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−18  作者: 及川りのせ
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01

「俺、精神病なんですよ」


 自己紹介代わりに口をついて出たのは自分でも笑ってしまうくらい酷いものだった。それでも彼女は真面目な顔で受け止めてくれた。


 小さなボストンバッグに何着かの衣類や身回り品、そして貰えた分の薬だけ詰め込んで住んでいた街から遁走したのはほんの二日前。とにかくどこか遠くに飛ばなくちゃと大阪行きの夜行バスに揺られながら、ネット掲示板でルームメイト募集の書き込みをたぐらせた。片っ端からコンタクトを試み、すぐにでも会える約束を取り付けられたのがハンドルネームR、東京に住む人だった。そんな馬鹿なと己の書き込みを読み返せば、確かに東京の住所宛てにも連絡を取っていた。薬が効いて頭が薄ぼけていたらしい。


 大阪からは新幹線に乗り換えひといきに上京を果たしてしまった。ぐるり東京を廻る緑の環状線を乗り継いで目的の駅に降り立つ。指定された南口はどこなのか。中央口をさらに東と西に分ける意味あるのか。百歩譲りそれは受け入れるとして東南口って。

 間違って東南口に行かないようにしなくちゃと額の脂汗を拭いつつ南口を探し出した。約束した時間まで残り僅か、ギリギリのところで間に合った。しかしいくら待てども相手は現れない。こちらの身なりは伝えていたものの、向こうのことは何一つ確認していなかったことを後悔する。辺りを観察していても人は多いが待ち合わせと思しき姿はどこにもない。そしてそのまま一時間、長距離移動の疲れがたたりまどろんでいたときだ。


「はじめまして、武藤です」


 まさかと思って来てみたのとRさん、もといリコさんは笑って言った。どこにでもいそうな、街ですれ違ってもきっと印象になんて残らない普通の女の子。そんな女の子が天井を指さした。

「ここは新南口ですが」

 頭上の案内表示を見ると確かに『新南口』と記されている。こんなトラップありかよ、田舎モンに対するイジメかよと挨拶をすることすら頭から抜け落ちてしまった。

「俺、精神病なんですよ」

 薬のせいでちょっとぼけてましたという説明のつもりで口から出たのは、初対面の人間に向ける言葉としては直球過ぎるものだ。

「いきなり眠り始めるんだもん。変わった人だとは思ってました」

「ずっと見てたの?」

「だって一緒に住むかもしれない人だし」

「俺、男だ。女性募集なんて書いてなかった」

「うんうん、分かってる。異性お断りなら姿見た時点で声掛けないよね」

 それもそうだが、あー、とか、えー、とか曖昧な返事しか出ない。女と住むのが嫌ならなかったことにしてもという言葉にだけ、辛うじて首を振り応えることができた。

「仮住まいでいいから、他の家見つけてすぐ出てくから、お願いします」

 八方塞がった袋小路に開いたわずかな抜け穴。家に行こうと言った彼女の声が温かく胸を満たしてくれた。



 案内されたのは十畳ほどのワンルーム。ロフトがあり、その真下部分も間仕切りがしてあるからそれが各々の個人スペースになっていた。

 しかしその説明はまるで頭に入って来ず、身体がどうにもままならないことを自覚した。さっきまでは興奮とかそういう類のもので動けていただけだ。その異変はリコさんにも早々に気付かれ、こんな状況では追い出されても仕方ないと白状することにした。

「退院したばかりなんだ。本当は、一日おきに通院しろって言われたんだけど」

 ごめんなさい、やっぱり他をあたるよと立ち上がろうとしても、重い貧血のような症状に見舞われる。そんな身体で動き回れば当たり前だと叱責が飛んできた。


 入院は背中と腕にある火傷の治療が主で、精神病はそのついで。塗り薬は大瓶で確保しているが、飲み薬の方は頼み込んでも三日分しか貰えなかった。

 薬の残量を確認しながらリコさんが溜め息を吐く。彼女は看護学生だと聞かされた。

「薬がないと寝られない」

「火傷の方が心配だよ。塗り薬ちっとも使っていないじゃない」

「背中はうまく塗れなくて」

 頭を垂れると、リコさんはさらに深い溜め息を吐いた。

「あまり出歩くなって医師に言われてるはずだよね」

「言われた。だから家に帰らないでそのままきた」

「信じられない」

「ごめんなさい、でも朝まではいさせて。今日はもう動けない」

 リコさんは額に手を当ててなにか考えている様子だ。しかしその次にはお風呂に入ろうと言われ面を食らってしまった。

「薬塗らないといけないでしょ。手伝ってあげるから」

「ひとりで入れる」

「立つこともできないのに?」

「裸なんて見せられない」

「もっと重症な人、見てるから。清潔にしておかないと治るものも治らないよ」


 ふらつく身体での移動は恐ろしく時間のかかるものだった。退院してからシャワーどころか横になって休むこともしていない。ぼんやりとグラグラする頭では抵抗も出来ず、手を引かれるままバスルームに入った。

 火傷の部分だけは私が洗うよとガーゼで洗浄してくれる。跡を撫でられ改めてこんな身体で動き回るなんてと叱られた。

「俺、兄貴に殺されかけた」

 背中を洗う手が止まり、バシャバシャと肌を打つシャワー音だけがする。

「だから逃げてきた。あの街にいたらまた殺されるから」

 満身創痍の状態で立ち上がれたのはその一心だった。ここに来てたちまち動けなくなったのはひとまず逃げ切れた安堵からだろう。

「その理由は聞いていいもの?」

「俺はたくさん酷いことしてきたから。罰が当たったんだ」

「そっか。それじゃあ逃げるしかなかったね」

 それ以上、そのことについて訊ねられることはなかった。

「他に怪我は?」

「あのさ、裸見られたから言うけどさ、引かないでね」

「うん?」

「殺されそうになってさ、玉潰されてんの。盛ったりなんてしないから、朝までいさせて」

「出て行けなんて一度も言ってないよ?」

 頭から湯を掛けられて視界が閉じる。

「私も私の話をするから、引かないでね。君の悩みに比べたらちっぽけだけど」


 もう終わったよと、今度は湯の代わりにバスタオルが被せられた。

 飛び散った湯で濡れた服を着替えるために彼女だけ一足先に部屋へ戻った。シャワーを浴びただけでは疲労感は抜けず、 彼女が脱衣所へ帰ってくるまでにやっと下半身だけ衣服を身に着けただけだった。慌ててシャツを掴んだがそれは彼女に阻まれる。

「まず薬塗らなきゃ」

「あー、うん」

 軟膏を塗りつけながら彼女は自分の話をし始めた。

「男性のルームメイトを探してたの。でもさあ、こっちは女なのに男性限定なんて書き込みしたら絶対に怪しいでしょ。だからね、女だって書かなかった。そうすれば女性はまずまず連絡してこないから」

「俺が怪しい男だったらどうするの」

「しばらく遠巻きに見ていて大丈夫そうかなって思ったから声掛けたんだもん」

「大丈夫じゃなかったら?」

「そのままドタキャンだったかな」

「ひどいよ……」

 背中を向けているから表情は伺えないが、声のトーンが申し訳なさそうに落ちていく。

「前の相方は女性だったの。最初はそんなつもりなかったのに、好きになっちゃって。私レズビアンなんだよねー」

 意外な告白とマッサージされる心地よさに思考が蕩けていく。だらしない相槌を返すのでいっぱいだった。

「その子はそういうのじゃないから、当然上手くいかなくなっちゃって同居解消した。そのこと結構しんどかったんだよね、だから次の同居人は男性にしとこうって。くだらない悩みでしょ?」

「くだらないかも、俺の悩みと同じくらい、くだらないかも……」

 ありがとうねと、何故か礼を言った彼女の声は少しばかり弾んでいた。



 元々三日間分しかなかった飲み薬は過剰に服用していたために半量分しか残っていなかった。それではやはり効きも弱く、用意された布団に入っても眠りに落ちるどころか吐き気と動悸入り混じったものに襲われた。

 短く息を切らせながら身体を折って膝を抱える。


 皮膚を焼かれる嫌な匂い。


 目を見開いてそれは幻覚だ、ここはあそこじゃないと自分に言い聞かせた。しかし心拍は落ち着かずに今度は左腕が痙攣を起こす。パニックの前兆を感じて息が上がり、とうとう大声を上げてしまった。

「しんどい?」

 ロフト上から俺を覗き込むリコさんの表情は、焦点が定まらないせいではっきり窺えない。

「苦しい。気持ちが悪い。薬が足りてないから……」

 絞り出した声は叫び続けた後のように嗄れている。まだ震えは収まらずに左手首を握り込んだ。

「私の薬を分けてあげる」

 見かねた彼女がシェルフの箱から錠剤入りの小瓶を二本取り出した。瓶のラベルとゴミ箱から拾い上げた包装シートを見比べて難しい顔をしている。

「これにも似たような効果あるから。三十分もしたら効いてくるよ」

 うすく黄色がかった錠剤と淡い緑色の錠剤をひとつずつ渡された。黄色は不安感を和らげ緑色は眠れる薬なのだそうだ。

「本当は一回二錠だけど、処方薬も少し飲んでるから半分で足りるはず」

 また包装シートをゴミ箱に投げ入れながら彼女が言う。黄色の錠剤を見ると『10』と刻まれていた。何かの成分がそれだけ含有されているのだろうか。そういえば処方箋を出された時、ナントカが20mgと記されていたことを思い出す。緑色の錠剤は真ん中に筋目があるのみでよく分からなかった。

 二錠を口に含んで流し込む。いつの間にか痙攣はなくなり痺れたような感覚だけが残っていた。

「長旅で疲れが溜まってるんだよ。ぐっすり眠れば落ち着くからね」

 従って再び布団にもぐり込んだ。しばらくすると呼吸が落ち着いていくのを感じ、ずるずる沈むように眠り落ちていった。



 朝になるとまたリコさんに叱られた。退院してからは何を食べても吐き戻すばかりで飲み物しか口にしていなかったためだ。不思議と空腹に苛まれることはなく、このまま水だけでもいられる気がしていたのに。

「食べないからフラフラするの」

 きちんと薬飲めば吐かないからと促され、出された食パンにかじりつく。昨日までなら匂いだけでアウトなのに今日は抵抗なく飲み込むことができた。

 胃袋に固形物が入ると失くしていた空腹の感覚を取り戻した。結局、食パン半分と目玉焼きひとつを食べることができてしまった。

「やっぱりお腹空いてたんじゃない。はい、朝の薬」

 渡されたのは黄色が二錠のみ。日中に眠剤の緑色は要らないとのことだった。

 朝食を片付け終えるとリコさんは出掛ける支度を始めた。これから学校に行きそのままアルバイト。帰宅は二十三時を過ぎるのだそうだ。


 彼女を見送りひとり部屋に取り残された。まずは体力を回復させなさいと不要不急の外出は禁じられてしまう。流石に何もしないわけにはと思うけれども、強い倦怠感は抜けきれず望まなくても彼女の言いなりになるしかなかったのだ。

 帰宅を待つ間に何度かパニックに襲われて小瓶の薬に手を出しかけたが、朝晩二回の用法を守るようきつく言われていた。昼前には薬が切れた実感があって、夕方まで堪えたけれども限界が訪れた。我に返ると一度で五錠も飲んでしまっていて、どこまでも果てしない自己嫌悪に陥った。



「勝手に飲んだらダメって言ったよね」

 たったの五錠、それも包装シートではなく瓶の薬だから分からないだろうと思っていたのに、帰宅するなりリコさんは減った瓶を目鋭く指摘した。

「すごく震えて。でも、飲んだらすぐ止まって……」

「気持ちは分かるけど、飲み過ぎはかえって毒になるんだよ」

 明日は気をつけてねと、夜の分を渡された。黄色が二錠と、緑色が一錠半。筋目のところできれいに分割されていた。

「この眠剤、けっこう強いんだよ? 二錠まるまる飲んだら昼まで起きないんだから」

「……俺は情けない人間だ」

 こんなものに頼りきりだなんてと肩を落とす。

「人は誰だって何らかに依存しているんだよ。情けないなんて言わないで」

 水を差し向けながらリコさんが諭すように言った。


 彼女の言葉通り、昨晩より半錠多いだけなのにたちまち強烈な睡魔に襲われた。その眠りは夢も見ないほど深く、翌朝は久方ぶりに爽快な目覚めを得ることができた。眠りの質は改善しているようで怠さも軽快に向かっている。変わらず外出は控えるよう言われていたけれども気分は能動的だ。

 パニックを前兆がきた段階で抑えられたのも取り戻した体力のおかげで、午後には夕飯の買い出しができるくらいに動けた。余分な薬に手を出したのは昨日の一件が最初で最後だ。

 五日目には黄色の薬を一錠減らし、七日目には緑色の薬を半錠減らした。その頃には家に居させてもらう代わりに家事のほとんどを請け負えるほど動けるようになった。

 暮らし始めて十日になる頃、小瓶の残量も数回分を残すところ。流石に仕事を始めなければとようやく履歴書を送り始めていた。


 その日は俺が来てから初めて、リコさんは丸一日の休日を得て朝も遅くまで眠りこけていた。歩いて五分ほどのスーパーまでの買い出しにも慣れ、東京の物価におののきながらも安価なメニューを編み出していた。

 両手に買い物袋を提げて帰宅するとリコさんは起きていた。 パリパリと音がすると思ったら、あの薬をラムネ菓子のように貪っていたのだ。

「何してるんだ!」

 一錠でも眠れる薬をそんなに飲んで大変だと慌てて瓶を取り上げた。焦る俺を見て彼女はケタケタと笑っている。

「ごめんね、悪気があったわけじゃないんだけど、あんなに効くとは思わなくて」

「どういう意味?」

「これ、プラシーボなんだよね」

 悪戯っぽく突き出した舌には噛み砕かれた黄色と緑色が散らばっている。成分のほとんどはブドウ糖やでん粉で、薬用成分はかけらも含まれてはいなかった。

「偽物だったんだ……」

 毒でなければ薬ですらなかったと知り脱力してしまう。

「でもすごーく効いたでしょ?」

 彼女の指摘によると処方薬自体もそれほど強い薬ではなかったそうだ。それにしては激しいパニックと痙攣の症状を見て、偽薬でも飲ませてみようと思いついた。あとは飲ませる時のもっともらしい演技と雰囲気次第。彼女の読みは当たり、まんまと騙された俺の症状はみるみる改善していった。

「今日からは薬がなくても大丈夫だよ」

 その夜は偽薬を飲んでいた時よりもぐっすりと眠ることができた。

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