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冷たい桜  作者: 七三 一二十
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(2)

 昨年の秋、僕と千依の密事は、唐突に破綻を迎えた。

 その日、僕達は放課後の化学室に忍び込み、不気味な標本に囲まれながら抱き合っていた。化学室のドアの鍵は旧式で、針金一本あれば子供でも開けられることで有名だった。母親が夕食の準備をしている自分達の家で行為に耽るより、放課後の学校の方が安全だろうと思ったのだ。

 そこに1人の化学教師が、そんな時間に化学室に何の用があったのか実は未だに知らないのだがとにかく入ってきて、あられもない姿の僕達をあっさり見つけたのだった。お粗末といえば、あまりにお粗末な顛末ではある。秋の気温に晒されたリノリウムの床の冷たさが、やけに強く、身体の芯までしみ込んでくるように感じられた…

 その化学教師は前年から1学年を受け持っていた中年女性で、前年は僕のクラスを、その年は千依のクラスの授業を担当していた。当然僕達各々のことも、2人が実の兄妹だということも知っていた。制服をはだけたあられもない恰好だった手前、兄妹のスキンシップをはかっていた、と言い訳しても通じなかったろう。もちろんそんな馬鹿なことは言わなかったが。

 厳格な価値観の所有者だった中年教師は、カーテンの閉まった薄暗い化学室の中でもはっきりわかるくらい顔を青ざめさせ、目を怒らせて僕達を怒鳴りつけた。彼女は思う存分口汚い“お小言”を繰り出した後、それで見逃して部屋から送りだしてくれるなどという仏心をみせることもなく、僕達のことを学校上層部に報告した。「こんな不道徳な生徒は今のうちから矯正しなければならない」という教師としての義務感が働いた、かどうかは定かではない。単に目の前の汚れは落とさずにいられない性格なのかもしれない。

 僕達の関係は校長をはじめとした教師陣の知れ渡ることとなり、その夕刻、両親が学校に呼び出された。生徒指導室の机の前で僕と妹が並んで座っていると、入口のスライドドアが開き、スーツ姿の父と母が現れた。連絡を受けて仕事を早めに切り上げてまで駆けつけてきたらしい父は、これまで見たこともないような怒りの形相を顔に張りつかせていた。僕の方へ歩いてくると、無言で拳を振り上げ、僕の頬を殴り飛ばした。同席した生徒指導の教師が慌てて間に入るまで、3発の鉄拳をお見舞いされた。その間、母はただ俯き、目に涙を溜めていた。

 千依と共に家に連れ戻された僕はそれから3日間、部屋から出ることを許されず、謹慎を終えた頃には妹は父方の叔母の家に引き取られていた。親の立場からすれば、あのような行為に及ぶ兄妹をとても1つ屋根の下に置いておく気にはなれなかったのだろう。

 学校が僕達にくだした処分は1週間の停学だった。学校側は当然、看板に泥を塗るどころの騒ぎではないこの停学理由を外部に対して自発的に公表することはなかったが、この手の騒動が起これば嗅ぎつけずにはいられない野次馬根性たくましい生徒が何人かいたのだろう。僕が停学明けで登校した頃には、噂は全校内に広まっていた。

 僕は好奇と侮蔑と嫌悪の視線に晒されることとなった。誰も話しかけてこなくなり、見知らぬ生徒と廊下で肩がぶつかれば聞えよがし「うわ、ばっちい」と叫ばれる始末だった。高校2年生にもなって、よもや“ばい菌扱い”を受けるとは思わなかった。

 嫌がらせは次第にエスカレートし、能動的なものへと変化していった。授業中、後ろから背中にごみをぶつけられる、いつの間にかペンケースがゴミ箱に捨てられる、休み時間に唐突に水筒の水を頭からかけられる、等々。ある時は朝登校したら机にでかでかと「近親相姦野郎」と黒の油性マジックで書かれていたことがあった。僕がそれを見た途端、クラス中から忍び笑いの漣が沸き起こった。

 そのうち男子の集団に呼び出されるようになった。呼び出し、という表現は穏当に過ぎるだろう。数人に囲まれ、人気のない場所に連れて行かれ、袋叩きにされた。殴られ、蹴られ、唾を吐きかけられた。「てめえみたいなクズは、俺らが根性叩き直してやんよ」あるガタイのいい男子生徒は、嬉しそうな顔でそう叫びながら、僕の腹部に拳をめり込ませた。

 教師陣は僕の境遇に気づいていたのだろうが、僕がどんな扱いを受けようが一切この問題には関与してこなかった。彼ら自身、僕に白い眼を向け露骨に避けていたのだから、或いは当然の報いとでも思っていたのかもしれない。体育の時間などは、体育教師から体罰まがいの扱いを受けることも1度や2度ではなかった。

 誰もがストレスのはけ口を求めていたのだろう。常道を踏み外し自ら異分子となった僕は、それこそ鴨が葱を背負っているようなもので、彼らには恰好の的だった。

 僕は彼らに理解を求めなかった。そんなものを求めても無駄だと最初から思っていたし、自分達が世間の常識から外れた行為に走ってしまったという後ろめたさは少なからずあった。しかし、無性に腹立たしかった。「僕が妹と抱き合ったからって、お前らに一体何の関係があるんだ」と、思い切り叫びたい衝動に駆られた。

 物心ついた頃から千依のことを異性として見ていた。そうとしか見られなかった。

 千依も同じ気持ちだということは何となく感じていたが、気づかないふりをした。幼い頃から僕達はずっと、普通の兄妹を演じていた。常識と世間体に遠慮してやっていたのだ。

 その歪な兄妹関係が限界をみたのは、この年の夏のことだった。ある晩、千依が僕の部屋を訪ねてきた。ノックされてドアを開けると、徐に僕の肩へと、崩れ落ちるように抱き着いてきた。

「やっぱり私、兄さんじゃなきゃダメだよ」

 耳元でそう囁く声は涙の響きを内包していた。僕の理性は崩壊した。

 この時期、千依がある同級生の男子と付き合っているという噂は耳にしていた。身体中を引き裂かれるような苦しみを覚えたが、同時にこれで良かったのだ、とも思った。兄妹で好き合うこと自体がやはりおかしいのだ。何か間違いが起きる前で幸いだった、これを機に普通の兄妹に戻れるよう努力して行こう。砂を噛むような空虚さと共に、必死に自分にそう言い聞かせていた。

 その妹から、自分でなければ駄目だと言われた。まるで誰かと比較するかのような千依の言葉に、狂おしい嫉妬が沸き起こるのと同時にそれでも自分が選ばれたのだという恍惚感も覚え、もう思考がぐちゃぐちゃだった。

 気が付けば僕は妹を床に組み伏せ、一線を越えていた。

 後悔に蒼ざめる僕に、千依が優しく微笑んでくれた。気が付けば僕の眼からは涙がこぼれていた。嬉しくて泣いているのか、悲しいからなのか、自分でもわからなかった。

 そんな僕の涙を、生まれたままの姿の千依が右手で掬った。僕達の禁忌が成立したのは、実にその時だったかもしれない。

 不安と罪悪感がまとわりついて離れない日々だったが、それでもそれからの3ヶ月間は、熱病に浮かされたように互いを求めあった。普通の兄妹を装ってきたこれまでの十数年の間に溜まった何かが、一気に爆発したかのようだった。多少歯止めがきかなくなってしまったのも、無理からぬことではないか?結果として注意力と慎重さを欠き、あの化学室での破綻を迎えることになってしまったとしても。

 最初はこらえようとした。事実10年以上も我慢して周囲の常識に合わせていた。でも駄目だった。僕達は結局こうなるしか術がなかったのだと、今では確信している。

 それは、そんなに悪いことだろうか?蔑まれ、制裁を受け、それでも一片の哀れみも受けられないほど、僕達は罪深いことをしただろうか。では一体どうすればよかったのか。僕が千依と兄妹の枠を踏み外して、世界に一体どんな実害が生じたというのか。

 それらの叫びは、当時の僕の胸中に、絶え間ない嵐のように鳴り響いていた。

 あの一別以来、千依とは会わなくなった。

 叔母の家は同じ市内にあり、転校はしていないと聞いたから、まだ同じ高校に通っているはずだった。おそらく僕と同じような目にあっているのだろう。そう思うと居ても立ってもいられなかった。しかし1年の教室に、会いに行くことはできなかった。元凶である僕が会いに行けば、彼女の立場を悪くするだけだ。

 連絡する手段もなかった。以前持っていたスマートフォンは両親に取り上げられ、その時の僕は何一つ自由に使える携帯端末を所持していなかった。千依のスマートフォンも同様に取り上げた、と両親は言っていた。固定電話でかけようにも、僕は叔母の家の番号を教えられていなかった。調べようと思えば何かしらの手段はあっただろうが、万が一かけることができて彼女に通じたとして、そのことが両親なり叔母にばれればやはり彼女に迷惑がかかる。八方ふさがりである。

 全部言い訳だろう、と心の奥底でもう1人の僕が囁く。千依の為だと体裁の良い理由をつけて、結局は自分の保身の為だろう。彼女に近づいて、自分の立場がこれ以上悪くなるのを恐れているだけだ。いやそれよりも、今更どの面を下げて千依に会うつもりだ。逢って、そんな情けないお前を彼女が拒絶することが、お前は怖いのだ…

「うるさい!」

 自分に向かって金切り声をあげる。苛立ちを抑えられなかったのは、その囁きが少なからず真実を内包していたせいでもあったろう。どれだけ耳を塞ぎ騒ぎ立てたところで、自分の内からの声は遮断することもかき消すこともできない。

 何もかもが憎く、そして虚しかった。誰も彼も消えてなくなってしまえと思った。両親も、学校の連中も、自分自身も。千依を失って僕の世界はモノクロームと化した。無理解に強弁する気力も迫害に抗う反骨心も沸かず、当然千依に会いに行く勇気も持てず、ただ状況に流されるまま惰性で呼吸を続けた。倦怠感と無力感に包まれた僕の周囲で、時間だけが無為に過ぎていった。


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