余寒(よかん)
本州の端っこからタクシーと飛行機をあわせ、約三時間で幾久は東京、羽田へ戻る事が出来た。
空港へ到着したのは夜の八時過ぎで、ざわつく人の波にほっとしてしまうのはこっちに慣れているせいかもしれない。
「幾久!」
搭乗口を下りると父が待っていた。
忙しい父らしく仕事帰りの格好のまま、いつものスーツ姿だ。
「父さん、ただいま」
「良かった。ちゃんと一人で戻って来れたな」
「子供じゃあるまいし。大丈夫だよ」
正直、一人で行くには不安も抵抗もあったが空港からタクシーしか使わないので問題はなかった。
「これなら帰省も一人で大丈夫だな」
次は新幹線を使ってみるか、と言う父にそれもいいね、と答える。
「どうだ、蕎麦でも食べて帰るか?」
「食べる!もうすごいお腹すいた!」
父の誘いは嬉しかったが、やはり母はまだ機嫌が悪いのか、と察した。
空港の店の蕎麦屋に入り、父と定食を頼んだ。
最近こうして外食をする事が多いのは、母が食事をあまり作らなくなったせいだ。
「学校はどうだった。試験、難しかったか」
父の問いに幾久は頷く。
「けっこう難しかったけど、そこそこやれたと思う。あ、あと合格はしたみたい」
「ほぉ。そうか」
「名前書いたら合格はするって。大丈夫なの、あの学校」
幾久の言葉に父は笑う。
「ああ、そりゃ千鳥しかないから大丈夫だ。千鳥は名前さえ書けりゃ誰でも合格するっていうレベルだからな」
母さんには黙っとけよ、と父は言う。
そりゃそうだ。
学校のレベルをなにより気にする母がこんな事を聞いたらまたヒステリーを起こしかねない。
「でもそんな学校で、本当にこっちの大学に受かるレベルの勉強できるの?」
幾久は疑問に思うが父は笑う。
「問題ない。ちゃんと能力別にクラスが分かれてるからな。そりゃー驚くほどシビアだぞ、あの学校は」
「ふうん」
言葉でシビアだなんて抽象的な事を言われても、幾久にはよく理解できない。
確か、あの高杉と言う人も父と同じ事を言っていたと思い出す。
「お前の成績なら、良くて鷹、まあ鳩にはいけるだろうから心配はしてないが、入学したら出来るだけ上のレベルを目指してくれ」
「そのつもり。でもめずらしいね、父さんが成績の事を言うなんて」
絵に描いたような教育ママの母とは違い、父は今まで成績の事に口出しした事は無かったのに。
苦笑しながら幾久の父は言った。
「成績がどうのというより、実際は授業料の問題がある」
「授業料?」
私立だから高い、と言いたいのだろうか。
でも今まで幾久が通ってきたのはずっと私立だったし、むしろ高校も私立でないと駄目、と言ったのは父のはずだったが。
「クラスによって、支払う授業料が全く違うんだよ」
「へえ、そんなことあるの」
同じ学校で授業料が違うなんて、幾久は驚く。
「ああ。最近はどうだか知らないが、父さんの頃は一番優秀な『鳳』は授業料、寮費、全部無料だったな」
「マジで」
ということはクラス全員が奨学生みたいなもの?と尋ねると父が頷いた。
「昔の話になるが、長州藩の気風でな。能力のある子は身分問わず、全部藩で面倒を見てやっていたんだ。その名残があの学校にも残っていて、能力のある子は学校が全てサポートしてくれる。そうじゃない、学校ブランドが欲しいだけの子は、つまり高い金を払って買えという訳だ」
「ほんっと、シビアだね……」
塾みたい、と幾久は呆れる。
有名な塾の場合、成績優秀な生徒に来てもらってレベルの高い学校を受験させて、授業料は無料にされる子とかいたけど、それと同じような事をやる学校が私立とはいえあるとは思わなかった。
「どこでも似たようなことはやってるけど、あの学校はそれが一層露骨なだけだな」
でもその分、自由度も高いぞ、と父は言う。
「自由、ねぇ」
今日会った高杉とかいう先輩も、この学校は自由だとか言っていたけれど、今までそんな制約のない学校に居た幾久から見れば自由自由と言われても、逆になにが自由じゃないのかが判らない。
制服を着て、決まった時間に決まった授業を受けて、それなりに持ち物に気をつけて。
そんなものが自由になったからといって、この毎日が楽しくなるとは思えない。
(別に、楽しくなくったっていいんだけど)
楽しかろうがなかろうが、とにかく問題なく過ぎればそれでいい。普通であるというのはそういうことだ。
「フツーに過ごせるなら別にどこだっていいよ」
そう答えた幾久に、父は苦笑いだ。
無理もない、と幾久は思う。
つい先日まで、こうして父と話すことすらまともになかったのだ。
多分、幾久が問題さえ起こさなければもっと話すこともなかっただろう。
「なんか、もう子孫とか、そういうの、すごいめんどくさい」
文句を言う幾久に、蕎麦湯を啜りながら、父は言った。
「あの学校には、お前の境遇と同じような連中が沢山居るから、そういう意味では過ごしやすいかもしれんな」
父の言葉に幾久は顔を上げる。
「どういう意味?」
「そのままだ。お前みたいに、志士の子孫があの学校には沢山通ってる」
「そう、なの」
それは知らなかったし、意外な情報だった。
「うちよりよっぽどメジャーな子孫が沢山居るから、そういう意味では心配しなくていいぞ」
「フーン」
そういや、幾久がけっとばした上にビスコをくれた人も、高杉、と言っていた。
(あの高杉晋作の子孫とか。まさかね)
ぷっと幾久は笑う。
歴史に詳しくなくても、そのくらいは幾久も知っている。
もしそうなら、おかしすぎる。オレンジのジャージを着たお洒落な高杉晋作とか、なんか違いすぎるんじゃないのかな。
といっても幾久は高杉晋作を名前以外よく知らなかったが。
「なにかおかしかったか?」
「や、今日さ、高杉って名前の先輩に会ったんだ。すげ派手でカッコイイジャージ着てたから、なんか高杉晋作の子孫だったらおかしーなって」
「そりゃ面白いな。でも確かにイメージは合うかもなあ」
父は楽しそうに言う。
「合うの?」
あんな派手なのが?と幾久が言うと、父は笑う。
「高杉晋作は派手好きでお洒落な人だったらしいぞ。当時では珍しいものも好んで持っていたし。高杉がかっこいいから、とその真似をした志士もいたそうだぞ」
「へぇー、そんな人なんだ……」
なんだか意外だ。知らなかった。
「本当に子孫だったら、笑う」
「よくある苗字だからな。そうなら面白いな」
そうだね、と笑い、幾久も蕎麦湯を啜った。
幾久から貰った封筒の資料を見ながら、父は幾久に告げた。
「本当なら仮入学があるんだが、遠方の生徒は別に来なくていいらしい。幾久、一応行くか?」
「えー……また行くの?行かなくていいなら別にいいよ。めんどくさい」
わざわざあんな遠いところにまた行くとか、面倒極まりない。
「どうせ入学しなきゃいけないんだし、そうなったら今日とあわせて三回も行くとかもったいないよ」
「そうか。じゃあ、こっちで必要なものを揃えればいいだけだな」
試験の後に貰った封筒の書類には、入学の手続きなどが書いてあった。
教科書やその他のものは学校が準備し、遠方の生徒の分は制服も全部、寮に届けてくれるのだそうだ。
上履きなどのサイズが必要なものも、頼めば用意してくれるが、自分で購入してもいいらしい。
「入学式は、父さんが行くからな」
「来るの?」
「ああ。母校だしな」
「えー……なんか恥ずかしい」
普通入学式と言えば母親だろう。
だが父は言った。
「心配するな。あの学校に来る父兄は殆どが父親だ」
「え?マジで?」
「男子校だし、卒業生が自分の息子を入れることが多いからな。入学式後、同窓会を兼ねての祝賀会もある」
「マジ、かわってんね……」
でも確かに、伝統ある男子校ならそれもありなのかな、と幾久は思う。
「じゃ、オレは父さんと入学式の日に一緒に行けばいいの?」
「いや、お前はその前に寮に入らなきゃならんから、先に行かないといけないな」
ほら、と渡されたプリントには、入学式の日付があったが。
「入学式って、日曜日?」
「そのほうが親が出やすいだろ?」
「そうだけど」
生徒の都合は無視なのか。
入学式だから別にいいのか。
本当になんだかこの学校は調子が狂う。
「入寮式が入学式の二日前だな。金曜日の昼からか。これならこっちを朝の飛行機で間に合うだろう」
「それなら面倒がなくていいね」
入寮式は服装自由、それまでに各自の荷物をそれぞれの寮に送っておくこと、ただし募集の追加試験の生徒については一旦学校に送付、とある。
どの寮かわからないから決まり次第、学校から寮に荷物を運んでくれるらしい。
「試験がギリギリだからどの寮に入るか決まってないんだろうな」
父の言葉に幾久が驚く。
「どの寮って、寮ってひとつじゃないの?」
父に以前見せられたパンフレットに載っていたのは、大きなよくある普通の寮だった。
綺麗だったし、設備も整っていたからそこだと思い込んでいたのに。
「パンフレットにあったのは一番大きな報国寮で、他にも小さい寮があるんだ」
「ふーん……」
小さい寮、ということはなんか汚かったりぼろかったりするのかな、と不安になるが、私立だしそこまで酷くはないだろう。
「いい寮なら、いいんだけど」
「そうだな、いい先輩が居てくれたらいいな」
幾久はあくまでハード面の事を言ったのだが、父はソフト面を気にしていると思ったらしい。
そんなの誰だって同じだよ、適当にあわせてやるもん、と思ったが、父が悲しむといけないので黙っておく事にした。
不機嫌な母の攻撃から逃れつつ、幾久は引越しの準備をした。
といっても送るのは服、本、くらいで他に必要なものは特にない。
ゲームや漫画も持ち込みは禁止ではなかったので、こういったものは送らずに自分で持って行くことにした。
必要なものは父に連絡すれば後から寮に送ってくれるというし、母に内緒で小遣いも仕送りしてくれるというから幾久にはそっちのほうが楽しみだ。
知らない場所に住んで、知らない学校に通うのは不安もあったが、今はわくわくする気持ちの方が大きい。
春休みは誰からの誘いもなかった。
問題を起こした幾久とは関わるつもりがないのだろう。
三年間ほとんど同じクラスであってもこんなもんだろ、と幾久は苦笑する。
たまに遊びに行ったり、塾で一緒に過ごしても結局は上っ面の付き合いだけだ。
それを幾久は責める気にはなれなかった。
友人がそうなっても、自分も、きっとあえて関わろうとはしないだろうと思ったからだ。
(……スマホとか、全部変えようかな)
本当は春休みに誰かから連絡が来るかも、と思っていた。
だけどこうも見事なまでにスルーされていると、別に替えてもいいよな、と思う。
そう考えていると父が高校祝いにスマホを新しく買ってくれることになった。
新規契約にしたいんだけど、という幾久に、父は何も言わず、静かに微笑むだけだった。