春疾風(はるはやて)
まずい。
壁の前で、幾久は焦っていた。
壁と言っても人生の壁とかそういったものじゃない、リアルに壁だ。
城下町の名に相応しい、石垣に土の壁に瓦屋根。
延々と道の端から端まで、ずーっとそんな塀が続いているのはいいとして、あるはずの校門が判らない。
(ここが間違いなく学校ってのは判るのに!)
瓦が乗った土壁の向こうに見えるのは、いかにもな普通の学校で、幾久が受験する高校で間違いない。
だが、肝心の校門が判らないのだ。
学校は少し変わっていて、神社の敷地内にあるという話だった。
が、空港からのタクシーに降ろされた場所はなぜか神社の境内のまん前。幾久は仕方なく壁伝いに校門らしい場所をずっと探しているというのに、入り口が全く見つからない。入試、しかもこれは最後の最後の追加の入試で、これを逃してしまえば幾久に残されているのは高校浪人と言う不名誉だけだ。
(高校浪人なんか、絶対に冗談じゃないぞ!)
そう、高校浪人なんか絶対に嫌だったからこそ、こんなど田舎の、名前も最近まで知らなかった、父の母校というそれだけの高校を受験しに来たのだ。
エスカレーター式の私立をそのまま進学するのも嫌になって他の学校を探しても時すでに遅しで、どこの学校も二次募集すら過ぎていた。
父が無理に母校に渡りをつけてくれたから良かったものの、そうでなければ幾久は高校浪人の道しかなかった。好きで受ける学校ではないが、高校浪人よりはマシだ。
なんなら入学後に転校すればいいわけだし。
―――なんて事を考えていたのに、これでは受験前に脱落してしまう。
どうしたら中に入れるのか誰かに尋ねようにも、すでに春休みのせいか誰も通らない。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
行けば判る、と安穏と考えていたので学校の連絡用番号すら聞いておかなかった。失敗だ。
おろおろと幾久は腕時計で時間を確認する。
試験開始まであと五分。
(学校がこの中にあるのは間違いないのに、入り口どこなんだよくっそ!)
こうなったら、と幾久はきょろっとあたりを見渡した。背に腹は変えられない。
(入りさえすりゃ、オッケーなんだから)
どうせ誰も通らないなら、逆に壁を越えて入ればいい、こんな塀ならセキュリティがかかっている事もないだろう、そう思って幾久はリュックを下ろし、塀の向こうに放り投げた。
どさっという音がした。
(よっし!)
石垣に足をひっかけ、手を伸ばして塀の瓦を掴む。
よし、いけそうだと思い、腕にぐっと力を入れた。
勢いをつけ、足で塀を蹴りあげると、なんとか壁によじのぼれた。運動神経が悪くなくてよかった。
上半身がやっと壁の天辺の瓦に乗ったので、さらにざりっと塀を足で蹴り、勢いをつけて塀の向こうに向かおうとしたその時、ぐいっと足を引っ張られた。
「お前、なにしちょんじゃあ!」
怒鳴り声に焦って振り向くと、高校生くらいの男が幾久の足を引っ張っていた。
いつの間に、と思ったがこっちも急いでいる。
「離せ!」
「誰が離すかぁ!てめ、土塀削りやがって!」
どべい?と疑問に思いつつ、がり、と暴れた足がまた塀を削ったらしい。
「おまええええええ!」
ぐっと一層強く引っ張られるが、こんな事に構っている暇は無い。人生がかかった試験なのだ。
「ごめん!後からいくらでも謝るから!今は急いでるから!」
そういうと馬のごとく、幾久は思い切り足を蹴り上げた。多分さっき怒鳴った男のどこかを思い切りげしっと蹴り上げた感触があったが、謝っている時間は、今は無い。
「本当にごめん!」
幾久は敷地内に飛び降り、足元のリュックを拾い、掴んで背負った。
敷地に入ればこっちのものだ。
勢いでずれた眼鏡を戻す。
まてえ!とさっきの男の声がするが構ってはいられない。こちとら高校浪人するかどうかの瀬戸際なのだ。
「マジでごめん!」
塀の向こうに大声で怒鳴ると幾久は走り出した。
試験開始まで、あと二分をきっていた。
やっとこさ校舎だろう建物に近づくと、一人の先生らしき男が玄関に立っていた。
年齢は三十歳くらいで、細身のスーツ、携帯灰皿を持って煙草を吸っている。レンズに薄い色のついた眼鏡をしているせいか、少し怖そうな雰囲気だ。
が、気にしている状況ではない。
「誰?」
けげんそうな表情に、幾久はびくっと体を震わせた。
やっぱり試験だから、卒業していても中学の制服を着てくるべきだったのだろうか。
幾久の外見は、かるいくせっ毛に黒く太い縁の眼鏡、ポロシャツにジャケット、チノパンツにスニーカーだ。試験なので気を使って、一応学生らしい私服にしたつもりだったのだが。
「あの、オレ、今日試験で、」
びくつきながら幾久が言うと、目の前の男は、ああ、という表情になった。
「余裕だなお前。もう試験始まんぞ」
「迷ってしまって……」
慌てて靴を脱ぎ、用意してきたスリッパを履く。
「試験会場はどこですか?」
「すぐそこ。付いてこいよ。俺試験官なんだよね。便所は?」
携帯灰皿に煙草を押し付けながら試験官が言う。
トイレは必要ないと首を振ると、そう、と試験官は頷いた。
「じゃ、行きますか」
背中をぽんと叩かれ、幾久は試験会場である教室へ試験官と一緒に入った。
教室にはすでに二十人程度の生徒がいた。
中学の制服を着ている生徒がいないことにまずほっとし、試験を受けるのが一人じゃなかった事も安心した。
急いで指定された机に座り、試験票と文具を出す。幾久と一緒に教室に入った試験官が言った。
「試験開始。時間はボードに書いてある通り。じゃ、開始」
ばっと試験のテキストを開き、そして幾久は驚いた。試験は三教科あるのだが、その三教科ぶんのテキストが全部揃えてある。
(……あれ?)
「あの、先生」
「おう、なんだ。便所か?」
どれだけ便所に拘るんだこの先生、と思いながら幾久は尋ねた。
「三教科ぶんのテキストがあるんですけど……」
最初は国語からだったはずだ。
だけど手元には他の二教科のテキストもある。なぜ他の教科もあるのだろうか。
すると試験官は言った。
「おー、それまとめてやっていいから。最後の時間さえ守ってくれりゃ、どういう配分でもいいぞ」
(え?そんな試験あっていいの?)
一気に幾久は不安になるが、そんな事に構っていては時間がなくなってしまう。
ちょっと変わった学校だと聞いていたから、こういうのもありなのかもしれない。
戸惑いながら幾久がテキストを開くと、幾久以外の生徒が立ち上がった。
「できましたー」
他にもそう声をあげて、生徒がぞろぞろとテキストを試験管に提出していく。試験官は驚きもせず、出ていく生徒になにか封筒を手渡ししている。一体どうなってるんだ?と幾久がきょとんとしている間に幾久以外の生徒は皆、出て行ってしまった。
教室にぽつんと残された生徒は自分だけだ。
幾久は思わず手を上げた。
「あの、先生」
「なんだ?」
「他の生徒はどうしたんですか?」
どう見ても試験が終わるには早すぎる上、全員が出て行って意味が判らない。
「試験終わったから、出て行ったんだろ」
「え?」
そんなはずはない。あの時間で出来るのはせいぜい名前を書くくらいだ。
だが試験官の先生は、にっこりと笑って言う。
「他人より自分の事を気にしろよ。お前、試験落ちてもいいの?」
そうだった。自分はこの学校に試験をしにきたのであって、他に構っている場合じゃなかったのだ。
なぜ他の生徒が出て行ったのかはものすごく気になるが、幾久はまず自分の進路を確保しなければならなかった。
試験のリミットはそれぞれ十五分の休憩をはさんで三時間弱だった。教室には幾久と試験官の先生の二人だけで、途中の休憩時間を守った以外に試験に制約は全く無かった。
お陰で苦手な数学はゆっくり時間をかけて解くことができたし、国語なんかほぼパーフェクトのはずだ。
全ての試験が終わると、もう昼の一時前になっていた。
テキストを回収されると気が抜けていまい、幾久は思わずため息をついた。試験官は、ぺら、とテキストをめくり中を確認すると、幾久に封筒を渡した。
「じゃ、これ、はい」
「え?」
「合格おめでとうございまーす。来月からうちの生徒だな、よろしく」
「……え?」
ちょっと待て。自分は今試験を受けたばっかりのはずだ。それなのに合否がどうして出るのだろうか。
驚いて何も言えない幾久に、試験官が告げた。
「クラスはまた資料と一緒に自宅に送付されるから、そん時確認。あ、それとこの呉服屋さん行って採寸しとけ。制服のだから」
「あ、ハイ……」
地図を手渡され、また背中を軽く叩かれる。
「じゃ、来月からよろしく!」
「よろしくお願いします?」
訳がわからないまま、幾久はぺこりと頭を下げて教室を出て行った。