03
いわゆる新人研修期間と呼ばれる時期も終え、リコさんの仕事は本格的な忙しさに入っていた頃だ。休日は泥のように眠っているが仕事もこなれた様子で、たまには俺に職場での出来事を聞かせてくれる余裕さえ生まれていた。
そんなある日、夜勤明けで昼前には帰ってくるはずのリコさんは夕方になっても帰宅しなかった。何度もコールするが留守電に転送されて繋がらない。胸騒ぎがし、落ち着いていられない。暗くなる前に帰ってこないなら探しに行こうか。時計との睨めっこをしばらく続けていた頃、リコさんから着信があった。
「もしもし……」
「ずっと待ってるんだよ、どうしたのさ」
「仕事長引いちゃって……」
疲れているのか声が少しかすれている。病院まで迎えに行くよと提案したが、それは断られてしまう。
「遅くなったから今日は同僚の家に泊まるね」
こちらの返答を待たずに電話は切れた。
その後も数日間、リコさんは帰宅しなかった。一日一回だけ電話があるけれども、今日も引き続き外泊するからとはぐらかされて終わってしまう。どうしよう、どうしたらいいんだろう。嫌な予感ばかりが膨らんでいく。交番に駆け込んだら良いのか。でも音信不通になったわけでもなく、リコさん自身は問題ないと言い張っているのだから相手になんてされないだろう。兄貴の悪事に関わっていたせいで、そういう警察が相手にしないギリギリのラインだけはよく分かっている。
六日目になってようやく戻ってきた時、変わり果てた彼女の姿に狼狽した。
彼女の細い腕には幾重にも痣が残っている。いつだって花を散らした雰囲気をまとっていたリコさんはもうどこにもいなくて、力なく玄関に座り込むとしゃくり上げて号泣していた。何かあった。何があったのか。
ひとまず部屋に入れようと肩を抱こうとしたらほとんど突き飛ばされる形で拒絶されてしまう。ハッとして「ごめん」と言われたが、その声は震えほとんど形を成してはいなかった。リコさんはしゃがみ込み、服の裾を握りしめながらその場を動かない。身につけている服は最後に外出するとき着用していたものでないばかりか、生活を二年近くともにしていた俺が見たことのない代物だ。
「リコさん、何があったのか聞いても良い?」
俺まで動揺しているなんて見せるわけにもいかない。ゆっくり深呼吸をするように言葉を紡ぐと、俺を見上げる眼がいっぱいに拡がりそしてゆらゆらと揺れていた。
「帰り道、急に男たちに囲まれて……」
その続きは嗚咽にかき消されてしまった。膝には力が入り僅かの隙間も見せまいとしている様だ。それで起きた事の重大さに気付かされた。
男の俺にはリコさんが今抱えている苦痛がどれほどのものかなんて分からない。それどころかそういう手引きしたことだってある立場なのだ。
この女、きっとこのまま壊れるまで乱暴されるんだろうな。理解しておきながらでも借りた金踏み倒す方が悪いだろなんて適当につくろって兄貴に引き渡す。そしてさっさと逃げるのだ。指示された時間になって戻ってみれば、人ひとりの人生が真っ逆さまに反転している事態をむしろ面白がっていたほどに。結局はどこまでも他人事で興味なんてなかった。
でも今、そのことは俺自身の問題にもなって脳みそを叩き割られるほどの衝撃として迫り来る。俺が犯した所業が我が身に跳ね返ってくるのはこれが初めてではなかったはず。無意識に左腕をかいていた。
リコさんは何者かに監禁されていた数日の間に、仕事を辞めていた。正確に言うと辞職の電話を強要されたに過ぎないが、まだ働き始めて数ヶ月だった。過酷な仕事に耐えられず辞める新人など別に珍しくもない。訝しがる同僚すらもいなかったのだろう。そうしてリコさんの行方を気にする人が減った。
俺に対しても音信不通にはならないなど、それこそリコさんがあのタイミングで脱走を成功させていなければもう数日は呑気に待ちぼうけていたに違いなかった。俺からリコさんを探し始めていれば。リコさんの純潔は結局守れなくても犯人どもを出すべきところに引きずり出せた。現行犯なら俺にも捕まえられる権利があったろうに。
リコさんは警察への届け出を頑なに拒否していた。誰にも知られたくなんかないという言い分だ。そうなるともう俺の手出しできる範疇を超えている。
絶対に口外しないから教えてくれと頼み込み聞かされた犯人像も、刑事でもなければ探偵でもない俺に心当たりがあるはずもなく。犯人を殺してやりたい気持ちばかり増幅してこちらが狂いそうになる。
虚ろなリコさんの目が、どうにも入院していた頃の、そしてリコさんと出会う直前までの腐りきった自分と重なって仕方ない。
十日ほどリコさんは家から一歩も出ない生活を続けていた。その間、仕事にも学校にも行かずに付き添っていたのだが、バイト先からはいい加減にしろと怒りの電話が鳴り止まない。これ以上休んだら生活の糧がなくなってしまう。そうなったら自力で帰ってきてくれたリコさんを守ることも出来やしない。不安で押し潰されそうだけれども、絶対に外には出ない約束を取り付けてバイト先に走った。
リコさんは偽薬で使い上手に俺をコントロールしてくれた。でも俺はどうしたらいいのか。二番煎じなんて逆効果に違いないし、かといって俺はリコさんの傷を癒す道具なんて何ひとつ持ち合わせていないから。仕事中も気はそぞろで全く身が入らない。
ほぼ一日働き詰めにさせられて戻った部屋では、俺が出かけた時と同じ格好のまんまでリコさんが座っていた。約束を守ってくれていたのは嬉しいが、塞ぎ込む暮らしが心に与える影響は最悪だろう。マイナスの感情に引っ張られそうになる。このままではいられない。
リコさんは時折窓の外を見てひどく怯えていた。奴らがいるかもしれないとの恐怖におののいているのだろうが、他の住人が共用廊下を歩く物音にすら怯えていた。
この家には文字どおり身体ひとつで帰還した。持っていた荷物は何もかもなくしてしまっている。廃棄されない限りは犯人たちの手元にあるのだ。つまりは住所だって知られてるのかもしれない。取り除ける恐怖の原因はすべて無くしてあげたかった。
リコさんには黙って転居先を探し始めた。もはや病院の近くに住む必要もないし、俺はもっと働かなければならなくなるだろうから学校も辞めちまおう。今までとは全然離れたところに居を移し、全て最初からやり直すのだ。俺がそうしてここまで来たように、リコさんが安心できるどこかへ行かせたい。
俺がそんな行動を起こし始めた頃、リコさんは体調不良を訴えていた。最初は夏風邪の類かと思っていたがどうやらそうではないらしい。そんなことくらいリコさんは自分自身のことを承知していたのだろうけど。
「病院に行こう」
リコさんは静かに首を振る。病院を勧めたのはもちろんこれが初めてではない。俺だって全く知識がないわけでもない。早くに診てもらえばそれだけで避けられたリスクもあった。しかし俺なんかよりもずっと知識があるはずのリコさんはそれを放棄し、最も回避すべきリスクがついに降りかかってきただけのことだ。
「産みたくない」
「だったら尚更早く行かなくちゃ……」
「殺すのはもっと嫌。だって、この子は私かもしれない……」
「そいつはリコさんなんかじゃない!」
生まれるべきではない人間なんてこの世にいくらでもいるんだよ。喉元までその言葉が出かかった。種がクソなら十中八九そいつもクソだ。その台詞も飲み込んだ。
「あのね、聞いてよ」
虚ろな瞳が俺を見据える。そうして壁に視線は移った。そこにはいつぞやの『-18』のメモ書きが貼られっぱなしになっていたけれど、九十度右に傾いてしまっていることに気がついた。いつからそうなっていたのだろうか、直そうと手を伸ばしたところ、リコさんに阻まれた。
「ズレてるだろう」
「最初からそうしてあったよ。これは無限大分の一って読むんだから」
それは引き算ではなく確率の話だ。何十億といる男と女がたったひと組だけ出会って、さらに何億とある精子そして数百ある卵子から作られるたったひと組の存在が自分なのだ。たとえ親が誰であろうともそこには無限大分の一の確率で起こる不思議があって、その不思議からやって来たのが自分という存在なのだと。だから大事にするのだと。
かみしめてリコさんはそれを語るが俺には綺麗事にしか聞こえなかった。
どんなに途方もない奇跡のような数字を出したって、結局クソはクソだろうが。
どうせクソだけど、もしかしたら無限大分の一の確率でそのクソがリコさんみたいに素敵な人と出会ってちょっぴりまともになるかもしれないけれど、差し引いたって結局害悪まき散らす方が大きいんだから。それよりもさらに僅かな可能性で、リコさんによく似た子どもになるかもしれない。でも母親に似たからってどうなんだよ、クソから生えてきたらどの道クソにしかならないなんてことはこの身が証明しているのだ。
「そんな屁理屈に誤魔化されるなよ。そんなの、リコさんが苦しいんじゃあ間違いだ」
リコさんはもっと自分自身のことだけを考えるべきなのだ。理想論に食われてしまうくらいなら、俺はその理想を引きずり倒してやる。
間もなくして転居先を見つけたが、相変わらずリコさんは病院に行く気配がない。外見では何も分からないけれど、リコさんの様子を見ていれば体中の激変に戸惑っていることだけは伝わってきた。やっぱりゲロとか吐くのかななんて勝手に想像していたが、それはない様子だ。その代わりらしくないほどに傾眠がある。眠りつわりなんて言葉を知ったのはこの時だ。腹の中にいるクソがリコさんをどんどんと蝕んでいる。新居に入れるまでまだ三週間もある。あまりの長さに眩暈がした。
リコさんは産みたくないと繰り返す。犯人を許せないという。そのくせにふとした瞬間にお腹をかばう仕草があって、それがまた俺を混乱させた。それじゃあ産むだけ産んでどこかに捨てちゃえばいいと言ってしまったが最後、その日は一言も口を利いてくれなくなった。次の日にやっとこちらを向いてくれたから平謝りしたけれど、だんだんとリコさんのことが分からなくなってくる。
ぼちぼち荷造りを始めた傍らでも、やはり無理な姿勢を避けているような様子が目について仕方ない。そうでなくても重たい物なんて持たせやしないが、病院に行きたくないならいっそのこと尻餅でもつけばいいじゃないかと苛立つ俺がいる。恐らくそれは、言葉にしなくても態度に滲みて出ていたことだろう。
この子どもには罪がない。
それだってリコさんの口から直接聞いたわけでもないが、態度仕草を見ていれば馬鹿な俺でも気づくのだ。でもリコさんをこんなにも悩ませているだけで、その存在は罪でしかないのに。
新居に移れる日が来た。そして俺の苛立ちもピークに到達しようとしていた。
白物家電のほとんどは備え付きであったから荷出しの量はそれほど多くなかった。軽トラック借りてくれば業者を頼む必要もないほどだ。
ひとり黙々と荷物をトラックに積み込む作業をしながら、部屋で最後の荷造りをしているリコさんの心境を想像していた。心機一転、これで変われるはずだから。大方の荷物を積み終えて部屋にいるリコさんに声を掛けた。
「新居に荷物置いてくるから。一緒に行く? それともここで待ってる?」
「床掃除しないと……」
「分かった。それじゃあまたあとで」
荷下しと往復で計四時間といったところか。暗くなる前には戻ってこれそうだ。これで全てをゼロから始められる。
想定よりも三十分以上早く戻ってくることが出来た。玄関先にはバケツと雑巾が置いてあり、床だけでなく玄関の扉まで磨き上げたらしいことが分かった。その扉を開けた瞬間、室内から何か軋むような重量感のある音がした。慌てて靴を脱ぎ捨てて部屋に入ると、リコさんがロフトに上がる梯子へ寄りかかる格好で座っている。首にはロープ。投げ出された片足がピクリと跳ねた。
「何してんだよ!」
飛びついて身体を抱き上げた。首からロープを外すと咳き込んだから、息は止まっていないと分かり胸を撫で下ろす。相当苦しかったのか眉間には深く皺が寄っていた。
俺を見つめる瞳は限り無く濁っている。何で首吊りなんてしていたのかなどを問えば決定的な答えを聞かされそうで押し黙ってしまう。彼女の唇が微かに震えたのが見えて、それを遮るように畳みかけた。
「ちょっとでいいから、死ぬの待って。ひとりで死ぬのだけは、待って……」
反応は皆無で虚ろなままの視線は宙を泳いでいる。顔を覗き込んでも目が合うこともなくこちらの言葉は何ひとつ響いている様子がない。
そのままストンと落ちた視線の延長には先ほど取り払ったロープがある。それに手繰り寄せるようにリコさんは指で床をかいていた。
「ひとりで死ぬなんて、ズルいだろ」
俺はロープをひっ掴んで壁に投げつける。彼女は目だけでロープを追いかけて動かなくなった。
「こっち向いてよ……」
両頬に手を添えて無理やりこちらに顔を向かせてようやく目が合う。
「私、ね」
また、彼女の唇が震えている。
「……今晩だけでいいから、俺といて。そしたらさ」
リコさんの口から死にたいなんて言葉は聞きたくないし、生きろとか死ぬなみたいな類いの台詞は、きっと喉元を切り裂かれたとしても出てこない。
未だかつてない不安感に打ちのめされそうだった。震える胸で出した結論は俺なりの責任だ。
「もう一晩だけ俺といてくれたら、苦しくないようにしてやるから」
その瞬間、音がまったく聞こえなくなった。彼女の目に少し光が戻って、唇に何かの言葉が乗せられているようだが分からない。
兄貴に殺されかけた時もこうだった。最初に麻痺したのは聴覚だった。鼓膜を割かれたかと思ったけれどそうではなく、殴られながらも無音と有音を行ったり来たりしていたのだ。
また俺は馬鹿なことを繰り返そうとしている。
俺は夜通しリコさんと何かを話していた。
声は出るし恐らく会話も出来ていた。しかし自分の声もリコさんの声も聞こえていないから何を話していたのかが分からない。頭の中にいるもうひとりの自分が淡々と会話を処理しているような錯覚に吐き気を覚える。
音のないお喋りをしていたらどちらともなく居眠りをしてしまったようだ。カーテンを取り払った室内には容赦なく朝陽が注がれて、その眩しさで俺は目を覚ました。右手で頬を叩いてみたら痛いし音は聞こえるしちゃんと覚醒しているみたいだ。リコさんは隣でまだ眠っている。
その眠る顔はちっとも穏やかではない。見ているだけでギチギチと胸が締め上げられる思いがする。この顔が目を覚ましたら堪えられないほどの昏さを宿すのだ。
大丈夫、もうそんな顔しないで済むようにしてやるから。
仰向けで横たわるリコさんに跨がる。それに気が付いた彼女が目を見開いた。
「いいの?」
返事の代わりにあったのは深呼吸がひとつ、そうして彼女はゆっくりと瞼を閉じた。跨がる姿勢のまま次の行動を起こせない。しばらくそうしていたところ、荷造りに使ったビニール袋の余りが視界に入ってきて、ああ足りないのはこれだと分かる。苦しみに歪む顔なんて見ていたら絶対に手を離してしまうから。
頭からビニール袋を被せようとしたらリコさんはまた目を開けた。でもそれの意図を理解したのか自ら被るの手伝ってくれたりなんかして、躊躇する時間がもう終わったことをいよいよ知らされる。
首に両手を添え体重を乗せて一気に絞めた。ビニール袋を被せているから当然に顔は見えない。目を開けてるのか、閉じているのかも分からない。体重を深くかけるほどガサガサとビニール袋が鳴って、彼女がもがき苦しんでいたとしてもその音をかき消してくれる。小刻みに足をばたつかせていたはずだが、それもいつしか動かなくなっていた。
ようやく手を離す頃には肘から先が痺れ不思議な熱を持っている感じがした。もう一度彼女の首に触れてみるけれども脈はない。あまりにも呆気ないものだった。そして不思議なことにあれだけ悶々とした苛立ちを抱えていたにも関わらず、張り詰めた糸が切れたような感覚を味わっていた。
『もう私、行けないから、代わりに振り込んできて』
突然、昨夜の一場面とともにリコさんの声が頭の中に飛び込んでくる。画だけで動いていた無音の会話がひとつつながった。
新居に移ったらすぐ使う予定だった荷物を詰めてあるボストンバッグを開けてみた。リコさんがお世話になった施設に寄付するんだと頑張っていた貯金箱があり、それを取り出した。投入口のところにメモが刺さっていて抜き取ると、振込先の口座番号だとかが記されている。首を吊る傍らでこんなものまで準備していたのかと何か知り込み上げるものがあった。
「すぐに戻るよ」
床に横たわる彼女に声をかけ、俺は家を出た。