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冷たい桜  作者: 七三 一二十
1/8

(1)

 突風が吹き、夜の闇をその一角だけくり抜くかのようなスポットライトの明かりの中を、桜の花びらが散り流れていった。

 4月の夜に公園を歩くとこんな風流な光景に出会えるとは、今まで考えもしなかった。なんでも体験してみるものだな、と今更のように思う。

「綺麗だね」

 傍らを歩く千依が、夢見るような声色で囁いた。

 肩の寸前まで伸びた髪を、風がさらって行く。大きな目を驚いたように見開いたその無邪気な表情が、元々の童顔をより一層あどけなく見せていた。目鼻立ちは整っているはずなのに、いつまでも美人というより可愛らしい印象が勝るのは、彼女のそういう無防備な挙措に因る処も大きいのだろう。

「季節外れの雪みたいだな」と返そうとしたところで、よく考えれば“桜吹雪”という既存の言葉もあることだしこれは陳腐か、と思い直し、

「流星群みたいだな」

 という相槌に変えた。

「流星群なんて観たことあるの?」

「この前読んだ小説で、大体のイメージは掴んだ」

「なんだ」

 夜空の下で益体もない、呑気な会話を交わしている。まるで夜の逢瀬を楽しんでいる恋人同士みたいだ、と思った。とても死に場所を探している人間達の雰囲気ではない。

 さっきまでちらほらと残っていた花見客達も10時を過ぎた今ではその姿を消し、辺りは閑散としている。

 これまで関東圏より北へ来たことはなかったので、東北地方の一角に鎮座するこの公園に足を踏み入れるのも無論初めてのことだったが、夜の闇の中ではとてもその全貌を把握できない程度には広々としていた。満開を迎えたソメイヨシノの樹々が幅広の赤レンガで舗装された歩道の左右に緊密に林立し、ライトアップされていた。並木道の周囲には起伏に富んだ芝生が広がり、群生する灌木も暗い視界の中でうっすらと散見される。

 歩道から少し離れた処に、やはりライトアップされた桜に囲まれた一角があった。明かりが水面に反射するのが微かにみえたので、どうやら池があるらしいとわかった。

「あれ、池かな」

 同じく気づいたらしい千依が僕に聞いてきた。

「そうらしいな」

「ボートとかあるのかな」

 千依が水面の方を指さした。

「あってもこんな遅い時間じゃ貸出してないだろう」

「勝手に乗っちゃえばいいじゃない」

 そう言うと、千依は池があると思しき光の輪の中へ向かって駆け出していった。慌てて僕も後を追う。

 池は予想以上に大きなものだった。暗がりの中で正確な距離感は掴みかねたが、僕達が立っている縁から向こう側の岸まで、100mほどもあるかと思われた。周囲は遠目で見た通り桜の樹々に囲まれていたが、こちらの桜はソメイヨシノではなくヤエベニシダレだった。何故そうも正確に品種が言い当てられるのかと言うと、どちらも根元の立て札を読んだからである。煉瓦通りの両脇を彩る並木桜よりも疎らな並び方で、ライトの光も弱いようだった。その後ろには鬱蒼と茂る草木が密生していて、枝垂桜毎池を飲み込もうとしているようにも見えた。

 池の縁の辺りには等間隔で杭が打たれ、それらの間に転落防止用のロープが貼られている。

 手前には古びた木製の看板が立てられ、そこには子供が池に落ちる瞬間を描いたデフォルメのイラストと共に「危険・転落注意!」という警告が赤文字ででかでかと記され、その存在を主張していた。赤文字の下には更に細かな注意書きが数行、小さな文字で続いている。目を近づけるとうっすら、部分的にだが判読することができ、その文によってこの池の水深は3mで万一にも落ちてしまったら“大変なことになる”ということがわかった。

 弱いとはいえ灯りに囲まれているので、池の全貌はうっすらと把握できる。どうやらボートも桟橋も見当たらなかった。

「ちぇ、残念」

 千依が口を尖らせる。最後に恋人らしいことをしてみたかったのにな、という小さな呟きが聞こえてきた。その気持ちは僕にもよくわかったので、そうだなと応えておいた。

 池の向こうから冷たい風が吹き付け、僕は身を縮ませる。

 この地方の4月の夜は想像以上に冬の名残を残していた。関東圏より北に馴染みのなかった僕にとっては大きな誤算であり、辟易するしかなかった。

 千依が身体を震わせながら両腕を抱き合わせる。

 千依の服装は無地カットソーの上から羽織った春物カーディガンにチノパン、靴はスニーカーというもので、活動的ではあるが防寒には向かない。一方僕は下こそジーンズにシューズだが、上半身は薄手のセーターにブルゾンを重ね着していた。どれもディスカウントショップで揃えた安物だったが、千依より僕の方が弱冠寒がりなので、やや厚めのコーディネートとなったのだ。

 僕は背負っていたリュックサックを一旦地面に降ろすと、自分のブルゾンを脱ぎ、妹の肩にかけた。これも春物で大した厚さはないが、多少は寒さを凌ぐ役に立ってくれるだろう。

「ぷっ、何かっこいいことしてんのよ」

 腕を交差させて僕のブルゾンをつかみながら、千依は揶揄するような口調になった。

「おかしいかな」

「去年までは私が寒がっても、こんなことしてくれた例がないじゃない。ほんと、現金なんだから」

「そりゃ単なる妹と恋人とじゃ、扱いに差が出るのは当然だろ」

 僕が言うと、妹―千依がバンバンと背中を叩いてきた。お互い無理にはしゃいでいるのは、何となくわかっていた。

 妹は背中を叩く手を降ろすと、じっと目の前の池を見つめた。

「ここにしようか?」

 千依がポツリと呟く。何が、とは聞くまでもないことだった。

 池の水面には無数の桜の花びらが浮かび、また鏡のように周りで咲き誇る桜をぼんやりと映し出している。水底の様子は見えない。表面の鏡像の向こうには、まるで水ではなく濃い闇がわだかまっているようでさえある。

 安全ロープは貼られているが、難無く跨ぎ超えることができる高さだ。看板に書かれた水深通りなら、飛び込んだとしてまず底に足がつくことはないだろう。

「赤い糸でも買ってこようか」

「なんで?」

「入水心中する恋人同士は小指と小指を赤い糸で繋いでするっていうのが太宰治以来のルールなんだ」

「そうなの?」

「…他の例は知らない」

 僕は頭を掻いた。千依が盛大に溜息を吐くと、冷えわたる闇の中に息が白く浮かびあがった。

「また適当なことばかり言って。なんでも知ったかぶるの、昔からだよね」

「悪かったな。自分でもしょうもないと思っているよ」

「私はそういう処、結構好きだけどね」

 そう言ってくれるのはこの世界で、この妹だけだろう。僕が自分の浅薄さを素直に認めることができるのも。

「兄さんがそうしたいなら、いいよ。今から買ってこようか。コンビニで売ってるかな、赤い糸」

 千依は今にも再び走り出しそうな勢いだった。僕は窘めた。

「その“兄さん”はやめろって言ってるじゃないか。お前は僕を自分の恋人と認めたくないのか?」

「だって、やっぱり“兄さん”が一番呼びやすいんだもん」

 昔からずっとそう呼んできたのだから、それは無理のないことだろう。

 幼い頃は“お兄ちゃん”と呼ばれていた気がする。いつから“兄さん”になったのだったか。

 我が家はどこにでもいる庶民の家庭だし、然して礼儀作法にうるさい家風とも思えない。“兄さん”なんてお行儀の良い呼び方を何故この妹が使うようになったのか以前から疑問だったのだが、この前本人に直接尋ねたら「忘れちゃった」という返答が帰ってきた。大方子供の頃観ていたアニメのキャラクターにでも感化されたのだろうか。

「もう、話の腰を折らないでよ、“兄さん”」

 千依に僕の抗議を斟酌する気はないらしい。今度は僕が白い溜息をつき、まあいいかと心中で唱えた。僕としても、実の妹に名前で呼ばれるのがこそばゆい感覚が無くはない。

「んー、でも、水が冷たそうだな…外はこんなに寒いんだし、きっと冷たいだろう。それに何だか汚い」

 よく観察してみると、池の表面には風流な桜の花びらだけではなく木の枝や葉っぱなどもあちこちに浮いている。更にはそれらに混じって散歩客が道すがら捨てていったと思しき紙くずやタバコの空箱なども見えた。

「贅沢ねえ。そんな我儘ばかり言っていたらいつまで経っても決められないよ?」

「幾ら吟味してもしすぎるなんてことはないさ。心中なんて一生に一度しかできないんだからな」

 無論失敗しなければの話だが、その可能性については敢えて言及しなかった。

 改めて夜の公園を見回す。闇の中、スポットライトに照らされた桜が輝くように林立する景観は、風情豊かなことは間違いなかった。淡い光とまばらな枝垂桜に包まれた池の周囲も、幽明境のような趣があって、慎ましい美しさがある。ロケーションとしては、何の不満も沸いてこなかった。

 草花の匂いが鼻腔に染み入り、酩酊感を誘う。ここを僕達2人の最後を飾る地にするのも、悪くない気がした。


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