桂 雪充の憂鬱(2)
お茶の時間を終えると、弥太郎が雪充に勉強を見て欲しいと言い出した。幾久が先輩達に鷹は入れると聞いて自分もやる気になったらしい。
「いいよ。どうせタマの勉強を見るつもりだったし」
毎日雪充は児玉に頼まれて勉強をみていたし、その間自分も勉強をしていたのでここで別に弥太郎が増えてもどうということはない。
今回の試験は一年生にとっては入学以来最初の定期テストになる。
このテストと、期末の結果で夏休み前には次の中期にどのクラスに入るかが決まる。
入学は出来てもクラスが成績順で変わるのがこの報国院という学校のシステムなので、入学して希望していたクラスじゃなかった、という生徒も多い。
児玉は最初から鳳狙いで入ったので希望通りだし、弥太郎は鳩ならいいか、という、報国院に入るときに一番多いタイプで入っている。
お茶を終え、応接室はそのまま勉強部屋に変わる。
以前、幾久が通されたのもこの部屋だ。
応接室と言っても誰かが来る事はないし、試験前は他寮に行くのも基本禁止なので誰も来る事はない。
最近は児玉がずっと雪充に勉強を見てもらっているので勉強部屋のようになっている。
「なんかすっかり勉強部屋になっちゃいましたね」
弥太郎が言うと雪充もそうだね、と答える。
普通に見れば英国風のカフェにも見える空間で、しかも調度品も部屋によく合う、いいものを使っている。
「カフェで勉強してるみたいで、なんか意識高いって気がするよね」
「邪魔するなら部屋もどれよ」
児玉の言葉にごめんごめん、と弥太郎が謝る。
「でも、どうして急に?」
雪充が尋ねた。
「ヤッタ、全く勉強してなかったのに。いっくんに刺激うけた?」
「そうなんす」
素直に弥太郎はそう答えるが、児玉はあまり良い顔をしない。
自分の為に勉強を必死に頑張っている児玉にしてみたら、友達が鷹にいくっぽいから自分も、という考え方が甘えているように思えるからだ。
「なんにせよ、勉強するのは良い事だけど」
それにしたって元々勉強するのが好きじゃないのにどうしてと雪充が尋ねると、弥太郎が言った。
「うーん。なんかいっくんが嫌がってたんすよね、別れるの。俺らつるんでるんすけど、トシはまず鷹無理っすよね」
トシ、とは同じクラスの伊藤俊文の事だ。幾久と弥太郎、伊藤の三人はいつも一緒に過ごしていた。だが、今期のテストで幾久が鷹に行くことが決まれば一緒のクラスではなくなる。
「で、俺もちょっと無理っぽい」
「そこは正直なんだね」
でもどうして?と再び雪充が尋ねた。今回が無理なら、照準を中期のテストに合わせれば良い。
そうそれば夏休み間も勉強の目的が出来るし焦る必要もない。
入試から入学して、希望のクラスに入れずに必死で勉強している一年生は多い。
今回急に思い立っても少し弥太郎には分が悪いはずだが。
「無理でも、『俺も鷹行くつもり』って言っとかないと、いっくん、わざと鳩に戻りそうで」
「ああ、確かに」
それは判るな、と雪充も思った。
「元々いっくんって報国院来たくて来たわけじゃないし、ひょっとしたら今期で辞めて東京に戻るかもしれないわけじゃないっすか。で、もし俺とかが、『鳩でいいし』って思ってて、いっくんだけ鷹になったら、なんか『これなら東京に帰るか』とか思いそうなんすよね」
弥太郎の言葉に、雪充も確かにそうかもな、と考える。
希望した学校でもない所に来て、しかも慣れない寮生活、寮と言ってもあの御門でメンバーもアレな連中ばかりでは、戻りたくなっても当然だろう。
「でも、いっくんは東京に戻るって決めたわけじゃないんだろう?」
「うーん、そのあたり全然話さないんすよ。なんか聞くのもなーって内容だし」
「だよねぇ」
「多分、そこまで報国院が嫌とかは思っていなさそうなんすけど、わかんないじゃないっすか」
「まあ、そうだね」
「だったら、『俺も鷹目指してんだぜ』って勉強してたら、絶対に安心して鷹に行くと思うんす」
確かに慣れない場所でできた友人は貴重だ。
そんな友人と離れ離れになるなら、東京に戻るとか、鳩のままでいるとかは幾久はしそうな雰囲気があった。
「いっくん、進路がどうこう言う割には、あんま勉強にガツガツしてないのがちょっと不思議なんすよね」
進路が気になって東京に戻る、という目的の持主なら、もっと必死感があっていいはずなのに、どうものんびりした雰囲気がある。
「なんか、東京の大学にっての、いっくんの意思なんかな、本当に」
不思議がる弥太郎に、そうじゃないだろうと雪充は思う。きっとあの雰囲気で、一人っ子で、あんな事を言うなら親が希望しているに違いない。
雪充は幾久の父親と会った事がある。
報国院の出身で、自身も東京の大学に行ったという事だ。
幾久のようにずっと東京で生まれ育ったなら、わざわざ報国院なんかに来るよりあっちの学校に行ったほうがいいに決まっている。
だったら、東京の大学云々と言っているのは父親じゃない、という事になる。
幾久は口では『大学のために』とか『進路が』と言っているけれど、行動はそんな風に見えない。
といことは答えは単純だ。
単に母親が、そう言っている。
(そういや入学式の時も、なんか雰囲気おかしかったもんな)
幾久が報国院が嫌で、東京に戻りたいと父親に告げたその時に、雪充も同じ場所に居合わせた。
そのときも母親がいる家に戻る事になる意味が判っているのか、と父親が幾久に尋ねていた。
つまり、父親は教育ママな自分の妻から、息子である幾久を報国院へ逃がしてやりたかったのだろう。
距離的に遠ければ、頻繁に来ることは不可能だ。
全寮制なら尚更。
「ま、いるにしろ出て行くにしろ、勉強するのは良い事だよ。いっくん、鷹は確実ってハル達にお墨付き貰ってるんだろ?」
「鷹は大丈夫って言われてるけど、鳳はどうかってところみたいすね」
「特に今回はね」
鳳を狙って落とされた鷹クラスが、リベンジをかけてくるのが今回の試験だ。実際、この恭王寮でも鷹クラスの一年生が鳳目指して必死に勉強している。
「タマも、油断していると危ないよ。あんまり順位良くなかったろ?」
雪充に言われて児玉もうつむく。
入学試験の時は必死でなんとかやりきって、おかげで目指した鳳クラスには入れたけれど、鳳でも児玉はランクが下だ。
頑張っていないと、『鷹落ち』してしまいそうな雰囲気があった。
「正直、鳳ってキツイ、っす」
ぼそっと児玉が言い、それはそうだな、と雪充も自身が一年生だった頃を思い出す。
報国院の授業は今までの中学生までとは全く違う。
このあたりの学校は私立がなく、公立の中学校しか存在しない。
だから報国院の鷹や鳳を目指すような中学生はほぼ全員が塾で勉強する。そうでないと絶対に受からないからだ。
そして無事、報国院に入学した鳳や鷹を待っているのはすさまじくハイスピードでレベルの高い授業だった。理数系に限って言うなら、高校一年生であってもすでに公立高校の三年生レベルはやっている。
それについて行けないなら、脱落するしかないということだ。
一年の前期は特にそんな風で、しかも授業もまるで塾のような内容なので真剣に聞いていなければ聞き逃すし、追いつけなくなる。
児玉も必死になって毎日勉強しているが、それでも追いつくだけで精一杯といった感じだ。
「何回か試験受ければね、先生のクセとか判ってくるんだけど」
だから雪充も、普段の試験でそこまで焦る事もない。
しかし一年生で最初の試験を受ける児玉はそういうわけにもいかないのだ。
「でも絶対に、鳳に居たいんです」
「そうだよね。頑張れ」
「はい」
本気で頑張る児玉を雪充も応援はしているのだが、児玉は考え方が固いところがあり、理解にけっこう時間がかかる。
一度理解すれば間違えることはないのだけど。
(あとは鷹がどれだけ追い上げてくるかに、かかってるかな)
鷹クラスは本当に、かなり気合を入れてくるに違いない。この寮の一年生を見ても判る。実際、鳳クラスの児玉にちょいちょい嫌がらせをしているのも雪充は知っている。
勿論、その度に注意はしているのだけど。
「タマは大変だなぁ」
「ヤッタだって心配している場合じゃないよ。鷹に行くつもりなら今期だけじゃきっと無理だから、遅れないように勉強しないとね」
「はいっす!」
雪充にしてみれば可愛い後輩が頑張るのは嬉しい。
出来る限りはなんでも協力してやりたかった。




