04
「……ですから、両替すると手数料がかかりますので、一旦お預けになられた方が」
窓口の行員が熱心に何かを語っているがまるで頭に入らない。ATMが大量の小銭を受け付けてくれず、一度両替をしてからにしようとしたらこの様だ。よく分からずその通りにしてくださいと返事をした。指示されるがままに自分のキャッシュカードを差し出すと、間もなくして預入完了明細を渡された。ぴったり一万円でしたよと行員は笑顔を浮かべている。
「こちらのお振り込み先でしたら、ATMからの口座送金が無料でご利用いただけます」
頭がぼんやりしている俺の拙い言葉から、手数料をかけずに目的を果たす最適の手段を導き出してくれたらしい。小さく会釈して窓口を離れた。
ATMの振込画面で再び戸惑った。これはリコさんのお金だ。でもリコさんはいないのだ。リコさんの名前で振り込むなんて、まるで彼女が生きていることを装うみたいではないか?
怪しい人物から振り込みがあれば、施設の人たちがすぐに気がついてくれるかもしれない。探し出してくれるかもしれない。でもこのお金はリコさんのものだとも気付いて欲しい。しばらく考えてから『R』と送金主の欄に入力しておいた。これはルームメイト募集の時に彼女が使っていたハンドルネームだ。これならリコさんに何かが起きたと、施設の人たちが気がついてくれるだろうと根拠もなく確信していた。
やるべきことは全てやった。家を出発する時から、いいやもっとずっと前から俺も死ぬことに決めていた。リコさんのいない世界なんて捨ててしまえる。
家に戻ってからまずエアコンの電源を入れた。急に決めた引っ越しだから実際に部屋を引き渡すまであと五日もある。熱帯夜の続く季節に死体がふたつも放置されれば間違いなく大惨事だ。限界まで室温を下げておけば少しは腐敗を遅らせられるかもしれないと考えた。五日間だけ保てばいいのだ。上手く行けばそれよりも早く施設の人が気付いてくれる。銀行にいたときとは一転して、ものすごい速さで頭が回っていることが自分でも分かり気分は高揚していた。
足元のリコさんに目をやる。失禁したのか下半身の汚れに気が付いてしまった。このままにはしておけない。ボストンバッグに着替えがあったことを思い出して開け広げた。
汚物は始末して着替えさせるついでに身体中を清拭した。本当なら死化粧のひとつでも施すべきだろうが、頭のビニール袋を取り払う覚悟だけは決まらない。
「ごめんね」
回避可能な選択肢を俺はこの手で握り潰した。後悔を問われたら明確にノーと言えるけれど、正義を問われてもやっぱり答えはノーだろう。
いよいよ部屋は冷えきって歯の根が合わなくなってくる。
本当に本当に、大好きだったんだ。
リコさんにとってはどうだったか知らないが、少なくとも俺にとってのこの二年余りは、その日々を抱き締めているだけでこの先何があっても生きていけそうなほどの光で弾けている。例えるなら色が飛ぶほどの白。そのましろの世界にふたりきりで閉じこもっていたかった。
「もう少し一緒にいてくれる?」
実は死んだふりをしていただけでバァとおどけて笑う彼女を想像したわけではない。プラシーボで遊んだ時のようなしたり顔を期待したわけでもない。返事がないことを承知の上で声かけしてみたが、やはりリコさんが応えることはなかった。
このまま死んでやってもあと五日こっきりだ。五日後に俺らは収まるべきところに収まるのだろうが、そこが同じ場所でないことは知っている。それだったらいっそここを出るか。膝を抱え込み、血の通わなくなった彼女の四肢をなめるように見つめていた。
思い立ってからの行動は早い。脇下に両腕を差してズルズルと玄関まで引きずり歩く。そのまま部屋を出て、アパートの入口前に停めたままのトラックの荷台にリコさんを横たえてシートを被せた。真っ昼間という大胆さにも関わらず、通りから少し入ったところにあるここは馬鹿げた考えを止めさせる人の目などなかったのだ。
三十分くらいハンドルを抱えたままでいた。腰で縛り付けて一緒に海にでも飛び込んでみるか。いや、それはダメだと頭を振り打ち消す。地元の海岸に時折上がる水死体の類は正視できたものじゃなかった。リコさんをそうさせるのは憚られる。アクセルを吹かすとやけに鈍い音がした。
下道でトロトロと三時間近く、とにかく人気のなさそうな方向を選んで進むというデタラメ走行でたどり着いたのはどこかの山林だった。途中でトラックでも乗り入れられないような悪路にぶち当たりここまでかとエンジンを切った。
丸ごと持ってきたボストンバッグに、リコさんが自ら首を括ろうとしたロープを忘れていないことを確認する。俺ひとりの体重を吊すのに十分な太さの枝木はいくらでもあるように見えた。何週間か、それとも何ヶ月か。運が良ければ土に還るまでずっと一緒にいることができる。
荷台に回ってシートをめくり、愕然とすることになる。
リコさんは変わらずそこにいる。しかし真夏の炎天下、シート越しで日光に蒸された肉体はかなりの異臭を放っていた。
それでも降ろすしかない。乗せた時と同じように脇から抱えて引きずり歩く。これがまた悪手であった。日は陰りあたりはほの暗い。後ろ向きに引きずり進んでいた俺は、まるで落とし穴のようにぽっかり口を開けた窪みに気付かず足を踏み外したのだ。
とっさに抱いたからリコさんは大丈夫だろう。でも俺は受け身を取れず背中を強打し悶絶した。おまけに落ちるとき踏ん張りきれなかった足首はおかしな捻り方をしたらしく、当分は立ち上がれそうにない。
周辺に降る雨水を一手に引き受けているせいか手をつくと土からジワリと水がしみて、岩には苔が張り付いている。深さは自分の背丈よりわずかに高い程度だから足の痛みさえ引けばよじ登れそうだ。しかしリコさんをひとりで引き揚げるのは不可能に近い。苔のせいで足元は悪すぎる。
上体を起こして天を仰ぎ見た。葉の隙間から暗闇が見える。東京の空よりずっとたくさんの星粒が光っていて、死に場所としてはそう悪くないように思えた。しかしまとわりつくのはいよいよ我慢ならなくなってくる腐敗臭だ。湿気った場の臭いと死肉の朽ち果てる臭いが鼻孔で混じり半狂乱に陥りかける。
リコさんを殺めてから半日とちょっとしか経っていないはずなのに、半日とちょっと前まではシャンプーの香る甘さに包まれていたはずの彼女が、万人が顔を背けるほどの異臭を放っている事実に発狂しそうだった。ガリガリと左腕をかきむしっていたら血がにじみ始めたけれど、この傷だって一日やそこら放置したとて腐ることはないというのに。
白かった肌はあちこち青紫に変色して瑞々しさなどとうに失われていた。引きずり回したせいで擦り傷にだらけの下半身は皮膚が破けハエがたかり始めている。手で追い払ってもその数は増える一方だし、下手に動くと臭いにやられてこちらが失神しそうになる。いっそ気絶でもして死ぬまで目覚めない方が楽なのは間違いないが、想定外の早さで進行していく腐敗を目の当たりにし脳みそは混乱と興奮を覚えていた。
明け方近くになって疲労困憊し、なかば寝落ちの形で目を閉じていた。次に目を開けた時、太陽はまだ上昇を続けている最中だ。
ここからが地獄の始まりだった。
しばらく眠りこけている間にリコさんの状態はますます悪化していた。飛んでいたハエが産みつけたのかどこかからやってきたものなのか無数のウジ虫が身体を這っている。なぎ落としひねり潰すけれども、潰すそばから増えていくようできりがない。両手をべちょべちょにしながらウジ虫を取り除く作業をしている間だけ、腹の底からたまる凄惨な気分が和らいでいた。思考停止になるほど忙しい状態というやつはこのことなのか。
昨日から飲まず食わずに加えて気の狂う暑さと強烈な臭いに意識は朦朧としてくる。潰そうとしたウジ虫が指の間からこぼれ落ちてまたリコさんを食らった。
状況を打開するには穴から出るしかないが、今や自分ひとり脱出するのも危うい雲行きだ。少し休もうとリコさんの隣に身を横たえると、本当の空も怪しい雲行きを見せていた。
間もなく降り始めた夕立は、窪みにも容赦なく注ぎ込んでくる。洗い流されたウジ虫は窪みの一番深いところに溜まり漂うばかり。仰向けに寝そべる俺の顔面にもぶつかる雨水は返り浴びた汚れを落とすだけでなく、朦朧の原因となる脱水症状までも癒やしていた。
ウジ虫ですらいずれ羽を生やし、食らった分だけのリコさんを己に変えてこの穴ぐらから解放させることができるというのに。そんなことすら出来ない俺はウジ虫以下の存在で、死の感覚まで遠ざかっている。心は萎える一方、身体は僅かの休息で幾分も楽になってしまう。
そもそも嫌な事柄から逃げ回るだけの人生を続けてきた俺が、最大の苦痛を伴う死にひとりで向き合えるわけなどなかった。
何十にも切りつけられたって火あぶりにされたって、悪あがきをして死に損ねたくらいだ。リコさんのように全て受け入れ無抵抗に死へ向かう想像が全く出来なくなってくる。
一昨日の夜、俺はリコさんと何を話していたのかな。
雨が止み、ウジ虫を除く作業を再開した。ひねり潰したウジ虫を岩にこすりつけ、飛び交うハエを叩き落とす。それをまた夜通し続けても肉体の崩壊は止まらない。歪に膨らむ肌から裂けて膿のようなものが流れ出てくる。そこに次のウジ虫がたかりますます気は滅入る。まだ人の形をしているリコさんが人でなくなるのにそう長い時間はかからない。人の道徳や尊厳なんてものはこの死臭を前にひれ伏すだろう。
「こんなことになるならエアコン効いた家にいたら良かったよ。リコさん、流石に怒ってるよね」
そうして俺は顔にかけたままにしていたビニール袋を外した。
想像通りで想像以上にリコさんの顔面は崩壊を始めていた。これで最後だと決めて瞼から尻だけ出しているウジ虫を引きずり出した。だらしなく開かれた口の中に指を突っ込んで、黒い液体にまみれたウジ虫たちを摘まみ上げる。少し頭を傾けるだけで穴という穴から粘液が垂れてきて余計にリコさんの顔を汚してしまった。
ここには濁りない精製水も清潔なガーゼもない。あるのはせいぜい汗と汚泥と雨水にずぶ濡れた俺の身につける衣服くらいのものだ。
シャツの裾を固絞りにして顔を拭いてみる。ドロドロだけどベタベタでなくなっただけ少しはマシか。
「リコさんはそういうんじゃないって知ってるから言わなかったけど、本当に好きだよ。言ったら一緒に暮らせなくなるって思ったから言わなかっただけで、本当に大好きだったんだよ。くだらねえって思うかもしんないけど俺には深刻で大事なことだったんだからさ。でもいま言えてちょっとすっきりしたな」
頬を撫でるとまた口から腐敗液がこぼれ、仕方ないから指ですくうように拭いてあげた。溶けたチョコレートに似た見た目と感触だけが指先に残る。
「骨になるまで全部溶けちまうのかな。生きてるみたいなミイラだってあるのになんでなんだろな。リコさんは消えてなくなっちまうんだろうな。でも俺がちゃんと覚えとくから大丈夫だよ。こんなズタズタにしちゃったのは俺の責任だ……でもさぁ、最後にひとつだけいい?」
顎に手を添え唇を結ばせた。そうしてみても穏やかに眠る顔にはほど遠い。
「もうリコさんなくなっちまうんだよ。だからさ、最後に一回くらいキスしたって構わないでしょ。野郎なんてお断りだろうけど、でも俺だって男なんだよ。ウジ虫よりは汚くないと思ってんだけど。一回だけでいいから、そしたら俺な……」
最後の夜の記憶が頭の中でウジ虫となり溢れ出す。リコさんは俺にとってあんまりにも残酷な言葉を残していったのだ。
軽く触れるくらいに唇を重ねてみた。わずか数秒の後、まるでこちら側の世界に来るなと追い返されるような激臭に顔を背ける。空っぽで胃液ばかりしこたま吐いて、四つん這いの格好で泣きじゃくってしまった。
リコさんを殺したら俺も追いかけるからねと一晩中喚き散らしていた。でもそれはダメだと言われてしまった。ちゃんと生きなきゃダメだと言われてしまった。ちゃんとしないなら出て行ってと言われるなら、ちゃんとするねと約束するしかないだろう。
でもそれは返事だけでしっかり自分も死ぬ道を用意したはずだったのに。俺の魂胆はリコさんに見抜かれ、自らを腐敗させるという形で俺の死ぬ決心をねじ伏せたんじゃないかなどという都合解釈が駆け巡っていた。
私をこんな姿にして、楽に死ねるなんて思わないでね。
腹まで響くパワーを持った悪臭が脳内でリコさんの言葉に変わる。
彼女に酷い思いをさせてしまった俺は、ここで過ごした二晩を一生覚えてないと死ぬ資格すらなさそうで。よろめきながら窪みから這い出ると顔面に新鮮な空気が吹き抜けた。
上から覗き見る穴の底は再び降りられないほどの悲惨な様相を呈している。
ウジ虫にくり抜かれた彼女の目は俺を向かず天高くを見据えていた。
「ねえ、リコさん。ちゃんと迎えに来るから待っててよ。リコさんのこと助けらんなかったけど、リコさんに乱暴した奴探してぶっ殺すくらいならできると思うんだよ。リコさんがどんな目に遭ったかなんて誰にも言わねえから安心してよ。その間だけちゃんと生きるから、その後はまたここにくるからさ。そしたら今度は、こっち来るなとか言わないで」
リコさんはその目で何を見ているのだろうか。またここへ戻ってきた時には、彼女の隣に寝そべって見える世界を確かめなくちゃいけない。