二度目の呼吸
息を吸う。
目の前の真っ暗な空間には、きっと沢山の人がこちらを見つめているのだろう。
ひしめき合った人の雰囲気は暗くとも判る。
(まるで夜の海だ)
そう思った。
ざわめきを波と思えるなら、確かにここは海のようだ。
明治時代の軍服に身を包み、言いたくないと何度も詰まらせたこの言葉から、今日やっと解放される。
言葉を記号と思えば、どんな言葉も使うことが出来る。
だけど、もしこの記号に想いと願いがあるなら、どれほどの感情があったのだろう。
明治時代の元勲、陸軍将軍、乃木希典。
彼の服を纏い、彼の名を纏い、彼の人生を纏い、ここに立つ。
ここから自分は彼になる。
前を見ると、見えるはずのない風景が広がった。
ここに居るのは、乃木を輝く瞳で見つめ、言葉を待つ、並び立つ生徒ら。
戦争で軍功を上げた乃木将軍の事を知らぬものは無い。
子供らが喜びます、さあどうぞ壇上へ、と、案内されるも足を止めた。
こんな事を、どんな顔をして上から言えと言うのか。
足を止めて、そのまま目の前の子らを向かい見た。
親、兄弟を失っただろう子供らの顔を見て、彼らの親を、兄を思う。
彼らは、どれほどこの目でこの子らを見たかっただろう。
どれほどまた会いたかっただろう。
抱きしめるはずの腕は引きちぎられ、足は飛び、地獄さながらの景色の中に強引に塗りこめられ、肉塊となり果てた。
生臭い匂いを纏い、遠い異国で、なぜ彼らは息絶えた。
それが戦争だ。それが命令だ。
そして運悪く、自分は常に生き残る。
生徒らの前に立ち、すう、と深く息を吸う。
あふれ出る気持ちを堪え、言葉を紡いだ。
「私が乃木であります」
静かな声だった。
だけど声色は気持ちに染まる。
「みなさんの、お父さん、お兄さんを殺した乃木であります」
世界から音が消え、真っ暗な空間には、ただ静寂があるのみ―――――