による慣性は、そこで消滅した。声が出なかった。夢中で彼女の背中を追った癖に、彼女にかけるべき言葉を、僕は考えていなかった。そんなもの、最初から持ち合わせていなかったのだ。
ためらいと自責が、僕を瞬間的に化石にした。その一瞬のうちに、別の声が千依を呼んでいた。
「千依」
真横から名を呼ばれ、彼女は振り向いた。そこには長身の男子生徒が1人立っていた。頬が心持ち削げ、暗い眼をしていた。頭は短髪に刈り、制服の上からでもわかる広い肩幅をしている。おそらくどこかの運動部に所属しているのだろう。独特の威圧感があり、僕の苦手なタイプだ、と一見してわかった。
「話がある」
「…今更話すことなんてないわよ」
「俺には聞く権利があるはずだ」
周囲のざわめきに紛れて、そんな会話のやり取りが耳に届いてきた。それから2,3の問答が繰り返された後、その男は歩き出し、少し遅れて千依がその背中についていった。
僕は茫然として、その2つの背中を見送った。頭の芯が痺れて、上手く思考することができなかった。ようやく我を取り戻した時には、2人は校門を潜る直前だった。
少し躊躇った後、僕は2人の跡を追うべく足を踏み出した。後ろから尾行していることを気取られないよう、十分に距離を取ることを心掛けた。
自分が酷く惨めな立場にいることを、薄々自覚していた。それでも連れ立って行く2人を無視して帰宅の途につく気には、この時どうしてもなれなかった。
学校の近くにある病院跡地へと、2人は並んで入っていった。
敷地が広く、元々は結構規模の大きい病院だったことが窺えるが、僕が物心ついた頃にはその病棟は閉鎖されていた。中々土地の買い手がつかないのか、未だに古びた煉瓦に覆われた3階建ての病棟は取り壊されず、薄汚れ、所々煉瓦が崩れ落ちた痛々しい姿を地区内に晒していた。敷地内も荒れ果て、雑草が至る所に繁茂している。裏手には森閑とした林が広がり、人気のないこの場所は、不良の溜り場として近所ではちょっと有名なスポットだった。
2人は病棟の裏へと進み、ふいに立ち止まった。僕は慌てて煉瓦の崩れた壁に身を隠し、物音を立てないよう注意しながらそっと千依達の様子を窺った。幸いというべきかその時周囲には不良らしき姿は見当たらず、僕は密かに胸を撫で下ろした。不良に限らずとも、どうやら僕達3人以外にその場に人気はないようだった。
空が白かった。白い雲が全天を覆い、太陽を隠しているのに妙に明るい、そんな無性に泣きたくなるような昼過ぎだった。
僕の視線の先で、千依と男が向き合っていた。千依は僕の方へと背を向けていた。だから相対して千依を上から見下ろす男のやや痩せこけた顔は、真正面に見えた。その男の眼が、随分充血しているのが遠目にもわかった。
「なあ千依…」
男の呼びかけは馴れ馴れしかった。僕はその呼びかけを聞いて、2人の関係がある程度推察できたと思った。先ほど校門の手前で抱いた疑惑に、確信を持てたと言ってもいい。胸の奥を、冷たいものが流れ落ちていく気がした。
「学校で流れてる例の噂だけど…」
「噂?何よそれ」
「ほら、お前がお前の兄貴とどうこうっていうあれ…あれ、嘘だよな?」
男の声が切迫したものに変わった。その表情には、縋るような様子が現れていた。
「根も葉もないデマだよな?お前が、自分の兄貴とそんなことするわけないもんな?」
「…」
「全く、ひでえことを言い触らすバカがいやがる。自分の兄貴とその、そんなことするなんて、そんな気持ちわりいことあるはずねえのにな。だってお前は俺の、」
「やめて」
千依が突き放すように男の言葉を遮った。それまで僕が聞いたこともないような、冷たい響きの声だった。
「あなたとは終わりにしましょうって、ずっと前に言ったはずでしょ。あなたに、そんなこととやかく問い詰められる筋合いはないわよ」
「な、なんでだよ。俺の何が悪かったっていうんだよ!」
男の声に、やや険が籠ってきた。
「俺はまだ納得してないぞ。別れたつもりなんか全然ねえ。なんでこれといった理由もなく、一方的に別れを告げられなくちゃならないんだよ。俺達上手くやってたじゃんかよ」
「だから、やっぱりあなたのこと、恋人とかそういう風には思えないって…それについては完全に私と都合だし、私が悪かったわ。謝ります」
「んなん納得できるけねえだろ!」
ヒステリックな怒声が空気を震わせた。千依の肩が一瞬、怯えたように痙攣する。その下では足が、徐々に震えだすのがみえた。
今すぐに妹のもとに駆け寄りたい衝動に駆られたが、同時に自分が出て行っても反って混乱を大きくするだけだという思いもあった。迷いが足を地面に縛り付けるようだった。こんな時に咄嗟に千依の為に動けない自分が、心底情けなかった。
「…なあ、俺たちやり直そうぜ?そうすりゃお前も、あんなキモい噂に苛まれることはなくなるんだからさ」
男の声が、突然粘つくような猫なで声に豹変した。
「俺とずっと付き合っていたって言えば、お前が兄貴とそんな気持ち悪いことをしていたなんて誰も信じなくなるよ。彼氏がいるのに実の兄貴とやりたがる女なんているわけないだろ」
「…」
「お前だってこんな噂立てられて、ほとほと迷惑してんだろ?全く気色わりーよな、キンシンソーカンなんて。そんな言いがかりつけられたら溜まったもんじゃ…」
「やめて」
千依の声は震えていた。しかし同時に、何者にも反論を許さない厳しさが込められていた。
「あなたに一体私たちの何がわかるの。私と兄さんのこと何もしらない癖に、勝手なこと言わないで」
「お、おい。何怒ってんだよ。お前それじゃ、まるで…」
「私たちのしたことの一体何が悪いの?勝手に常識や道徳を無理やり押し付けて、私たちの気持ちを否定する権利が貴方たちにあるの?貴方たちはそんなに偉い、立派な人間なの?ねえ!」
「な…」
男は言うべき言葉を失ったように、口を無意味に開閉した。その顔は青ざめ、目は追い詰められたもののように見開かれていた。
「む、無理やりされたんだろ?お前の兄貴に!それでお前はやさしいから、兄貴をかばって…」
「いい加減にして」
千依が涙声で叫んだ。身体の芯まで響き渡るような、そんな叫びだった。
「これ以上兄さんと私の気持ちを侮辱しないで。私は兄さんが好きだった。物心ついた時からずっと好きだった。いけないことだと、おかしいことだと思ってこの気持ちを殺そうとしたけど、駄目だった。必死に消そうとしても、好きだって気持ちが消えないんだもん。しょうがないじゃない、これ以上どうしろっていうのよ」
千依の心の中のダムが決壊していた。万感の想いの洪水を、千依が今夢中で吐き出していることが、遠くから覗く僕にも伝わってきた。僕にだけはそのことがわかった。僕も、同じ想いを抱えて苦しんできた…、いや、今でもこんなに胸が痛いのだから。
「ずっと好きだったって…必死に消そうとしたって…」
男の顔は今では蒼白で、目は焦点を失い虚ろだった。鬼気迫る表情とはこういうものをいうのかもしれない、と僕は思った。頭の隅で、警鐘が鳴り響いている…
「じゃあ、じゃあ俺と付き合ったのは何だったんだ?なんで俺の告白に応えてくれたんだよ、なあ!」
「…」
「兄貴を忘れる為か?俺はその為にお前に利用されたってことか!?俺は兄貴の代替物だったのかよ!」
「…ごめんなさい」
千依の声は、さっきまでの勢いをなくし、消え入るようだった。
「そのことについては、幾ら謝っても許してもらえるとは思っていないわ。私はあなたにひどいことをしてしまった…」
そうして苦し気に謝る千依が、僕には何だかひどく大人びて、まるで知らない女性のように見えた。いつまでも子供だと思っていた妹の別の一面を垣間見た気がして、こんな時だというのに僕はひどくどぎまぎしてしまった。
「じゃあ、俺を…俺のことをお前が好きだったことは、一度もないって、そう言う気かよ…」
「…ごめんなさい」
「…っざけんな…っざけんなよ!!」
突如、男の声が爆発した。僕にはそう聞こえた。
次の瞬間、男が千依に飛び掛かり、彼女を組み伏せた。急に襲い掛かられた妹は受け身を取る暇もなく、後頭部をコンクリートの地面に強かに打ち付けたようだった。
男は千依に馬乗りになると、頬を2度、3度と掌で打つ。それから制服のブラウスの合わせ目に手をかけ、左右に力任せに引きちぎった。ボタンが飛び、千依の下着姿の上半身があらわになる。
「今更、兄貴の人身御供でしたっていわれて、そんなん納得できるわけねえだろ。こっちは、こっちは本気だったんだぞ!!」
「いや、やめて!助けて!!」
「うるせえこの近親相姦女!!よくも今まで騙してくれたな!!」
男はもう一度千依をぶつと、その白く控えめな胸元に顔をうずめ、荒々しい呼吸を繰り返した。その手は千依の下半身に伸びていき、制服のスカートの裾をつかみ、拙速にたくし上げようとしている。仰向けに倒された千依が必死に男から逃れようと、もがき、首を反らし…
ここから僕の記憶は、やや不明瞭だ。あまりの急激な怒りで脳が焼かれ、知覚が満足に機能しなくなったようだった。視界がブラックアウトし、元に戻った時、いつの間にか僕の目と鼻の先に、千依を組み敷く男の姿があった。
男が顔を上げる様子が、スローモーションのように映った。これだけ至近に駆け寄るまで、僕の存在に気づかなかったらしい。それほどに千依を貪ることに夢中だったのかと思うと、瞬間的に憎しみがいや増すのを感じた。呆けたように僕を見上げる男の顔が、丁度いい高さにあった。宙に浮いたサッカーボールをボレーシュートするように、僕は男の顎を蹴り上げた。
男は思った以上に派手に吹き飛んだ。ほぼ180°後方に回転するように、天を仰いだまま倒れていく。吹き飛んだその先は、廃屋となった病棟の煉瓦に覆われた壁だった。後頭部を勢いよく煉瓦塀に打ち付けた男は、そのまま無言でずり落ちていった。
自分にそれほどの膂力があるとは思ったこともなかったので、吹き飛んだ男の姿をつかの間茫然と眺めた。それからはっと思い出し、千依の方へ目を向けた。
「兄さん…?」
上半身を起こした千依が、事態を呑み込めていない様子で僕を見つめている。はだけた制服を元に戻すことも念頭にないようだった。その眼元には涙の粒が溜り、くしゃくしゃに歪んだ顔は恐怖で青ざめ、未だ整わない呼吸は微弱で儚げだった。髪にも、制服にも、無理やり引きちぎられたブラウスの合わせ目の間から覗く白い肌にも、土がこびりついて、一層痛々しさを際立たせている…
その千依の様子を間近で見て、僕の中の感情が消えたようだった。本能が身体を支配する。意識ははっきりして、状況も把握しているのに、やるべきことが何かを弁えた手足が勝手に動くような、そしてそれを黙認しているような、そんな不思議な感覚だった。
僕は倒れた男の方を振り向き、ゆっくりと歩み寄った。男は意識を失ったようで、起き上がる様子がなかった。病棟は古い建物で、所々壁を覆う煉瓦が崩れている。崩れ落ちた煉瓦の塊が、ちょうど近くにあった。僕の掌をいっぱいに広げて、それでようやく掴めるような、そんな大きさの塊だった。
僕は右手を目一杯広げて煉瓦の破片を掴んだ。仰向けで倒れている男の腹に馬乗りになり、右手を空に向けて振り上げ、正確に狙いを定め、男の頭部へと振り落とした。掌に鈍い感覚が伝わり、耳に鈍く硬い音が響き、頭から飛び散った血が一滴僕の頬にも付着し、鈍い温みを伝えてくる。
それらは1mmの千分の一ほども、僕の心を動かすことはなかった。また煉瓦を持った右手を振り上げると、先ほどの光景をHDDレコーダーが巻き戻して再生するかのように、男の頭を打った。何度も、何度も打った。その度に赤黒い血が周囲にまき散らされる映像が、どこか非現実的に僕の網膜に焼き付いていく。まるで自分が煉瓦を上げ下げする為に造られた機械で、座標として男の頭部をコンピューターにプログラムされているような気さえしていた。機械はプログラムには逆らえない。だからこの行動は必然であり、きっと正しいのだ…
「やめて!もういいから、もう十分だから…」
千依が後ろから抱き着き僕の右手を自分の右手で掴んで静止した時、自分が一体何度煉瓦を振り下ろした後だったのか、最早数えてもいなかった。ただ自分の呼吸がひどく荒く、右手全体が痺れていることはわかった。
男の顔を見下ろす。何度も同じ所を打たれ続けた頭部の傷口はにじみ出る赤い血糊の中に埋もれ、もう確認することができなかった。傍らの地面には血が流れ落ち、頭の下に血溜りが広がっていた。呆けたように口を開いたまま、ぴくりとも動かない…
僕の右手から煉瓦の塊が落ちた。突然、全身を悪寒が走り、震えが止まらなくなった。自分で自分を抱きすくめるようにして蹲った僕を、千依が背中から包んでくれた。その千依自身、震えているのが密着した身体を通して伝わってきた。
僕は千依をそっと引き離し、向き直った。千依の顔は蒼白だったが、今にも崩れそうな何かを必死に保とうとするかのように、歯を食いしばり、切迫した緊張感に包まれていた。おそらく僕も似たような表情をしていたことだろう。
僕らはもたれあうようにお互いを支えにして立ち上がると、その場を後にした。どこに行く宛もない。ただ鉄錆のような匂いの漂うその廃屋裏を、一刻も早く離れたかった。
倒れた男はそのまま放置した。生死は確かめなかった。知ろうと思えば確認することはできただろうが、事実に直面する恐怖もあったし、また生きていようが死んでいようが、どちらでも良い気もした。千依にあのようなことをした当然の報いだ、という思いもあった。
だからあの後男が意識を取り戻したのかそのまま朽ち果てたのか、僕達には未だに確証がなかった。ただあの出血量から考えて、息を吹き返した可能性は相当低いだろう、と推察するだけだ。