今日はあなたとさよならの日
三月を三日すぎたばかりの報国町は、まだ時折肌寒い風が吹く。
川沿いの桜並木はまだつぼみのままだ。
早く咲いた山桜の花びらが川を流れ、じきこの場所も一面桜が咲くだろう。
そんな中、一足先、春に旅立つものがあった。
日曜日である今日、報国院男子高等学校では卒業式が行われる。
古くからの伝統に倣い、入学式と同じく卒業式も講堂で行われる。
また、これも古くからの伝統と、人数や管理の都合上、報国院の半分を占める千鳥クラスは午前中に、そしてそれ以外の鳩、鷹、鳳クラスの生徒はまとめて午後の式だ。
本来、一年生は卒業式に参加する必要は全くない。
しかし三年を送りたいのであれば参加は可なので、当然幾久は参加を希望した。
在校生の席は限られており、前もって伝えておかなければならないが、鳳は全く問題なく座ることが出来た。
「しっかし、こういう所でも鳳って優遇されるんだな」
在校生の席に座り、児玉が言うと、隣の幾久も頷いた。
「びっくりした。まず鳳なんだね」
すると児玉の反対に座る御堀が言った。
「当たり前だろ。優遇されないと鳳の意味がない」
ふんと腕を組み、ふんぞりかえる姿は鳳然としている。
今日は卒業式なので当然皆、タイの色は同じ黒。
だが、小さくとも鳳のバッジは輝いている。
「なんか誉、王様みたいになってきた」
こそっと幾久が児玉に告げると児玉も頷く。
「判る。これが鳳様って言われる所以だよな」
「でもさ、やっぱ頑張ってる分優遇されるって嬉しくない?」
そう後ろからひょこっと首をのぞかせたのは、三人と同じく一年の三吉普だ。
「そりゃそうだけど、誉って御門来てからますます王様ぶりが酷いよ」
幾久が言うと、御堀が答えた。
「本領発揮って言って欲しいな」
にっこり微笑むと整った顔は一層美しいのだが、本音を言われると妙に怖い。
「あーヤダヤダ、瑞祥先輩に似てきた」
そう言って胸を抑える幾久に、普が言った。
「ぞういや送辞読むのって久坂先輩でしょ?」
「そう。トータルで星が多い方が読むからって」
幾久が答えると山田が驚く。
「スゲーな、ってことは久坂先輩が二年のトップって事か」
星、とは制服のジャケットの左肩袖につく、金色の校章の事だ。
報国院の校章である鶴の家紋は、遠目から眺めると花の模様にも見える。
それが金色で刺繍されているので、一見星の模様に見える。
星が縫い付けられるのは、入学時の首席にひとつ、一年修了時の学年トータルのトップになると更にもうひとつ、そして二年の終了時にもうひとつ。
そして特例として、三年の中期末までに学年トータルでトップの場合。
つまり、入学から四度、星が付くチャンスがあるが、制服に付けられるのは三つまで。
入学時に首席で、それからずっとトップを走れば、三年度の頭には左肩に三つ星が付く。
そして雪充は三年生になった時、すでに左肩に三つ、星が入っていた。
「結局雪ちゃん先輩、三年度もトップだったから雪ちゃん先輩以外に星持ってないんだって」
幾久が言うと、普の隣に座った山田が頷く。
「前原提督が愚痴こぼしてたもんな。恭王寮の提督に変わったし、桜柳祭もあるから絶対に三年度はチャンスがあるって狙ってたのに、結局一回も勝てなかったって」
「凄いなあ、雪ちゃん先輩」
例え一回くらい落としてしまったって、三年度は誰にも見えないし星が三つ以上に増える事はないのに。
「意地だよ。悔しいけど、カッコいい」
御堀が言うと、幾久と児玉は顔を見合わせて笑った。
「誉も目指してんだもんな、頑張れ」
「応援だけはする」
「当然。僕も僕以外に星はやらないから」
御堀が言うので、幾久が笑った。
「じゃあ、誉ってハル先輩より、瑞祥先輩より上になるんだ」
高杉は入学時に首席だったが、一年、二年のトータルではそれぞれ久坂の方が成績が上だった。
結果、久坂と高杉にはひとつずつ肩袖に星があったが、久坂は二年のトップになるので、次の春には二つ目が肩袖につくだろう。
しかし御堀は首席ですでに一つ、そして一年度も問答無用のトップ、ということは二つ目の星がこの春につく。
「二つだから同じかな。来年にならないと三つめはつかないし」
「えー、これ見よがしに威張って欲しかったのに」
「自分でやりな」
「むり」
幾久と御堀の会話に皆が苦笑していると、放送が入った。
『それでは、時間になりますので報国院の卒業式を行います』
思わず在校生や、来賓、保護者の背が伸びた。
『卒業生、入場』
そして幾久達は、今日卒業する三年生を拍手で出迎えた。
講堂に入って来た雪充は素晴らしく格好よく、幾久は見ほれた。
(でも、しっかり見ておかなくちゃ)
雪充と学校で会えるのも、多分、今日が最後になる。
勿論、制服姿も。
あこがれた先輩の姿を、絶対にこの目に焼き付ける。
一秒も見逃したりしないように。
幾久はぐっと唇を引き結び、前を見据えた。
卒業式は厳かに行われ、講堂の中はたくさんの人が入っているとは信じられないほど静かだった。
式の始まりの挨拶に始まり、国歌、校歌の斉唱。
来賓の言葉がいくつかあり、そして学院長である吉川学院長の話になった。
定番の普通の挨拶で、そこはちょっと拍子抜けした。
あの学院長の事だから、もっと変わった事を言うかと思っていたのだ。
後ろからこそっと山田が言った。
『案外、普通だな』
『わかる。意外な気がする』
幾久も前を見たまま頷くと、学院長が「最後に」と卒業生を見て言った。
「君たちはこの学院で得た事を、存分に発揮して欲しい。どこに出しても誉ある報国院の生徒として育てたつもりだ。習った全て、想い出も、なにもかも忘れても良い」
忘れないように、ではなく忘れても良い、という言葉に幾久は思わず顔を上げた。
吉川学院長は生徒を見据えてはっきり告げた。
「報国院での時間は、すでに君たちの血肉になっている。これからの君たちを支え、後押しするだろう。我々の伝えた事を、稚拙だと笑う日も来るだろう。だけどそれでいい。我々を踏み越えて、思い出す日も必要もない程、君たちの未来が輝くものであるように願います。報国院学院長、吉川百仁鶴」
学院長の言葉に、ぱちぱち、と拍手が起こった。
「学院長の言葉、かっこよかったね」
普が言うので、幾久は頷いた。
「うん。かっこよかった」
報国院を忘れるな、教えた事を覚えていろ、そんなありきたりの言葉ではなく。
(忘れて良い、すでに血肉になっているから、か)
それはきっと、相当の自信がなければ言えない言葉だろう。
幾久は改めて、この学校で良かった。そう思った。
そしてとうとう、在校生の送辞になった。
送辞を読むのは、二年の久坂瑞祥だ。
いつもだらっとしているのに、さすがに今日はかなりきちんとしていて、ただでさえ美形なのに一層美形に見える。
長い髪をある程度後ろでまとめているので長髪もそこまで気にならない。
『イッケメンだよなあ、久坂先輩』
はあ、とため息交じりに山田が言うと幾久も頷く。
『ホントホント。今朝なんか溶けてたのに』
卒業式で送辞を読まなければならない久坂は当然、早起きして卒業式に出なければならず、高杉に叩き起こされて渋々早起きしたのだ。
卒業式くらいちゃんとせえ、という高杉に今日は素直に従い、髪も整えて貰っていた。
とはいえ、もともとが整い過ぎているほど整っているのでだらしない髪でも逆にファッションにしか見えないのだが。
『いつもより数倍、かっこよくは見える』
制服姿にまとまった髪、堂々と前を見据えて、美しい響く声で朗々と送辞を読み上げている姿はまるで詩を紡いでいるようにすら見える。
同じことを来賓や保護者も思ったのだろう、時折ため息が漏れていた。
『声と顔がいいと、読んでる内容も滅茶苦茶よく聞こえるわ』
『イケメンずっる』
幾久と普がこそこそ話していると、一瞬久坂がこちらを見て、ふっと笑ったように見えた。
「―――――我々もまた、来年、先輩と同じ軌道を追いかけます。一足先に、美しい軌道をどうか描いておいて下さい。我々が、追いかけたくなるほどに。どのような軌道か、楽しみにしています。在校生代表、二年鳳、久坂瑞祥」
久坂の送辞に、ため息が漏れ、拍手が沸き上がった。
文句なしに美しい送辞だった。
「くやしーけど鳳な」
ふんと幾久が言うと、児玉から「お前も鳳だろ」と突っ込みが入った。
「おい、次雪ちゃん先輩だぞ」
児玉が言うと、幾久の背がぴっと伸びた。
卒業生代表、つまり雪充の答辞が読まれる。
卒業生、答辞、の放送に雪充が舞台に出てきた。
さっき久坂の居た中央の演説台へ立ち、雪充は前をまっすぐ見据えた。
そして講堂の中をぐるりと見渡した。
幾久は一瞬、目があった気がした。
雪充はいつものように、やさしげに微笑むと答辞を取り出した。
雪充の答辞も、久坂に負けず劣らず美しかった。
無駄な言葉はひとつもなく、かといって情緒に欠ける訳もなく。
入学してからの想い出、桜柳祭での事。
静かに語りかける言葉に、卒業生は思い出す事もあるのか、小さく肩を震わせている人も居た。
「報国院という巣箱で、我々は旅立つ翼を三年間、鍛えられました。これまではこの場所で羽ばたいていた結果を、これからとうとう示す事が出来るのです。どうか覚えておいてください。我々が羽ばたけるのは、報国院で培ったものがあるからこそ。後輩の言葉を借りるなら、軌道は先輩が描いたもの。我々は先輩の軌道を追い、君たちはきっと、我々をしのぐほど追いかけるだろう。それこそ、我々報国院のもっとも目指すもの」
雪充が、息を吸い込む。
小さく声が震えていた。
幾久はそれを見て、ぐっと両手を握りしめた。
「報国院の後輩たち、君たちのスクールライフが、この先も晴れやかなものでありますように。今日は、我々の巣立ちを、見守ってくれてありがとう。我々は、最も美しい軌道を描いて、翼を休めることなく、君たちを待つ。卒業生代表、三年鳳、桂 雪充」
君たちを待つ。
その言葉で、幾久はこらえきれず、涙をこぼした。
お別れだ、最後だ、そんな風に思っていた幾久の心を、雪充の言葉が全部砕いてくれた。
(そ、っか。ここで終わりじゃ、ないんだ)
報国院は卒業しても、雪充はその先へ向かう。
そして自分たち後輩を、待ってくれている。
急に晴れやかな気持ちになり、こぼれた涙を袖でぬぐった。




