あいつが僕を呼んだんだ
昨日の制服を着ての参拝、そして昼間に皆でお参りした時、それと今の早朝参拝で見る内宮の風景は全部違う。
幾久は不思議だな、と思ってあたりを見渡した。
「どうしたの、幾」
「あ、うん。なんかこれでもう3回も見てるのに、なんか全然違うなって」
高杉が足を止めた。
「違う、とは?」
「時間帯のせいか、制服じゃないからか判らないんスけど。昨日の朝、昼過ぎ、いま、って自分の中じゃ全部イメージが違うって言うか。昨日の昼は観光地っぽい雰囲気だったのに、今は凄い静かで、神社っていうより場所が『神域』っていうの判る気がする」
同じ風景でも、昨日は人の賑やかさや明るさ、ざわめきなんかが目に入ったのに、今は風景の中にある緑や、静かな風の流れる音や、穏やかに社を見ている人たちの表情が目につく。
「人が少ないからじゃない?」
「そうかもね。スタジアムでも人がいないと閑散として寂しいもんね」
御堀と幾久に高杉が苦笑した。
全て周り切った頃には日がすっかり上っていて、観光客も少しずつ増え始めた。
五十鈴川のほとりで、幾久は一人たたずむ久坂を見つけた。
「あれ?瑞祥先輩だ」
いつの間にか先に来ていたのか、途中から離脱していたのか、ちっとも気づかなかった。
そして久坂も、こちらに気づいていないようだ。
宿に帰る為に声をかけようとするが、幾久は一瞬立ち止まった。
(―――――なんか、あるのかな)
思えば昨日、五十鈴川を渡るときの高杉の雰囲気もいつもと違っていたし、久坂もちょっと雰囲気が違った。
いつもなら、高杉が迷わず久坂を呼ぶだろうけれど、幾久は気になって高杉に尋ねた。
「ハル先輩、オレ、瑞祥先輩と一緒に宿に戻りますんで、みんな先に帰ってください」
「そうじゃの。頼む」
どこかほっとしたような高杉に、幾久は笑顔で頷き、御堀と児玉に告げた。
「じゃあハル先輩のお守りよろしく!」
そう言うと、高杉が文句を言う前にぴゅーっと走って行ってしまった。
高杉は苦笑して、児玉と御堀に言う。
「じゃあ、守り(もり)を頼もうかの」
高杉の軽い冗談に、御堀と児玉は目を見合わせて「はい」と笑った。
内宮の歩道から五十鈴川のほとりまでは、通路は白く舗装され、川の流れのすぐ傍まで石段が作られている。
水が透き通っており、川底も浅いので砂利までよく見える。
いくらぼうっとしていても落ちる事はないだろう。
だけど、背中から見る久坂は、ずっと川を見つめていて、まるでそこに入ってしまうんじゃないか、と思うような雰囲気があった。
幾久が近づき、声をかけた。
「瑞祥先輩、なに黄昏てんスか」
声で幾久と気づいた久坂は、振り返りもせず「いっくんか」と呟く。
「みんなは?」
「先に宿に帰りました」
「そっか」
じゃあ、とすぐ戻るかと思いきや、久坂はずっと川を見つめたままだ。
なにか思う所があるのかな、と思った幾久は、久坂の傍に抱え膝でしゃがみ込む。
座り込んだ幾久を一瞥し、久坂は再び川へ目を戻した。
「僕らが家出して伊勢に来たことあるの、聞いただろ?」
「はい。雪ちゃん先輩から」
「どう思った」
「瑞祥先輩みたいな人でも、家出したくなる事あるんだな、とか」
「なんだそれ」
幾久の言葉に、久坂はぷっと噴出した。
「六花さんが居ても、そこまで先輩らが追い詰められちゃうくらいの事があるんだな、って」
六花の名前を出すと、久坂は静かに息を吸う。
幾久も何度か助けて貰っているが、久坂の兄の妻であり、久坂と高杉の姉のような存在であるあの人が、二人を家出させるまで追い詰められる状況になるとは考えにくかった。
「―――――むしろ、姉がそうさせたっていう感じかな。おかげで僕は、逃げられたけど」
そうなのか、と幾久は思った。
だったら、家出という手段は、きっとその時、この二人にとって最善だったに違いない。
あの女性が、可愛がっている弟二人を、悪い目に合わせるはずがないからだ。
久坂はぽつりと幾久に告げた。
「……この場所でね。ハルが僕を呼んだんだ」
久坂は思う。
一体、自分は家出をして、どこへ行きたかったのだろう。
失った兄を探したかったのか。
ここへ来ればどうにかなると思ったのか。
焦燥は覚えていても、今はもうその考えも判らない。
「僕はね、家出して、そのままどこかに行きたかった。帰りたくなかったんだ。……僕の親っていう人は、僕を久坂家の財産のおまけとしか思っていなくてね。母と結婚したのも、むしろそれが目的だった」
突然語られた久坂の家庭事情に、幾久は驚くが、小さく頷く。
「兄も亡くなって、祖父も亡くなって。大人なら、久坂の家の権利は全部僕のものになるけど、僕はその頃まだ中学生だろ?だから後見人っていうものが必要でね」
幾久には法律の詳しい事は判らない。
だけど、中学生の久坂が身内を亡くして、物凄く追い詰められたことは判る。
「結局、僕の実の父がそうなるしかなくて。でもそうしたら久坂の家も財産も、父が管理することになる。父は事業に失敗していてね。僕ら―――――兄の事も僕の事も忘れていたくせに、久坂家に金がある事だけは覚えてた。兄が亡くなって、僕になんて言ったと思う?『死んだら少しは役に立った。取り分が増えたな』だってさ。祖父の事も、『どうせあいつももうすぐ死ぬ、そしたら財産は我々のものだ』だってさ」
「なんだそれ」
幾久の腹の底で、突然炎が燃え立つような怒りが湧く。
「僕はね。その時まで、家族っていうか、親っていう存在に、やっぱり夢を見ていたんだなって判ったよ。兄はずっと父親みたいに僕を大事に育ててくれたから、きっと親も少しは、とか考えてた。バカだったよ」
苦笑する久坂に、幾久は言った。
「でも、そんなの当たり前じゃないっすか」
普通に子供が親に期待をする事のどこがおかしいのだろう。
「そうかな。自分の欲の為に結婚して、いざ息子が出来たら弟の僕はいらないってほったらかして。兄が受験に失敗したらその兄も捨てた親なのに、期待なんかするほうが馬鹿だよね」
苦笑する久坂はまるで自分をわざと傷つけているように見えた。
そんな事はない、と言ってもきっと何の意味もないのだろうと幾久は思った。
「―――――ずっとハルともろくに話もできなくて。父親の親戚や、そんな連中が意気揚々とやって来て、なにを売ろうとか、そんな話ばっかりしててさ。父親とか親戚はみんな東京にいたし、僕の事もほったらかしで。麗子さんだけがずっと庇ってくれてさ。あの人がいなかったら、きっともっと酷かった」
御門寮の寮母である麗子は、もともと久坂家のお手伝いさんとして通っていたと聞いた。
そして六花の母親変わりだとも聞いたことがある。
「そしたらさ、真冬の真夜中だよ。ハルが突然、うちに忍び込んできて、僕に出て来いって言ってさ」
城下町に雪が降りしきる中、寒くて真っ白い息が真夜中に染まる、そんな時高杉がやって来た。
「『逃げるぞ』って。なにバカなこと言ってるんだって思ってさ。でもアイツ、僕の手を引っ張って、『これは戦略じゃ』って」
その場から去るのは、逃げるのではなく戦略。
後で勝てばそれで良い。
それは高杉が好きで、よく使っている言葉だった。
「それでまあ、姉ちゃんの助けもあって、ここへ逃げてきて。でも僕は帰りたくなかった。帰ってもなにも変わらないと思ってたし、実際僕はなにも変えられなかった。変えたのは全部、姉ちゃんだよ」
帰りたくない。
でも本当は帰りたい。
兄もいないのに、家ももうなくなる。
それでもあの場所へ帰らないわけにはいかない。
「……姉ちゃんに言われてた、帰る時間って決まってて。でも帰りたくなくて、橋からこの川に飛び落ちてやろうかなとか」
今ぞ知る、みもすそ川の、御ながれ
波のしたにも、みやこありとは
あの和歌を告げた時の久坂の気持ちはどんなだっただろう。
もう死ぬくらいしか思いつかない程追い詰められて、高杉がああやって笑いながら言えようになるまで、どれだけ苦しい思いをしたのだろう。
幾久がどれだけ想像しても、きっとかけらほども届かない。
「僕がずーっと黙ってるもんでさ、結局喧嘩になっちゃって、神主さんに止められて、叱られてさ」
あはは、と笑って言うが、止められるくらい酷い喧嘩をこの二人がするなんて思えない。
幾久が驚いていると、久坂が続けた。
「そしたらハルのヤツ、必死で言ったんだ。『栄人がカレー作って待っちょる、食わなかったらあいつ怒るぞ』って」
死んでやろうかとも考えていた久坂にとって、高杉の説得がどうくるのか。
それは全く、久坂の想像からかけ離れたもので、久坂はあっけにとられた。
「信じられないだろ?よりにもよってカレーかよ!って。こっちは死ぬつもりでいるのにさ」
心底おかしそうに久坂は肩を震わせて笑うが、幾久にとっては何も笑えない。
「だから、―――――ああ、コイツ、本当に心底困ってんだなって。頭が良くって、きっつい事ばっか言って、大人なんかばんばん負かしてたのに、僕を説得するのにカレーだってさ」
ツボにはまるのか、久坂は「ぷっ」と噴き出して笑って言った。
「こいつにもバカな所あるんだなって。人って必死になると、ホント、馬鹿な事しかできないなって、思って」
「……それで、瑞祥先輩は帰ったんスか?」
「仕方ないだろ?カレー食わないと怒られるんだし」
そう言って笑う久坂は、本当になにも気にしていないようだった。
幾久は考えに考えて、頷いた。
「確かに栄人先輩のカレー、うまいっすもんね」
「いっくんはほんとバカだなあ」
カレーで人生変わるかよ。
そう久坂は呟いたけど、きっとそれは変わってしまったのだ。
多分それは、高杉が必死になってしまった事や、二人を信じてカレーを作って待っている栄人とか。
そしてきっと、二人が逃げている間、策略をめぐらしたに違いない人たちとか。




