夢の中の御門寮
「幾久はそういうの、気にしねーの?」
「そういうの、って?」
「人によって態度が違うとか。そういうの嫌がるの居るじゃん、媚びてるみたいって」
「いやー、どうなんだろ。ガタ先輩のアレって、異常っちゃ異常だけど、ガタ先輩なりにルールみたいなものがあるみたいだし。ガタ先輩って『ハル先輩』と『それ以外』しかカテゴライズしてないし」
それに、山縣の態度は高杉に対して『媚びている』という風ではない。
あくまで自分がそうしたいからそうしているだけであって、だから高杉が嫌がっていても気にしないのだ。
「タマはそういうの気になるんだ?」
「いや、……どうだろ。俺はそんな気にしたつもりないんだけど」
なにかあるのかな、と一瞬思ったが、幾久は以前児玉に助けられた時の事を思い出した。
「そういやオレ、ネクタイ取られたじゃん、前」
「ああ、」
中学時代にヤンチャだったという伊藤と仲良くしていたら、その伊藤の虎の威を借りていると思われていちゃもんをつけられた結果、ネクタイを他校の生徒に取られてしまったのだ。
「あのときは助かった。ありがとう」
「や、それはもう終わった事じゃん」
ネクタイを取られてからまれていた幾久を助けてくれたのは児玉だった。その後も、学校に戻って伊藤にいろいろ言ったり、寮の余っているネクタイを用意してくれたのも児玉だ。
「そんとき、オレも言われたんだよな。トシに擦り寄ってるってさ」
幾久は伊藤のヤンチャ時代なんか全く知らないので言いがかりも甚だしいのだが、他人からはそう見えてしまったらしい。
「だからさ、なんていうか。そういう風に見るやつってなんでもそうにしか見てないんじゃないのかな。他人から見たらガタ先輩の態度だって、ハル先輩に擦り寄ってるって見えるのかもしれないし」
幾久は山縣がどういう意図でああいった行動に出ているのかが判るので気にしないが、そういう風に見る人から見れば、まるで高杉に擦り寄っている風にしか見えないのだろう。
「こうしてタマと話してたって、鳩のオレが鳳に擦り寄ってるって見るやつは見るんじゃね?」
そう幾久が言うと、児玉は「ふっ」と笑った。
「―――――幾久、次は鷹確実なんだろ?」
「わかんないけど。先輩らは今の調子ならねって言ってた」
正直、鳳のレベルなんか知らなかったし、鳳を落ちた人や鷹を狙って落ちた人が入試後も必死になって勉強しているなんて思いもしなかった幾久は、当然入試の後に必死になってまで勉強はしていなかった。中間試験前は当然真面目にやりはしたけれど、良くも悪くも想定内、といった風だった。
「次で鳳狙ってんのか?」
定期テストは中間と期末の二度あって、その結果でクラスも寮も決まる。
寮は、クラスが上であればあるほど、希望が通りやすいというだけで、頻繁に変わるわけではないが、クラスはそうじゃない。
結果次第で次の期から、どのクラスになるのか決まってしまう。
「先輩達がそういった事を言わないってところを見ると、今のオレの成績じゃ鳳は無理って思われてるんだなとは感じるよ」
さすがにいくら地方と舐めていた幾久でも、この市内全域でトップクラスに入るというのは難しい。
その準備もなにもしていなかったから尚更だ。
「幾久から見て、つか、正直、東京から見たこの学校のレベルってどう?」
児玉に尋ねられ、幾久は首をかしげた。
「東京の全部を知ってるわけじゃないし」
「でもここの連中よりは知ってるだろ?」
肩をすくめて、児玉はあたりをちら、と見渡した。
この学校に来るのは当然地元の子が殆どで、県外の子もいるにはいたが、それでも近県の出身ばかりだ。
「長州市にも塾くらいあるけどさ、やっぱ地方ってレベル落ちると思うんだよな。体感だけど」
そういわれても、こっちに来てから塾に行っていない幾久としては、そのレベルがよく判らない。
「正直、オレにはよく判らないけど、鳳はかなりレベルは高いと思う」
「やっぱそうか」
希望すれば別のクラスであっても、鳳クラスの授業は受けることが出来る。
そこで幾久は鳳の授業を受けたことがあるのだが、びっくりするスピードだった。
「っていうか、授業内容が塾みたいだよ。オレも高校はここしか知らないから、なにをどうとも言えないんだけど」
ただ、理解していなければ絶対についていけないし、それについていくのも大変だ。
つまりは選ばれてエリート教育とか言っているけれど、予習、復習、理解が当然の上での授業しかしていない。
おまけにスピードが速い。
「正直、塾でもないのに学校がこれって大変だなって思うよ。普通は学校で授業で、塾で一気にペース上げるとか、コツを教わったり理解度上げたりっていう風なのにここは学校がそうだから」
塾みたいな先生というのは、勉強としてはありがたいのかもしれないが、毎日朝からずっとあれでは神経が磨り減りそうだ。必死で勉強していても、ついていくのは大変な気がする。
「タマはさ、地方っての気にするけど学力ってさ、本屋行けば判るじゃん。大学の入試問題あるし」
その気になればそういったものはいくらでも手に入る。有名な塾であればテキストだって売っている。
「鳳は、目指しているレベルが高いとは思うよ。東大とか京大、けっこう出してるみたいじゃん」
「そうなんだよな。正直、ついてくのしんどい」
児玉の意外な愚痴に、幾久は驚いた。
あんなにも鳳を愛して、誇りを持っている児玉の口からそんな言葉が出るとは思わなかったからだ。
「タマって、そういう大学狙ってるんじゃないの?」
こんな地方で鳳クラスを狙うという事は、まず間違いなく進路がそういったいわゆる旧帝大レベルを目指しているのだと思っていた。
幾久も、だから東京に戻ろうと考えていて、今まさにその進路に悩んでいる真っ最中だというのに。
「ぶっちゃけ俺、大学なんか、正直どうでもいいっていうか。考えてなかったというか」
「えっ?鳳なのに?」
意外すぎる、と幾久は驚いて目を見開いた。
「てっきり、良い大学に行きたいから頑張ってるのかと思ってた」
「そりゃ、良い大学に行けるに越したことはねーけど、正直全然考えてなくて。だから今モチベーション下がっている最中っていうか」
成績あんま良くないんだ、と児玉が言う。
あんなにも鳳クラスにこだわっていたのは、いい大学に行く為にレベルの高い勉強をしたいから、という事ではない、と判って幾久はまだ驚いている。
「じゃあ、タマって、なんでそんなに鳳がいいの?」
尋ねた幾久に、児玉が答える。
「憧れてたから」
確かに、この地域でトップクラスと言うなら憧れるのも判るけれど。
「それって進学クラスだから?」
「違う」
児玉は首を横に振る。
「じゃあ、なんでそんなに鳳が好きなの」
「すっげえ憧れた人が報国院で、鳳で、御門寮だったから」
鳳クラス、御門寮、憧れ。
そんな人は一人しか思い当たらない。
「雪ちゃん先輩?」
児玉は首を横に振った。
「違う。確かに似てるし、いまは雪ちゃん先輩みたいなのも目指してるけど、元々はそうじゃなかった」
思いもしなかった事を知ってしまうと、急に児玉に興味が湧いた。
二人とも食事はとっくに終わって、休み時間はまだ余裕で残っている。
「どうせ暇だろ?俺もだけど」
まあね、と幾久が頷くと、児玉は楽しそうに笑った。
「じゃ、話すっか。コーヒー取ってくるけど幾久は?」
「……いる」
児玉は「了解」と言うと、食堂にあるコーヒーサーバーから、自分と幾久の分のコーヒーを持ってきた。
食堂は大分生徒が減り、おしゃべりや休憩目的の生徒が残っている程度だった。
幾久と児玉の周りの席は開いていて、皆、それぞれ好きな場所でのんびりとくつろいでいる。
児玉が持ってきたのは食堂においてある、好きに飲んで良いコーヒーでけっこう生徒には人気だった。
多分だけど、高杉の知り合いだという『マスク・ド・カフェ』のあの元レスラーだというマスクマンの店長から仕入れているのだろう。あの店の安いコーヒーと同じ味だ。
コーヒーを飲みながら、児玉が話を始めた。
「幼稚園の頃なんだけどさ、俺、すっげ泣き虫でさ。なんかすっごいからかわれてたんだよ」
「なんか意外」
児玉の目つきの悪さや、いきなりかばんを投げつけるような行動力からは考えられないが、子供の頃はそうだったのだろう。
「でさ、今思えばそうたいした事じゃないんだけど、子供の頃ってどうでもいいことめちゃめちゃ気にするじゃん」
「うん」
「で、その幼稚園にさ、習字やってるやつがいて。で、字も書けるし、漢字で名前が書けるのを自慢してたのな、そいつ。俺は自分の名前を漢字で書けなくて、そいつに馬鹿にされたわけ。自分の名前なのに漢字で書けないのかって」
「でも幼稚園だったら、漢字なんか判らないじゃん」
幾久が言うと児玉も、だよな、と言う。
「今ならそう思うけど、その頃はそうは思わないんだよな。馬鹿にされてすっげー悲しくてさ」
そういえば、と幾久は思いつく。
「タマって、名前なんだっけ?」
児玉、という苗字は知っているがそういえば名前は聞いた事がない。
児玉はペンと手帳をポケットから取り出し、手帳の開いたページに「無」と「一」と書いた。
「むいち……?」
首を傾げながら幾久が尋ねると、児玉が言った。
「むいつ、って読むんだよ。俺の名前」
「無一?なんかかっこいい」
「まぁな」
自分でも気に入っているのだろう。
児玉は嬉しそうだ。
「でも幼稚園児には『無』がすげえ難しくてさ」
「そうだろうね」
簡単な名前ならともかく、幼稚園児にその文字は流石にハードルが高いのではないだろうか。
「幼稚園の帰り間際まで、名前もかけない馬鹿って言われて悔しくて泣いてたんだよ。迎えに来た親も困ったんだろうな、買い物してなだめようとしたのか商店街を通ってたんだけど、泣いているうちに迷子になってさ」
いくら地元とはいえ、幼稚園児が知らない道路に入ったら、パニックになるのは当たり前だろう。
「慌てて知っている道を探したけど、もう夢中で探して走りまわったせいで、自分がどこに居るのかもわかんなくて。で、すっころんでめそめそ泣いてたらさ。高校生のお兄さんが声かけてきたんだよ」
「へえ」
幼稚園児の児玉からしてみたら、高校生のお兄さんという存在は随分心強かっただろう。
「どうしたの、怪我してるの?って。で、更に怪我の痛さに気がついてまたわんわん泣いてたら、そのお兄さんが俺を抱えて、あるでっかい家に入ってったんだ」
「そこが御門寮だった、ってわけ?」
「いや、それが違うんだけど」
まあ聞けよ、と児玉が続ける。
「気がついたらなんかすげえ日本家屋でさ。覚えてるのが、芝生?のすごい綺麗な緑と、こう、写真集とかテレビで見るみたいな日本家屋っての?幼稚園児だったってのもあるかもだけど、なんかすげー!でけーって思ったの覚えてる」
ますます御門寮っぽいのだが、児玉はそうじゃないというので幾久は黙って続きを聞く。