桂 雪充の憂鬱(1)
報国院から歩いて十分程度の川沿いには、古くから続く武家屋敷を中心に、純和風の邸宅が建ち並ぶ。
このあたりには条例があり、新しい家を建てる場合であっても景観を崩してはならず、新しくても和風モダンの外観でなければならなかった。
そんな中に、御門寮ほど大きくはないがそれでも普通の邸宅にしては立派過ぎるだろう和風の門があった。
門の大きな表札には『恭王寮』とある。
中に入れば庭は純和風、しかしどしんと構えた邸宅はレンガと漆喰で作られた英国風であった。
「へえ、まだ気になるの?」
午後のおだやかなお茶の時間に、恭王寮の提督である三年鳳の桂雪充は、驚いた様子もなくそう言った。
「そーそー、雪ちゃん先輩はああ言ってたけど、なんか気にはしてたっぽいっていうか」
雪充の向かいでそう話しているのは、恭王寮の一年生、桂弥太郎だ。親しい関係のものは皆『ヤッタ』というあだ名で呼んでいる。雪充と同じ『桂』という苗字ではあるが兄弟ではない。
一年の鳩クラスで、『いっくん』こと乃木幾久の友人だ。
その雪充の隣でむっとしてお茶を飲んでいるのは弥太郎、幾久と同じ一年生だが鳳クラスの児玉無一。
むっとしているのは、児玉にとって幾久が鬼門のような存在だからだ。
昔から報国院の鳳クラス、御門寮にあこがれていた児玉にとって、鳳クラスでもない、しかも鷹ですらない鳩クラスなのに御門寮にしかも一年生でたった一人だけしか所属していない幾久の存在は複雑なものがある。
そんな児玉をよく知っている弥太郎は楽しそうに言う。
「あータマ、また眉間が凄いことに」
弥太郎は幾久の事を話題に出すとむっとする児玉が楽しくて仕方がないのだ。
児玉が懐いている雪充の前では必死に猫をかぶっているのに、こうして幾久の事を出すと化けの皮が脱げてしまう。
といっても雪充はそんなことをとっくに知っているし、あえて隠す必要もないのに児玉はなぜか、必死に『お行儀良く』する。
どうも児玉には『憧れの鳳クラス、御門寮の生徒』みたいな理想があり、どうしてもそうなりたいらしい。
その理想に今の所一番近いのが、三年の桂雪充、ということだった。
今日の話題は、昼休みに幾久が話していた、御門寮に真夜中に出たという人魂についてだった。
この前まで御門寮に所属していた雪充は御門寮の事はなんでも知っている。
だから、幾久が気にしていた人魂の正体だって、実際は三年の時山であることも判っていたけれど、あえてそれはごまかした。
幾久のあの様子だと知らない、ということは誰も教えていないのだから、わざわざ教える必要はない。
それに必要以上にびびりまくっている、という風でもなかったのでそのうち誰かが教えるだろう。
(というより、面倒なんだろうな)
御門寮の後輩たちの顔を雪充は思い出し、心の中でため息をつく。
あの三人ときたら問題ばかりおこして、去年まで雪充がまとめるのに苦労したのだ。
だからあの御門寮に一年生が入らないと聞いて少しほっとしていたのに、急に乃木幾久という一年生が入寮してしまい、一時はどうなることかと思ったが案外うまくやっているようで雪充は安心した。
入寮する幾久自身も、東京から全く誰も知らない状態で出てきて、しかも寮に一人も一年生が居ない状態でどうなるだろうかと思ったが杞憂だったらしい。
笑っているのが出ていたらしく、弥太郎が雪充に尋ねた。
「雪ちゃん先輩、なんで笑ってんすか?タマが変顔してるから?」
なんだと、と言う風に児玉が弥太郎を睨む。
おとなしくしていても児玉はこう見えてなかなか激しい性格なので、こういう所はひやひやする。
ただ、弥太郎はそんな児玉を知っているのに全く気にする様子はないのだが。
「違うよ。いっくんがヤッタとうまくやっているようで安心したんだよ」
雪充の言葉に何を今更、と弥太郎が首をかしげる。
もう五月も末になっているし、弥太郎は幾久とゴールデンウィークの間も遊んだので、すっかり昔なじみのような感じだ。
「いっくんは大丈夫!だってすっげー面白いし、いいやつだし」
弥太郎の言葉に雪充も頷く。
(そうでなきゃ、あの寮に居られないよなぁ)
二年生の鳳に属している高杉、久坂、吉田の三人はとにかく手をやく。
そうは見えないが三人とも実は乱暴ものでマイペースで絶対に自分の意見を曲げることはない。
山縣は、関わらなければ問題ないのだが、自分勝手な言葉や生活が妙に障られてしまうらしく、勝手に喧嘩を売っては山縣に馬鹿にされ、の繰り返しで寮を出て行く人も少なくなかった。
つまり全員が全員、チームワークというものに無縁なのだ。寮生活ともなれば絶対にそれが必要なのに、あいつらにはそれがない。それでもうまく行っているのは全員の頭がいいからだ。
成績、という意味でなく、あの寮の全員はとにかく頭がすごく回る。雪充のように親しい人ならそれは楽なこともあったが、凡人にはそれが理解できない。
だから正直、おせじにも頭の回転が速そうには見えない、性格も一本気でもなさそうな、悪い意味でも坊ちゃんくさい幾久が、鳳クラスばかりが所属している御門寮でコンプレックスを刺激されずにうまくやっていけるのか、と心配はしていた。
いいやつ、と弥太郎は評したが、実際にそうなのだろう。
でなければあの曲者ぞろいの御門寮でやっていけるはずがない。
大抵が一ヶ月もしないうちに出て行ってしまうのだから。
「でもさー、本当に大丈夫かなあ。御門寮ってなんか古いんでしょ?」
まだ人魂の心配をしている弥太郎に雪充は「大丈夫だって」と苦笑する。
なぜなら、御門寮の人魂の正体は時山と山縣なのだから、心配はいらない。
心配があるとしたら、時山が幾久をからかって幾久を脅かして、びっくりした幾久が池にでも落ちてしまわないかという事くらいだ。
「寮は古いけど、中は改築してあるからそんなに変わらないよ」
むしろ改築した分だけうちより新しいかもね、と雪充が言うと弥太郎が言う。
「御門寮ってなんか気になるんだよなー。すっげえ広いらしいし。いっくんに写真と動画は見せてもらったんだけど」
弥太郎の言葉に、児玉がびくんと肩を揺らす。
「へえ、動画?」
児玉のためにもそう雪充がきいてやると、弥太郎がうん、と頷いた。
「広い広いって言うけど、どんくらい広いか、地図で見てもいまいちわかんないじゃないっすか。で、それ言ったらいっくんが動画とってきてくれて。庭とか、寮の中とか。ほんとすげー広いんすね、あそこ」
庭だけで散歩できる、と弥太郎が感心するが確かにあの寮はとても広い。
とても寮母の麗子さん一人で管理できるものじゃない。
だから余計に、寮の生徒達には自制が必要になる。
「タマも見せてもらったらいいのに」
「……」
それができればとっくにそうしているし、できないからわざと弥太郎も児玉にそう言うのだ。
「別に見なくてもいいんじゃないかな」
さすがに児玉がどんなに御門寮に入りたいか知っている雪充が助け舟を出した。
「だってタマはどうせ御門寮に入るんだろ?だったらその時にじっくり見たらいいよ」
雪充の言葉に児玉が嬉しそうな顔になる。だが、その表情は少し怖い。
元々、そんなにやわらかいつくりの顔じゃないから、まるで笑うとシベリアンハスキーが喜んでいるような印象になってしまうのだ。
「タマ。そのかお怖えー」
遠慮のない弥太郎がそう言ってげらげら笑い、途端児玉は表情を固くした。
(ああ、もう)
本当に、弥太郎のこういう所はどうにかならないだろうか。と思っても性格をよく知っている雪充はどうにもならないよな、と自分で納得するしかなかった。




