第一話
熱気溢れる体育館。
この大会に出場している選手は少なく見積もっても五百人。それだけの人数が詰め込まれているのだから当然室温も上がる。夏の陽気もあってか体育館の中は軽く四十度を越えていた。
そんな中、俺は激闘を繰り広げていた。縦274センチ横152.5センチという小さな台でボール打ち合うスポーツ――卓球。スマッシュの打ち合いともなれば飛び交うボールは時速百キロを軽く超える。嘘じゃない、本当だ。現に今、俺がそれをやっている。
「ドンマイドンマイ〜。しょうがないよ」
ラリーに打ち負けて失点した俺を先輩が後ろから励ます。
疲れた。手首も痛いし、もう負けが決まったようなもんだ。まあ、疲れているのは相手も同じだけどな。俺は台を挟んで向かい側に立っている相手の選手を見た。
「良し。後、一本だ」
相手の選手は小さくガッツポーズをして呟いていた。ちなみセット数は1対2。このセットのカウントは9対10で俺が負けている。5セットマッチ3セット先取なので次に相手が点数を取ったら俺の負けだ。逆に俺が点数を取ればデュースになって勝負は分からなくなってくる。
「さー、集中ー」
俺は声を出し、自分を鼓舞する。手っ取り早く負の感情を払える良い方法だ。
俺が台についたのを確認し、相手も構える。
サーブは俺からだ。とっておきのヤツを見せてやる。
ボールを高くトスする。落ちてくるボールの斜め下を押し出すようにしてサーブを放つ。無回転のサーブ――ナックルサーブだ。
ボールは高速で飛び、相手のバック側コーナー付近にバウンドした。良し、狙い通りだ。
相手はまさかこの状況でロングサーブが来ると思っていなかったらしく、反応が遅れていた。それでも落下地点付近にしっかりと移動してスマッシュのモーションに入っている。
あ、バレたかも。
俺の予想通り、相手のラケットの角度は台に対してほぼ垂直になっている。ナックルサーブという事はバレていたようだ。バッチリのタイミングでスイングし、そのままボールの横っ面を叩く。
そのようにして放たれたスマッシュは俺のコートのバック側コーナーに突き刺さった。が、俺も打たれることは予想していた。あらかじめコーナーの近く――ボールがバウンドし上昇する所にラケットを置くようにしておき、それを跳ね返す。サーブで狙った場所とは逆のコーナーに。
相手はそのボールに飛びつき、何とかラケットを当てる。だけど、ラケットの角度がおかしい。
ボールは高く上がり俺のコートにバウンドし、再び高く上がった。俺は野球のオーバースローのような動きでボールを力一杯相手コートに叩きつける。高く跳ね上がったボールは相手の頭上を大きく超えて観客席に落ちた。
良し、一点取った。これでデュースだ。
俺はガッツポーズを取り、喜びの声を上げた。これで試合は分からなくなってきた。疲れてるし、左手首も痛い。だけど、ここまで頑張ったんだから勝ちたい。俺の中で何かが熱く燃えていた。
気が付くと相手は観客席からボールを取って、戻って来るとこだった。スゲー悔しそうな顔をしてる。相手は格上だけど勝てるかもしれない。そんな思いを胸に秘め、俺は構えた。
相手も台につき、構える。次は相手のサーブだ。
フォア前にショートサーブが来る。俺はそれを払うようにして相手のフォア側に返す。するとそれをスマッシュで返され、俺も負けじとスマッシュで返す。
デュースになってからはお互いにスマッシュの打ち合いとなっていた。取ったり取られたり、お互いの点数は交互に積み重ねられていき、気がつくとカウントは19対18と凄まじい数になっていた。ここまでデュースが続く事はあまりない。というか、俺にとっては初めてだ。
さっきまで気づいていなかったが、俺が一点リードしている。デュースは先に二点差をつけたほうの勝ち。つまり一点だ。後、一点でこのセットは俺の勝ちとなる。
「さぁ、一本」
俺は小さく、自分にだけ聞こえるような声で自ら鼓舞した。別に大きな声で言うのが恥ずかしい訳じゃない。正直、体力が限界なんだ。このセットを取っても次がある。それを取れるかどうか……。
俺はそこまで考えると慌てて首を振った。そんな弱気でどうする。勝つのは俺だ。
ゆっくりと台につき、構える。
相手もそれを確認するとボールを高くトスする。落ちてきたボールの斜め上を擦りあげるようにしてサーブは放たれた。
俺は一瞬でそのサーブがなんだか理解した。上回転サーブ――ドライブサーブだ。
打って来いということか。相手のお望みどおり、俺は全力でスマッシュを放つ。全身の力を掻き集めて打ったスマッシュだ。返せない筈。俺は相手コートに突き刺さる自分のスマッシュを思い浮かべた。
しかし、俺の思いとは裏腹にボールはネットの上部に当たった。ボールはネットに力を吸収され、ふらふらとネットの上部を綱渡りするかのように揺れる。
向こうに落ちろ。
俺は強く念じた。その祈りが通じたのか、ボールは相手コートに落ち、小さく二回バウンドした。
俺は喜びを抑え、相手に向かって軽く人差し指を立てて見せた。卓球ではネットなどになって得点してしまった時、こういう風にして謝る。流石はイギリス生まれのスポーツ。紳士的だ。
セット間の休憩のために自陣に戻る俺。
何故か、そこで意識が途切れた。
「光〜?」
誰かが俺の名前を呼びながら俺を揺すっている。どうやら安眠タイムはここまでらしいな。窓側の一番後ろの席は寝るのは最高なんだけど。しょうがないか。俺は潔く体を起こした。
ここがどこかというと、学校だ。日比野学園高等学校。別に頭が良いわけでもなければ悪いわけでもない。部活が強いわけでもなければ弱いわけでもない。例外として女子卓球部は強いらしいが俺には関係ない。要するに普通の私立高校だってことだ。傍から見たら普通じゃないらしいけど
「昨日、夜遅くまで寝てたから眠いんだけど」
間違えた。夜遅くまで起きてたから眠いんだけど、だ。まあ、目の前にいる俺の親友には言いたいことが伝わったらしいから良いけど。
あ〜、相変わらずモテそうな面だこと。成績も良いし、性格も良いもんな〜。
そんなことを思いながら目の前にいる爽やかイケメンの親友――瀬川浩一を眠そうな目で見た。
「何?」
手短に用件を訊く。だって眠いんだもん。
「もうそろそろ先生来るからさ。あ、知ってた? 新しい先生が来るんだって」
「へぇ〜。男? 女?」
「女だって」
「じゃあ起きてよう」
俺は大きく伸びをして眠っていた全身の細胞を呼び起こす。やっぱ性欲には勝てないよね。
「ははは、やっぱ一条は女好きだな〜。身長低くて女っぽい顔のクセに」
不意にクラスメイト――山本が俺に話しかける。当然、一条っていうのは俺のことね。一条光、中々良い名前だよな。お気に入りだ。まあ、身長低くて女顔っていうのも自覚してる。時々、女子から“ヒカリちゃん”なんて呼ばれるがしょうがない。そのおかげで女子から警戒されにくいのはラッキーだけどな。
「うるさいよ、山本。で、この季節に新しい先生が? もう夏休みまで一ヶ月ちょっとだぞ」
俺は浩一に疑問をぶつけ、窓の外を見る。まだ六月だというのにセミの鳴き声が聞こえる。梅雨が過ぎたといえ出てくるの早すぎだろ。
「あ〜、何かうちの担任がやめるらしいよ。家の都合がどうとかで」
「へ〜、工藤先生やめるんだ。男子卓球部ってどうすんの?」
このクラスの担任であり、男子卓球部の顧問でもある工藤先生。何度か卓球部に誘われたこともある。ちょっとした理由があって入らなかったけど。ちなみに工藤先生は教師の仕事にかなり熱心だ。この時期に退職なんて一体何があったんだろうか。しかし、そんなことはどうでも良い。俺には卓球部の存続問題と新任の女教師の方が気になる。
「何か、新しく来る先生が顧問やってくれるんだってさ。なあ、山本」
「ああ。昨日の部活の終わりに俺達に言ってたもんな。つか、新しく来る先生って卓球出来んのか?」
「さあ?」
浩一は首を傾げて笑った。周りの女子の目が浩一に釘付けになる。独り占めは良くないよ、浩一君。ていうか、山本って卓球部だったんだ。浩一が卓球部なのは知ってたけど。
「おい、お前ら。席に着け」
会話に夢中になっていた俺達に声が掛かった。その声の主は教卓に上でこちらを見ていた。さっき話題に出た工藤先生だ。となりに小さな女の人が立っている。まさか、あの人が――。
「あ〜、お前ら。噂で知っていると思うが俺は一身上の都合で教師をやめることになった。もちろん、代わりの先生はいるぞ」
工藤先生はそこまで言うと一歩身を引いた。代わりに女の人が前に出る。
「今日からこちらの学校で教師をさせて頂きます。早川美月です。担当は教科は英語。卓球部の顧問をすることになりました。よろしくお願いします〜」
よっしゃ〜! 超美人だ〜。背は小さいけどスタイル良いし、セミロングの髪は綺麗だし、顔も良いし。
工藤先生やめてくれてありがとう。
「おい、光。予想外なぐらいに美人だぞ。後は卓球が上手いかだな、山本」
俺の前の席に座っている浩一が話しかけてきた。ちなみに山本は俺の隣の席だ。
「俺はもう満足だ」
山本はうっとりとした目で早川先生を見ている。まあ、気持ちは分かるけどな。
「まあ、帰宅部の俺には関係ないし」
俺は手をひらひらさせて答えた。卓球部に入っていない俺には卓球の強さなんて関係ないよ。それに美人だからそれで満足〜。
「あ、じゃあみんなの名前を覚えるために出席取るね。返事してよ〜」
早川先生の澄んだ綺麗な声で俺達は我に返った。
あ〜、声も可愛いな〜。
「工藤先生は?」
隣で山本が呟いた。
あっはっは、山本。馬鹿かお前は。工藤先生ならそこに……いねえし。別れの挨拶ぐらいしようよ、先生。ま、気にしないけどな。あ〜、もう早川先生最高。
「一条君?」
早川先生が俺を呼ぶ。そういえば出席取るって言ってたな。出席番号一番って俺だし。
俺はうい〜、と微妙な返事をした。だって眠いんだもん。
早川先生は教室中を見回している。俺を探してるのかな?
「一条光君〜? 手上げて〜」
やっぱり俺を探していたらしい。
「はい」
俺は手短に返事をして手を上げた。早川先生と目が合う。
「一条君どこの中学校だった?」
早川先生は少し俺を見つめた後、そんな事を訊いた。
「沢波中ですけど……」
俺はやや歯切れの悪い答え方をしてしまった。質問の意図が分からなかったからだ。みんなに出身中学校を訊くのは効率が悪い。みんなのことを知りたいなら自己紹介させれば良いんだから。
「ふ〜ん。沢波中だったんだ?」
先生はみんなに聞こえるかどうか微妙な声で呟いた。
え!? 何、その反応。もしかして俺、ブラックリスト入った? え、何で。俺、何もやってないよ?
俺は頭を抱える。いくら考えても理由は見つからず、思考のラビリンスに嵌っていく。いや、メビウスの方が良いかな? どうでも良いけど。
「光、体育館行くぞ」
浩一が話しかけてくれたおかげで俺は我に返った。
「何で、出席は?」
「は? とっくに終わったよ。1時間目は体育だから早く行って着替えるぞ」
「お、おう」
俺は体育着を入れた袋を持って浩一の後を追った。
「う〜」
腕を組み、食券機の前で唸る俺。
あ、ちなみにここは食堂ね? 今日は何故か午前だけで授業は終わり。ちなみに食堂は午後八時までやっている。部活で頑張っている生徒のためらしい。
普段は弁当を持ってきてるんだけど今日は作るの忘れた。だから食堂に来ている。
「う〜」
何しようか、全く決まらない。まあ、悩んだ時はカレーだと俺は決めている。
俺はカレーのボタンを押した。すぐさま、券が出てくる。出てきた食券を握り締め、この食堂を営んでいるおばちゃんの元に向かう。
おばちゃんからカレーを受け取り、座る席を探す。まあ、生徒の数より席の方が多いから探す必要は無いけど。とりあえずいつもの窓際の席に座る。お気に入りだ。太陽光は気持ち良いよね。たくさん浴びとかないと。光だけに。
一人でつまらない洒落を考えながらカレーを口に運ぶ。浩一も山本もさっさと飯を済ませて部活に行った。正直、寂しいな。あんまり男の友達多くないし、俺。女の友達はたくさんいるんだけどな。誰も恋愛対象として俺を見てないけど。悲しいぜ。
気づいたら既にカレーは残り一口になっていた。それを口に運び、席を立つ。
「一条君?」
不意に後ろから声をかけられた。とりあえずその人物の方を向く。
「あ〜、やっぱり一条君だ。ねえ、今時間ある?」
早川先生が無邪気そうな笑みを見せながら俺の前に立っていた。近くで見ると先生って小さいんだな。百五十五ぐらいかな。まあ、俺も小さいんだけどね。百六十二しかないし。
「何か、用ですか?」
小さいとはいえ教師なので敬語を使っておく。
「あ、うん。ちょっと話があるんだ。そこ座ってくれる?」
先生はさっきまで俺が座ってた椅子を指差した。俺は言われるがままに腰を下ろす。
「で、何ですか?」
俺はもう一度訊く。別に用事があるわけじゃないけど。あまりここにはいたくない。熱いし、人がたくさんいるし。
「ごめんね。すぐ終わるから。……一条君って部活入ってないよね?」
俺の隣の席に腰を下ろした先生が訊く。俺は手短にええ、と答えた。
「ならさ、卓球部に入らない? 私、卓球部の顧問なの」
なんと卓球部への勧誘を受けた。前の顧問の工藤先生にも何回か誘われたけどまさか会って一日目の人に勧誘されるとは思わなかった。
「何で、俺なんですか?」
「え、だって一条光君でしょ?」
とんちんかんな答えを言う先生。一条光という名前と卓球は関係無いような気がする。ていうか、関係ない。
「まあ、一条光ですね」
「でしょ。だったら卓球やろうよ」
卓球か。工藤先生の時から断り続けてるんだけど……。俺の答えは決まっていた。
「そうですね」
……美人に弱いのは男の性さ。