壁にぶつかってすらいない
「河上さん………?」
口から無意識に出たこの名前に私は驚いた。都合良く彼女がここにいるわけがない。それにもう何年も会っていない。彼女の容貌も変化していく。私はなんたる馬鹿者か。人違いならばなんと言い訳すればよいか。私は人知れず自己嫌悪に落ちた。
「はい?………あ!」
振り返った女性は黒い宝石のような長い髪を持ち、そして美しく上品なその顔は私がかつて恋い焦がれていた河上さんその人であった。
「久しぶり。変わってないね。」
私は嬉しかった。その女性が河上さんであったことに、彼女が昔のままの雰囲気を持ちつつさらに美しくなったことに、そして何より私を覚えてくれていたことに。
「あ………その……」
だが、悲しいことか。私の目の前は真っ白であった。何の話をすればいい。紳士同盟についてか。引かれるに決まっている。どうすればいい?マサラタウン……は関係ない。では…紳士同盟の話……はさっき考えたではないか!
私の頭の中でぐるぐると同じことが回る。あれもダメこれもダメ。このまま回り続けては果てにバターになってしまうのではないか。私は海に溺れているような感覚で言葉を探した。言葉という空気を。誰か助けてくれ。まな板の鯉だ。びちびち跳ねる。意味もなく。正に藁をもすがる思いであった。
「あ…もしかして河上さん?」
「酒田君!?久しぶり〜」
救世主が現れた。救世主は見てくれは爽やかであるが、底意地が悪く、真性のロリコンであり今や犯罪すれすれの男であった。この男の存在をここまで心強く思ったことが今まであっただろうか、いやない。
「さ、酒田は河上さんと知り合いだったのか?」
「うん。高一のとき同じクラスだったの。」
酒田を間にはさめば、なんとかかんとか話せる。ありがたいが余計に私の不甲斐なさを露呈させる。
「酒田君と仲良かったんだ?」
河上さんが私に尋ねなさりける。落ち着け。私。
「その…浪人時代にですね。は……えっと…な、仲良くなりまして。」
「そーいうこと。今では一緒に鍋を食う仲。」
「へえ。そうなんだ。酒田君やけにご機嫌ね。傷は癒えたのね」
ピクッと酒田の肩が揺れた。
「き……きず〜?なんの話〜?」
「大丈夫そうならそれでいいわ。」
河上さんは少し申し訳なさそうな顔をした。私は突然猛烈に横やりを挟みたくなった。
「実はまだこの男は壁にぶつかっているのですよ。」
私が言うと
「うるせい。まだお前は壁にぶつかってすらいねえんだからな。」
と酒田はわめいた。
「ところで…凄い気になってたんだけど。」
河上さんは私の後方に目をやった。
「あの子は…どなた?妹さん?」
河上さんの目線の先にはニット帽から元気なショートカットを見せ、クリクリとした目でこちらをうかがう小動物さながらな少女がいた。
では、ここで整理をしようではないか。極力客観的に。ある高校一年の少女がいました。先生とは言われているものの煩悩の塊と比喩表現可能な大学生に夕飯のお誘いを受けてそれに承諾しました。しかし先生の他に一人の名前もしらない男子大学生も食卓を囲みます。(その男子大学生は明朗で紳士な好青年ではあるがここではそれを扱わない)さて、今からこの現状を知った人はどんな反応をするでしょうか。
「あ、あの子はですね、河上さ」
「あの子?俺の教え子。」
平然と答える酒田。お前は…
「え?どういうことなの?」
「俺、個別指導の塾でバイトしてんだよ。で、あの子をそこで教えてんの。」
笑顔を見せる酒田。頭を使ってものを言え。
「えっと…それで……え?」
困惑する河上さん。河上さんの目からでは彼女は中学生に見えるだろう。
「ああ、うん。こいつとあの子と俺で鍋食うの。俺んちで。」
「あ?」
安心してくれたまえ。こんな下品な声を河上さんは上げない。この声は私の脊髄が反射弓を描き膝蓋腱反射の如く大脳を一切跨ぐことなく半無意識のうちに私が発したものだ。
それもそのはず。今私の目の前にいるのはあの河上さんなのだ。どんな目で私は見られてしまうのか。
「ちょっと待って!ちょっと来て!」
河上さんはグイと私の腕をつかみ、ずんずんと酒田から離れていった。私の不安と、それに反して腕を掴まれただけで高鳴ってしまう私の鼓動を無視して。
「いったい何をする気なの?犯罪よ?」
不審な目で私を見る。世界がグラリと傾いたかのような衝撃が私の脳髄を駆ける。酒田め〜。誤解を招くようなこと口走りやがって。
しかし、ここで酒田をいくら毒づいても意味はない。何よりも優先されることは兎にも角にも己の弁明だ。ソクラテスさながらの弁明が必要だ。
「誤解です。私は寧ろ酒田のストッパーです。」
私はなるべく冷静にこれまでのいきさつを話した。
「事情はよくわかったわ。でもあなたが酒田君を止められる保証はどこにもないわ。」
「それはごもっともです。ただ、どうか私を信頼してください。私は彼女に手を出すような趣味はないのです。」
私は懸命に河上さんに伝えようとしたが、河上さんは心配ね、と真剣に呟いた。
「あたしがそれに参加出来れば良かったんだけど…」
「河上さん!?参加してくれるのですか!?」
「ちょっと声!大きすぎるわ。そんなに追いつめられていたの?」
「い、いえ…。」
よもや本音を言うのは紳士として赤面必至な事態はめに見えているので返事に困ってしまった。すると、
「こんにちはー!何をこそこそ話しているのですか、おにーさん」
我々の秘密会議を意に介さず、彼女がご機嫌な様子でこちらに向かってきた。
「お、おにーさん?そんな風に呼ばせてるの?」
「違います!呼ばせているのではありません!彼女がそう勝手に呼んでいるのです!」
河上さんの私への評価が時間に反比例して下がっていく。漸近線のx軸につきうる勢いである。
一方、彼女の顔は何故かたちまち悲しみに溢れていった。何故だ。意味がわからない。私は何か余計なことを口走ったか。どうすればいい。私は完全に疑いの余地なく困惑した。すると彼女は震える声で
「そんな…!『おにーさんか、おにいちゃんか、おにいさまか…。このどれかから選べ。さもなければ……』とあたしに強要したのは、おにーさんではありませんか…」
「言ってないから!言ってませんよ!!河上さん!私は断じてそのような変態的所業を……河上さん!?そんな目で見ないでください!!」
河上さんの顔には笑顔が張り付きそれとは対照的に極寒を連想させる眼光を放っていた。その眼に少し心高なる者がどこにいる。ここにいる。
彼女は私の狼狽と彼女の冷たい眼を眺めると唐突にニカッと笑った。
「あはは。冗談ですよ、冗談。あはは。あたしが勝手に読んでるだけです。それはおいといて。おねーさん!あ!おねーさんと読んでもいいですか?おねーさんも一緒に鍋を食べませんか?」
「おねーさん…かあ。いいかも…………おねえちゃんでも構わないのよ?」
河上さん。それを強要と呼ぶのです。
「ではおねえちゃんと呼ばせてもらいます!それでお鍋…」
「うん!おねえちゃんがいいわね!あ……お鍋ねお鍋。お鍋は残念だけど行けないの。お花屋さんのお手伝いをしていてね。今日は鍋を頂く余裕がないの。」
「そうですか…。」
「ごめんね。でも毎週お花を買いにきてくれるお客さんもいるし…。休めないわ。」
「毎週ですか…?」
毎週というのは奇妙だ。そのお客さんはフラワーアレンジをやっているか、よっぽどの花好きか、はたまた花を育てるのが絶望的に下手な人だ。
「毎週なの。毎週一本だけ買うのよ。」
河上さんも不思議そうに首をかしげた。
「それはおいといて…どうしようかしら。あなた達、すごい不安なのよね。」
河上さんは呟いた。
「不安……ですか?」
きょとんとした様子の彼女が言う。
「うーん。説明は出来ないけどね…。うーん。」
唸る河上さん。そして唐突に
「そうだ!ねえ?私とメアド交換しない?」
河上さんは彼女にそうもちかけた。
「あ!いいですよ!やった!!早く交換しよ!」
彼女ははしゃぎ、チラリと私と眼があった……気がした。
「かわいい!!じゃなくて…何かあったらおねえちゃんに連絡するのよ。電話番号も教えるわね。」
「うん!わかったぞ!」
彼女は笑った。
私は読者諸君に問いたい。私もここに便乗してアドレス交換をするべきだったのか。しかし、それはあまりにもがつがつしているというか、未練がましいではないか。私は恋を捨てた。同盟を死守し続けた誇りが私にもある。私は私の矜持に従うまでだ。
私は動かなかった。動けなかった。
ふう、と溜め息がどこからか聞こえた気がした。
「あの〜。おねえちゃんって今彼氏いたりしますか?」
「え!?」私と河上さんはほぼ同時に言った。彼女の質問はあまりに突然で予想外だったのだ。
「いや〜。あたし、恥ずかしながら今までずっと独り身なんです。だから、おねえちゃんぐらいの年なら彼氏いるのかなーって。あはは。ごめんなさい。変な質問だな!気にしないでください。」
彼女は笑った。それを見て河上さんも少し笑って、
「高校の時は居たけど今は居ないわ。焦る必要なんてないのよ。」
優しく答えた。
「ありがとうございます!!精進します!」
と彼女はニッコリと笑ってこたえ、よかったですね、と小声で、しかし確実に私に聞こえるよう呟いた。