自分の声を聞け
なんでまた眼鏡の話になってるんだ?と思ったが、三人はすっかり乗り気だ。
「ああ、丁度いいね。じゃもう今から眼鏡買いに行こう!」
「いや、でも」
勝手に買っていいのかな、と思ったけれど確かにあのうるさい母親はいないのだ。
眼鏡はずっと、自分の欲しいものが買えなかった。
買おうにもそんな高価なものは買えないし。
「えと……父に連絡、してみます」
立ち止まり、幾久は父親にメッセージを送った。
どうせ仕事中だろうし、返信なんか戻ってこないと思っていたが。
「あ」
「え?」
「はや」
送ったメッセージがあまりにも早く戻ってきたので、思わず見直すと、父からの返信だった。
「『予算は二万円まで』……だそうです」
「うっわ太っ腹!」
吉田が驚く。幾久も驚いた。こんな高い値段の眼鏡なんかしたことがない。
すると突然、着信音が鳴った。
幾久の父からだった。
「も、もしもし?」
『幾久か?』
「どうしたの、父さん。本当にいいの?」
幾久の言葉に父が笑う。
『なに言ってんだ、ちゃんとした眼鏡を買わないと勉強もはかどらないだろう?』
「いや、眼鏡がおかしいとか壊れたとかじゃなくってさ」
カッコイイ眼鏡が欲しいだけなんだけど、と申し訳なくそう言うと、父が電話の向こうで笑っていた。
『いいじゃないか、父さんだってかっこいい眼鏡好きだぞ!』
そういう問題じゃないのに、と幾久が思っていると、父が真面目な声で言う。
『眼鏡はちゃんといい眼鏡屋で買いなさい。予算は二万と言ったけれど、もうちょっと超えてもいい。安い眼鏡はフレームが悪かったり、レンズがきつかったりで体が悪くなる。報国の商店街の近くに古い眼鏡屋さんがあるはずなんだが……』
いまはどうか、と言う父に、吉田が言う。
「ごめんいっくん、聞こえたんで言うけど、その商店街の眼鏡屋が、いまからおれらがいくところ」
『こっちも聞こえたので、息子をよろしくと吉田君に伝えてくれ』
うわ、丸聞こえな上に、一回話しただけの吉田の声が電話越しでよく判ったな、と幾久は父に感心する。
幾久の父のファン(?)らしい吉田は「おまかせください!」とか言っている。
「でも支払いとか」
『眼鏡屋さんにはこちらから連絡しておくから、好きなものを買いなさい』
「―――――ウン、ありがとう、父さん!」
『どういたしまして』
通話ボタンを切り、全員が顔を見合わせた。
商店街は学校の近くにあるが、もう歩いて過ぎてしまっている。
「戻るか」
「そだね」
二年生達は早速、眼鏡屋に向かって歩いていく。
テンションが上がっているのか、高杉は早歩きで楽しそうで、その後を久坂がついていく。
と、幾久の傍にいた吉田がさっと止まり、高杉と久坂と距離を置く。
先に進む二人は、吉田と幾久が距離をとったことに気付いていない。
「あのさ、いっくん」
「なんすか?」
二人に聞こえないように、吉田が小さく尋ねた。
「久坂のにーちゃんのこと、気になる?」
「オレは気にしてないっすよ」
似てるといわれても、写真をみたわけでもないし、それにかぶっているのは、東京、眼鏡、受験失敗、とかそのあたりしかない気がするのだけど。
「どっちかっていうと、他の人のほうが気にしてる気がする」
幾久はちっとも気にしていないのに、なぜか周りの人がやたら気にする。多分、気にしているのは高杉と久坂の二人なのだろう。
あの二人にとって、『久坂杉松』というのはそれほど大きな存在だったのだろう。
「そうだよね、いっくんにとっては知らない人なんだもんね」
「そうっす。でもなんか、すごいいい人だったらしいのは判ります」
「判る?」
吉田の問いに、幾久が頷く。
「宇佐美先輩、神社の……住吉神社の木の前で、じゃあな、杉松、って挨拶してましたよ。あと、双子の神主さんも誉めてたし。あの毛利先生だって、自分は教師になるつもりなかった、杉松の代わりだって言ってたし」
どういう人なのかは判らないけれど、そこまで人に影響を与えて、しかもいい人だったらしいから、よほどなのだろう。
「久坂先輩のお祖父さんも、地域で有名な人なんでしょ?じゃあ、そういう家なのかなとか」
ただ、久坂の性格は一癖も二癖もあるようだけど。
「そうだな。おれも知ってるけど、本当にいい人だったよ。穏やかで、優しくて。分け隔てないっていうのかな」
「性格オレと似てないっす」
幾久が言うと、吉田が笑う。
「まあねえ。でもなんとなく、似てるところもあるけどねえ」
久坂とも高杉とも、幼馴染だったという吉田もきっと久坂の兄については色々知っているのだろう。
「なんか聞きたい?」
吉田の言葉に幾久は首を横に振る。
「別にいいっす」
聞いても多分、理解なんかできないだろう。
「オレ、まだこの学校に三年通うって決めたわけじゃないし、ふわふわしてるし。正直、寮も学校もなんか楽しいな、とは思うけど」
学校は行くのが当たり前の所で、向かうのが面倒くさい場所だった。
どうせ勉強なら塾でできるし、学校で見る顔が同じ塾や習い事で見るのだから、別に行っても行かなくても、幾久には同じだった。
でも今は、まるで初めて小学校に通う子供のように、毎日が楽しい。
友達に会って、どうでもいいおしゃべりをして、寮のことを話して。
「そういうの、すっげえ楽しいけど、今だけかもしんないし」
親から離れ、特に幾久の所属する『御門寮』は生徒たちの自主管理項目が殆どで自由そのものだ。
寮の先輩達にも慣れてきて、生活のパターンも出来てきた。
だから、浮かれているだけなのかもしれない。
この生活にも慣れてしまうと、やっぱりつまらない、面倒な日常になるのかもしれない。
それなら、早く東京に戻ったほうがいい。
でも、幾久が東京に戻るのは、『いい大学』に入るためだ。
そして幾久は、『いい大学』に入りたかったのは自分ではなく、母が幾久をいい大学に入れたかっただけ、と気付いてから、かなり頭が混乱していた。
『どうしたいのか、自分は本当はどうしたいのか、しっかりとこの三ヶ月の間に考えなさい』
入学式の時に、幾久はそう父に言われた。
勢いで逃げるように報国院に来たものの、やっぱりここは田舎だと怒った幾久は、ろくになにも知らないのに、すぐに東京に戻りたいと父に訴えた。
父は幾久に『自分の母校である、報国院に息子を入れるのが夢だった』と幾久に告げ、三ヶ月だけ報国院に通うのが、東京の学校に編入する条件だと告げた。
―――――父は本当は、全部判っていたのでは。
幾久が母の影響で、無意識にも『東京のいい大学に入らないといけない』と思いこんでいたことも、幾久がそれに気付いていないことも。
『お前の人生だっていう事を忘れるなよ、幾久』
父は多分、きっと気付いたのだろう。
幾久にはもうそうとしか思えなかった。
「すっごい楽しいなら、それでいいんじゃないの?」
吉田が言う。
「え?」
「だっていっくん、今楽しいんでしょ?」
「ええ、まあ。でも今だけかもしんないし」
幾久の言葉に吉田が返した。
「今だけじゃないかもしんないし」
幾久ははっと顔を上げる。
吉田がにこにこ笑って言う。
「ひょっとしたら、もっと楽しくなるかもしんないじゃん?報国院、けっこう無茶苦茶だよ。よく言われるけど、水が合ったらもうすごいここはいいんだって。絶対に息子入れたい!って思って、実際そういう人多いから、三代四代当たり前とかだし。でもあわない奴はすぐにやめちゃうし」
そうだろうな、特にクラスのランクが下がれば下がるほど、授業料が跳ね上がるんだから。
もし親だったら、ランクは低いしお金は高いし、嫌になってしまうだろう。
「だからさ、いっくんが『楽しい』って言ってくれたの、おれ、すごい嬉しい」
吉田がしみじみ、そう言う。
確かに幾久は入学したての時は、こんな田舎嫌だ、とか、こんな変な先輩達嫌だ、と思っていたけれど、なんだかんだ、世話はやいてくれるし、ずれている場合も多いけど気も使ってくれる。
かなり自由な御門寮も居心地がよくなってきた。
……もうちょっと、ここに居てもいいかな
三ヶ月とか言わずに、一年とか、三年とか。
まだ父との約束の三ヶ月は過ぎていない。
ゆっくり決めればいいと思いながら、早く決めてしまいたい、と気が焦ってしまうのは、どうしてだろう。
将来の事があるのに。
高校は、将来を左右してしまうのに。
だけどその、幾久の頭の中に響く声は、幾久のものではなく、母の声だ。
父の言葉をゆっくりと思い出し、反芻し、そして最後は自分で決めればいい。
ヒステリックに怒鳴る母は、ここにはいないのだから。
「うん、ゆっくり考えます!楽しいし!」
「そっか」
吉田が言う。報国院が好きだ、と言っていたので本当に嬉しそうだ。
四人で報国院のある方向へ戻りながら、目指す先は商店街だ。
父の言う眼鏡屋に、幾久の求めるようなかっこいい眼鏡はあるだろうか。
例えば母がヒステリーを起こして、父が『お、それかっこいいじゃないか、いい眼鏡買ったな』と言うような。
入学式の時に入った制服を仕立てた店のように、アンティークな雰囲気のある眼鏡屋のドアを押した。
「どんな眼鏡をお探しですか」
店員が幾久たちにそう呼びかけると、高杉が答えた。
「ださくなくて格好ええ奴」
「わかりづらっ」
吉田が言い、久坂は「これなんかどうかな」とビートルズの人がかけていたような丸い眼鏡を薦めてきた。
「先輩ら、使えないっす」
さて、どの眼鏡にしようかな。
自分の欲しい眼鏡を自分だけで選ぶのは初めてだ。
「ゆっくり選びます。オレのだし」
きちんと見えて、格好良くて、軽くて、クリアで、まっすぐ前を見れる奴。
そうしたらいろんなことが、ちゃんと見れるようになるのかもしれない。
父は幾久に、何か見せたいものがあるのかもしれない。
父の薦めで買った眼鏡で、何をみつければいいのかな。
予算は二万円だけど、世界がきちんと見えるなら、高いお金じゃないのかな。払うのは自分じゃないんだけど。
浮かれた幾久はそんな事を考えて、眼鏡屋の中をじっくり探し始めた。
右往左往・終わり