私だって分かっている
私は思う。自分の気持ちを、それが負の感情にしろ正の感情にしろ、相手に伝えるほど難しいものはない。特に難しいのはその相手が『自分』であるときだ。
現在、私の頭のぼやけた霧は時間とともに少しばかり晴れ、ひとつの方向を指し示していた。
「すっかり真っ暗だね!」
私達は私達以外誰もいない道を歩いていた。ポツポツとまばらに立つ街灯が彼女をうつす。彼女はスポットライトを浴びたバレリーナのようであった。
「おにーさん聞いてる?」
どうするべきか。私には関係ない話だし、もし違っていたら。
しかし、私の腹は決まっていた。
「……シカト?」
「君は本当に許可を取っていたのか?」
私は切り出した。切り出してしまった。私の中で巡る。5時過ぎ。ブラッド・イヴ。豆板醤。あまり減らない鍋。今頃爆睡しているであろう酒田。
「何の?」
「親の許可だ。君は親の許可を取らずに参加した。」
「ふうん。どうしてそー思うの?」
彼女は全く変わらず素朴に質問を投げかける。私は不安になった。だが、だが、だが。引いてはならないのだ。
「色々要素はある。まず、ブラッド・イヴだ。」
「……あの事件がどんな関係があるの?」
彼女の顔は少し暗くなった。
「あの事件は衝撃的だった。それなのに、自分の娘を素性もよくわからない大学生の家に行かせるのは考えにくいのではないか」
「もう忘れちゃったのかもよ」
「それもあるかもしれない。世間は忘れっぽいからな。だが、矛盾もある。もし忘れていて夕飯を食べるのを許していたとしたなら君の帰る時間は早い。早すぎるぐらいだ。野郎の家に行くのはいいが、早く帰ってこいというのは何かおかしくないか」
「あたしんちはいつも6時ぐらいに夕飯を食べてるってことはあるかもよ」
「そして、もうひとつ。豆板醤。」
「……食べたかったの?」
「……」
ずれている。私の思い違いだったのか?
「おにーさん。言いたいことはね。言った方がいいんだよ」
彼女は微笑んだ。……ずれている。
「何故か分からなかった。君がどうして三瓶買わせておいて酒田の豆板醤を使っていたのか。」
「? もったいないからだけど」
「いや。それ以前の話だ。もったいないとかは関係ないのだ。君は、自分の分を開けてすらいない。開けてすらいないんだ。豆板醤を使うのは常識だとまで言った君がだ。そして、失礼かもしれないが、君の食は細すぎた。ここから考えられることは……」
空は冷たい。
「君は、家族と連絡すらしていない。夕飯は家で食べる予定で、そして買い物として豆板醤を頼まれていた。だから、私達に買わせた。」
沈黙は永遠のように続く……と思っていたが彼女は目を丸くさせて、
「すごい…!分かるんだ…!探偵だ!」
と叫んだ。だが、私は決して油断しなかった。何故ならば犯人が認めたからだ。
「そして、私が思うに…君は、」
「うん。きっとせんせーはあたしのこと好きなんだね」
彼女はアッサリと言った。
「やはり……気づいていたか」
「うん。せんせー、あたしと喋るとき面白いくらい声上ずってるし、さすがに雰囲気でね」
「おもしろい……?」
何が面白いんだ?思いのままに行動することが?馬鹿みたいに正直に生きることが?感情を表に出すことが?それが面白いことなのか?深い傷を負っても壁にぶつかろうとするあいつよりも、私の方がよっぽど笑いものだ。
口から溢れ出てしまいそうな言葉を私は一度飲み込んだ。
「君は、気づいていたのに、面白いからという理由で家に来たのか。」
気がつけば私は拳をきつく握っていた。冬なのに汗でじんわりと湿っている。
「うん。だって…」
「面白いだと?あいつがどれだけ」
「あたしもせんせー大好きだもん」
ん?
彼女の笑顔は空に浮かぶ満月のようであった。
「ま、待ってくれ。どういうことだ」
「どうもこうもあたしはせんせーが大好きだってことだけど………もしかして、おにーさん…やっぱりあたしねらい?」
「断じて違う!……そういうことじゃなくてだな。では何故酒田にそれを伝えない。何故、嘘をついたのだ」
「ちょっと落ち着いてよ」
彼女は困ったように笑った。暗闇の中、一人の少女に捲し立てる私の姿は通りすがりの人が見れば通報を免れないものであった。
「失礼。少し落ち着いた。さあ、答えてくれ」
私は紳士としての私を思い出した。
「あたしとおにーさんの中で誤解があるみたいだけど、あたしはせんせーをからかおうとか、そーいうことしようなんて思ってないよ。あたしは、せんせーの将来を思って思い止まってんだぞ。」
「それこそ意味不明だ」
「おにーさんが散々言ってたじゃん。酒田よ、それは犯罪だぞ……てさ」
私の真似をしているつもりなのか、彼女は小難しそうに眉を寄せた。
「聞こえたのか」
「結構声出てたし、周りの人達もおにーさんたちのことチラチラ見てたよ」
「ど……どこで?」
「最初にあったとこ!」
私は顔を覆った。後々知ることというのは往々にして恥ずかしいものだ。
「それで君もそう思っているわけだな」
「うん。……ていうか立ち直るの早いね」
「話の腰を折らんでくれ。そしてほじくりかえさんでくれ」
「あはは。ごめんね。あ、話戻すとね。あたしも良くないことだと思うんだ。六歳年下のJKと付き合うの。世間的にはよくあることかも知れないけどさ」
「よ……よくあること…なのか?」
「よくあることだよ。でもさ、あたしと付き合ったとして、せんせーはなんとなく後ろめたい気持ちになるんじゃないかなって。……自分で言うのも悔しいけどあたし、到底大学生には見えないし。」率直に言えばそれどころか高校生にも見えない。
「酒田の将来が心配か。じゃあ君は少なくとも大学に入るまでは酒田と付き合うつもりはないということか。二年待つのだぞ。君が思っているより二年は長い。」
デジャブを感じた。
「うん。でも、いいんじゃないかなーって。二人の愛は朽ち果てない!みたいな?仮にせんせーが二年の間で他の人のこと好きになったとしたら、二人の愛はそこまでだった!ってことで。それに、あたしなんとなく大丈夫なんじゃないかなって思うんだ!」
根拠は全くない話である。しかし、彼女の顔は自信と希望で満ち溢れている。暗闇に光るそれは街灯なんぞより眩しい。
それでも、私のようなひねくれた人間は理屈を持ち出す。
「まだ質問が残っているぞ。何故君は鍋を食べると嘘をついたのだ」
「これもおにーさんが自分で言ってたよ」
彼女は意地悪く笑った。
「せんせーといると面白いから」
単純明解な答である。彼女は酒田と一緒に居たいだけであった。それだけだった。
「本当はおかーさんを説得出来ればよかったんだけどね。あたしん家、シングルマザーなの。……あれ?使い方あってるっけ?……ともかく!いつも仕事で遅いんだけど、今日は早く帰ってきてくれるし、しかも料理まで久々に料理つくってくれるって言ってたからね。妹も楽しみにしてたし。さすがに外でご飯を食べるなんて言えないよね。ていうか、男の人の家に行くって言う時点でアウトか」
「豆板醤……の説明を一応聞かせてくれ」
「正直に言うとね。おにーさんの推理は正解なんだよ。せんせーにお金だしてもらっちゃお!っておもっちゃった。あたしの予想だとおにーさんはこういうときに挑戦したりとかしないから、おにーさんの分の豆板醤を新品のままもらってお使い完了!って寸法だったの」
やはり彼女は私が思っていたよりずっと頭の回転が速かったようだ。そして彼女の予想通り、私は豆板醤に触れることもなかった。
しかし、待て。一つ矛盾が生じた。
「君の目的が豆板醤一瓶ならば、どうして君は君の分を使わなかったのだ。いや、別に使わないのは構わない。何故二瓶持ち帰った?」
「たしかに…たしかにそうだね!あちゃー!!気がつかなかった!あたしもだいぶテンパってたなー」
彼女は一人で頭を抱えた。私の思考は完全においてけぼりだ。私は狼狽した。
「何故君がテンパる必要があるんだ!?わけが分からないぞ!」
「デ、デリカシーないぞ!?」
「ええい!もうなんと言われても気にならん!早く説明したまえ!」
私はわめき散らかした。かつての私が見たら、紳士とは何かということを小一時間は説教していたであろう。
「……わかったよ」
彼女はむすっと頬を膨らませ、下を向いた。
「あたしも…自分の分……使うつもりだったんだけど……せ、」
彼女は一度息を吸い、
「せんせーが食べてたやつを使いたいな……い、一緒のやつを使えば、か、か、かんせつてきに」
彼女はゴニョゴニョと言いながら、ニット帽を目深にかぶった。
なんだこれは!彼女は酒田を騙すような悪女予備軍かと思いきや、悪女どころかとんだのろけである。こっちが恥ずかしくなるほどののろけっぷりである。
馬鹿らしくなってきた。私は一つため息をついた。それにより私の視界は遮られた。
「では、最後に。今度こそ最後だ。君は私という見知らぬ男といて怖くなかったのか?酒田に対しては信頼があっただろうが、私とは初対面だ。」
それこそ私の溢れんばかりの紳士っぷりの賜物としか考えられない。
「それはね。」
彼女は一言区切り、笑う。
「おにーさんが常識的な人だって思ったけど、それだけじゃなくて。おにーさんは、いやがる女性を無理矢理……なんてことは出来ない人だと思ったの。度胸がないとかそーいうことじゃなくて、そーいうことも多分あるけど。」
どっちだ。
「おにーさんは『世間的な自分』とか『文化的な自分』とか『今までの自分』とかを大切にする人だから、さいてーなことは絶対しないの。倫理的に反していることは自分のルールにしたがって、断固拒否する!それがおにーさんなの。そーなんじゃないかなーって思ったの。」
「………いつから?」
「初めて会った時からだよ」
圧巻であった。彼女はいともたやすく『私』を見抜いたのだ。一瞬で。
酒田よ。やはりお前を恋におとした少女は紛れもなく魔女だ。
我々は人通りの少ない住宅地を抜け、チェーン店の広がる駅近くまできた。ここまで来ると流石に人通りもそれなりであった。
ここまで私達は無言であった。私は自己嫌悪に襲われていた。彼女にあらぬ疑いをかけてしまったことに。酒田ならばどう思うのだろうか。「わりぃ。勘違いしていたぜ。くっくく」と笑い飛ばすに違いない。彼女も黙っていた。何を考えているかは分からないが、私が沈黙しているのに気をつかっているのかもしれない。
前方にJRの駅が見えた。このままのペースならば二分程度で着くだろうと私が予測していた時、
「おにーさん」
と突然彼女は前を向きながら言った。
「おにーさんは冬好き?」
どんな意味を持つのか。沈黙に耐えきれずに話しかけたような感じではなかった。彼女は私を見ない。しかし、その目線はしっかりと前方をとらえ、そこに光の道が通るかのように見えた。
「私は」
一度区切り、
「私は、冬は嫌いだ。寒いし何か物淋しい」
素直に答えた。
「あたしもね、冬嫌いだった」
彼女の意図は掴めない。
「あたし冷え性だし、空気も乾燥してるし、眠いし」
最後はよくわからない理由であるが。
「でも、最近すっごく冬好きになったんだ」
私は黙っていた。
「冬って空気がすごく冷たいでしょ。でもそれって裏を返せば、あたしはあったかいってことなんだよ。あたしね、自分が生きてるんだってすごく実感したんだ。だから冬、好き!」
彼女はこちらを向き微笑んだ。私は目を奪われた。
重なったのだ。似ても似つかないはずの彼女と酒田が。この純粋な微笑とあの歪んだ笑みのどこに共通点があるのか。
「おにーさんは冬好き?」
再び、彼女は尋ねる。私は……。
「私は、冬は嫌いだ。寒さで凍えてしまう」
私には眩しすぎる。
気がつけば駅についていた。
「では、このへんで」
私は彼女を改札で見送ることにした。彼女の最寄り駅まで送ってやれれば紳士的なのだが、私が利用しているのは私鉄の駅の方で、さらに財布以外の荷物を酒田の家に置いてきてしまった。こうなってしまうと流石に私でも面倒だなという気持ちがごくわずかに紳士的精神を上回る。
「うん。今日は楽しかったよ。特におにーさんは第一印象よりずっと面白かったよ」
どことなく馬鹿にされたような気がする。
「まさか、あんなすごい推理力がおにーさんにあるなんて」
「そんなに驚くことではない。私の体からにじみ出る知能のわずか数十パーセントしか」
「それはどうでもいいけど」
あっさりと彼女は切り捨てた。
「もっと驚いたことはね」
と彼女は区切り、
「おにーさんがあたしに自分の推理をぶつけて、しかもあたしが『せんせーは面白い』って言った時に怒ったこと」
「え?」
完全に虚をつかれた。
「あんな風におにーさんが真っ直ぐ言うとは思ってなかったよ」
そして、彼女は肩をすくめて
「あんな風に思いを伝えられればいいのにね」とやれやれと付け加えた。
「誰にだ?酒田か?言っておくが私にそういった趣味は無いぞ」
と小学生の頃を思い出したかのような素朴さで問いかけた。すると、彼女は目を見開いた。
「そーいうことじゃなくて!…まあ、ありだけど……。そーじゃないよ!ていうか……めんどくさい人だな、おにーさんは」
彼女はため息をついた。
忙しいことである。
呆れた顔をしていた彼女は私の後方に目をやると、何かに気がついたらしく、急激に笑顔になった。そして、彼女は手をふり
「おねーーちゃん!おーい!」
と叫んだ。
『おねえちゃん』?妹はいると言ってはいたが、姉までいるのか。
しかし、そこで私の脳のシナプスはバチバチと連鎖し、ひとつの記憶が甦った。
『おねーさん…かあ。いいかも…………おねえちゃんでも構わないのよ?』
「か、河上さん!?」
私はすぐに後ろを振り返った。
いるのか?河上さんがいるのか!?
彼女が見ていたであろう方向に私は意識を集中させた。やはり、この時間では駅前は人通りが多い。しかし目を凝らしてみても河上さんを見つけられなかった。
「ど、どこにいるのだ!?」
パッと私は再び彼女を見ると、彼女はニコニコと私を観察していた。
「今ね、声上ずってたよ。せんせーとおんなじ。これで分かった?」
じっと私の目を捕らえ、彼女は笑顔のまま告げる。
酒田よ、お前を恋に落としたこのコは、やはり魔女だ。
彼女を見送ったあと、無性に家に帰りたい気持ちに襲われたが、荷物はほとんど酒田の家に置いてきてしまったことを思い出し、致し方なく酒田の家に戻ることにした。
人通りの多い駅前を抜けて、私は人気のない道を歩いた。
私はその間思考していた。彼女が最後に私に言ったこと。これまで私が言われてきたこと。
私だって分かっている。
『石橋を叩いて渡る、もしくは叩きに叩いて尚渡らぬ』
それは私が私を分析した結果だ。
こう評価するのもひとつの言い訳だ。私は石橋を叩く叩かない以前に元々渡る気がないのだ。今までずっとそうであった。小学生の頃から一生懸命するなんてことはなかった。
だが、もう遅いではないか。ここまで来たのだ。きてしまったのだ。
恐いではないか。全力を出すなんて。私の全力が受け入れられなかったら、無下にされたら、届かなかったら、『私』は一体どうなるんだ。
おにーさんは『世間的な自分』とか『文化的な自分』とか『今までの自分』とかを大切にする人だから
そうだ。その通りだ。何が悪いのだ。
半ば開き直った私は猛然と歩いた。道には私以外に誰もいなかった。だが、それが心地よかった。宇宙空間に放り出される映画があったようだが、案外そんな状況でも私は憮然と構えて、どっしりと胡座をかいているかもしれない。私しかいない道を私だけが進む。
そして、今ひとつの分かれ道にいることに気がついた。
私は今、酒田の家から北に四百メートルほど離れた場所にいる。
二本の道に分かれていた。
ひとつは真っ直ぐ進む道。道なりに進んでいけば、いずれあの倒壊寸前のボロアパートへたどり着く。
そしてもうひとつの道は右に曲がる道。入って少し歩けば、上品な花屋が待つ。そして、そこには。
「は、はははは」
私は自嘲気味に笑った。
あれほど否定してきた選択肢をいつの間にか考慮している自分がいる。諦めろと言っても諦めきれず、だからといって動くことを一切しない自分がいる。
団長って一歩も前に進めてないって感じッスよね……。
うるさい。石川め。お前に言われんでも分かっているわい。お前らが勝手に私を置いていくのではないか。
まだお前は壁にぶつかってすらいねえんだからな。
だって、痛いではないか。壁にぶつかれば。お前の傷は私とは比にならないはずなのに、どうしてお前はそうも呑気に立ち上がるのだ。
大体、確かに河上さんは私を覚えていた。だが、私は河上さんとマトモに話せたのは今日だけだし、そもそも今日だってマトモに目を合わせることはできなかったのだ。河上さんのような人が私を好いている可能性などゴミに等しいはずだ。
確率通りにいかないから良いのです
山田。私はお前のように強くないみたいだ。低い勝率に賭けるほど私は愚かではないし、勇気もない。それに、戦う必要も感じない。
男にはな、ツラくても痛くても乗り越えなきゃならん時があるんだ
酒田よ。それが今だと言うのか。私には出来ない。私は思ったように、やりたいようにやることは出来ない。今の位置とかそういうものを大切にする自分が私を引きとどまらせる。そんな保守的な自分を押しのけたことなど一度も……
あんな風におにーさんが真っ直ぐ言うとは思ってなかったよ
……。一度も、ないはずだった。しかし、私は…
くっくく。お前の中にまさかそんな熱いもんがあるとはな。お前は“それ”をもって前に進めばいいんだ。
そういうことか。酒田よ。お前は、私が気づかない私をとっくに見つけていたのか。お前にはどうも敵わない。
今、私の目の前に分かれ道がある。ひとつは私の悪友で、見てくれは爽やかだが、どうしようもないロリコンである唯一無二の親友が、もうひとつは私がこれまで恋い焦がれていた、そして今もなお恋い焦がれている河上さんがいる。
右の道をじっくり見つめた。
そして、一度大きく深呼吸をして、私は大きく一歩踏み出し、進んだ。すぐに、そのゆっくりとしたペースに耐えきれなくなり、いつの間にか小気味のよい音とともに、駆け出していた。




