確率通りにいかないから良い
「皆さんに聞いてもらいたいことがあるッス」
石川がこう口を開いたのは、雀卓を片付け、飲み会ムードに入ろうと冷蔵庫からビールを引っ張り出していた時であった。
「ん〜。どうした?お前日本酒派だったか?」 「悩み相談ですか?ならば僕達は力になれるかどうか……」
「実は……今日をもって脱退したいッス」
一同が凍りついた。
「詳細を要求する。」
皆が石川の発言に注意を傾けた。
「その、実は……三次元もありかな〜なんて。捨てたもんじゃないな〜なんて。」
「全く説明になってねーぞ」
酒田が呆れたという風に言う。一方山田は一人で黙々と思考している。
「こ、これ以上は無理ッス。話したくないッス!黙秘権を主張します。弁護士を呼べ!」
石川は最早独自のワールドに入ってしまった。こうなってしまったら奴は動かない。
酒田は情けないと呟き、石川はぶるぶると震えている。山田は山田で眉にシワを寄せていた。場は混沌としている。私がなんとかしなければ。
「よい。そうなっては遅い。手遅れだ。来るもの拒まず、去るもの追わず。安心して脱退したまえ。」
「団長……ありがとうございます。」
石川は涙をこぼした。そこまで追いつめられていたとは。真正の馬鹿だ。
「すみません。一つ聞きたいのですが。」
黙りこんでいた山田が急に手をあげた。どうも私に質問があるようだ。
「どうした?」
「はい。第一条を破ったら脱退しなければならないのですか?」
「そうだ。第一条は鉄の掟だ。」
「皆さん第一条以外は破ってますよね?」
なかなか痛い所をつく。
「そうだ。だが、第一条は別格だ。紳士同盟が紳士同盟たる所以は第一条にある。最早あれ以外は飾りなのだ。」
「そうですか……。」
山田は呟き、そして続けた。
「ならば僕も脱退します。」
「ん?」
「は?」
「おふwwありえないww」
各々に激震が。
「うぉおおい!てめえ!どういうことだ!!」
何がどうなっているのだ。
「どういうことだ。お前は第一条を前から破っていたのか?」
私と酒田はいつの間にか立ち上がっていた。
「数ヶ月前ですね。一つぐらい破っても構わないものだと思っていました。」
対して山田は冷静だ。
「面倒ですが、説明します。」山田は家庭教師のアルバイトをしていた。中学生の女の子に数学、理解全般、英語を教えているらしい。
「それで…手を出したのかああ?このロリコン野郎!」
酒田はその言葉がまさか自分に跳ね返ってくるとは思っていなかっただろう。
「違います。最後まで聞いてください。」
山田はため息をついた。
あるとき、その女の子に生物について質問されたのが、事のはじまりであったという。
山田は難なくその質問に答えてみせ、いつものように言ったのだそうだ。
「生物なんて数学の足元にも及びません。今は受験勉強のため、学ばなければなりません。それも一時のことです。合格したら安心して数学を存分にやるといいです。」
私は感心した。この男は相手を選ばずこの調子である。人は得てして多面的な側面を持つ。ぶれることなく己の主張を大々的に表現するのは難しいことなのだ。難しいことを平然とやってのけるしびれる男山田、しかしモテる要素は皆無だ。
「山田君って頭おかしいッスね……。再確認したッス。」
石川も絶句していた。頭おかしいは言い過ぎではあるが。
「失礼ですね。僕は真面目に主張していたんですよ。」
山田はムッとした。
「話を戻すと僕の発言を聞いていた者が教え子の女の子以外にもう一人いたんです。」
それは女の子の母親だった。普段は仕事に出掛けているのだが、その日は早く切り上げられて折角なのでいつもお世話になっている家庭教師にお菓子でも出そうと思い、娘の部屋まで来た所で山田の高慢な発言を耳にしたという。山田の発言は母親にとって特に問題である。何故ならば、彼女は分子生物学の研究員であるのだから。
しかし、そのご婦人は山田を怒ることもなく、失望することもなく、優しく微笑んだ後、ぎっしりと詰まった鞄からノートパソコンを取りだし、暫く操作して画面を山田にみせた。そこには白い丸や赤い丸がごちゃごちゃと中央で混ざりあい、全体として一つの球体のようなものになっているものが映されていた。
「これは一体……」
「アミラーゼを模式的に表したものよ。色のついた球体はそれぞれがアミノ酸よ」
「これが何だと云うのです」
「貴方も知っての通りアミラーゼはブドウ糖を分解する酵素よ。ここ見て」
ご婦人が指を指す。よく見たらアミラーゼの中に空間があった。アミラーゼは球体ではなく、アルファベットのCのような形をしていた。
「ここで加水分解をするの。じゃあ、このアミノ酸を別のアミノ酸に替えてみるわね。」
そう言うと、赤色の球体の一つを青色の球体に替えた。すると球状であったアミラーゼはガタガタと歪み、全体は握りつぶした空き缶のようになってしまった。
「こ、これは…」
「アミノ酸一つ変異するだけで、こんな風に立体構造は壊れてしまうの。こうなってはブドウ糖を分解することはできない。でも、多くの人はこのアミノ酸の並びを正確に指定できている。アミノ酸は20種あるのよ。どう?奇跡のようだとは思わない?」
この時ご婦人には後光が差し、女神の類いに見紛う程、いや最早あれは女神、マリアだった、と山田は語った。
「悪いが、山田よ。私には君が生物の道に目覚めただけに見えるのだが。」
「ええ。生物の道に目覚めました。しかし、それと同時にその道を示した彼女に僕は恋をしてしまったようです。」
山田は何でもないように言う。しかし、一同は静まりかえる。
「でもよ。相手は…子持ちなんだろう?」
酒田も衝撃を隠せない。
「はい。夫とは既に離婚していますが。しかし、アプローチを開始するのは数年後からですね。」
「どういうことだ?」
「娘さんが可哀想ではありませんか。家庭教師の学生が父親になるんですよ。到底、受け入れやすい事態ではありません。しかし、僕は諦めるつもりは毛頭ありません。ならば、娘さんが大学を卒業するまで待つべき、そう結論づけました。」
この男は正真正銘の紳士であるが、飛び抜けた馬鹿者であった。
「数年と平気で言うが、長期戦だぞ。お前の得意の確率計算で確率を求めてみろ。お前がそのご婦人と結ばれる確率高いものじゃあないぞ。それの為に何年もお前は我慢し続けるのか。さながら苦行ではないか。修行僧にでもなるつもりか。」
私がそう苦言を呈すると山田は
「確率通りにいかないから良いのです」
ニヤリと笑った。
かくして同盟は一時の半数、つまりは私と酒田のみの状態へ逆戻りした。盛者必衰の理である。そして現在、酒田までもが抜けかねない正真正銘の危機が同盟を襲っているのだ。