夜に駆ける群青(1)
本当は一度だけ、君のかなしい目を見てしまったことがある。
群青色の薄暗い世界で、君は寂しそうに世界と同じ群青と赤のクラブバスをずっと見つめていた。
FWの才能って知ってるか?
一瞬の隙を見逃さずに敵のゴールにボールを叩き込む事。
多留人、お前才能あるよな、そういうの絶対に見逃さないんだから。
そう多留人を褒めてくれたコンビの幾久は、中学生になる前に、ユースを落とされた。
暑い八月の終わり、福岡の高校に進学して寮生活にも慣れた頃、多留人は東京に数日程、帰省していた。
離れて暮らし始めたせいか、両親の財布の紐は緩く、お年玉といってもいいくらいの小遣いをくれた。
うきうきと多留人はゲームや漫画を大きな本屋で買いあさっていた時だった。
「―――――ひょっとして、多留人君じゃないか?」
そう声をかけられ、多留人は驚いて顔を上げた。
「おじさん!」
多留人が驚くのも無理はない。
声をかけてきたのは、幾久の父だった。
幾久は子供のころから小学校を卒業するまで多留人とコンビを組んでユースに所属していた。
「お久しぶりです!」
ぺこっと頭を下げると、幾久の父は「久しぶりだね」と笑った。
幾久の父はサッカー好きで、昔はよくユースに様子を見に来てくれていたので多留人の家族とも面識がある。
「……あの、幾久は元気、っすか」
ずっとユースに残された多留人と違い、幾久は中学に上がる前にユースを落とされた。
暫くは一緒に遊ぶこともあったが、ここ二年近く連絡を取っていない。
だからそう尋ねると、幾久の父は、そうか、と気づいた風になった。
「ちょっと話したいことがあるんだ。一緒に冷たい飲み物でもどうかな?」
奢るよ、と言われて多留人は、ひょっとして幾久がいるのかな?と期待して幾久の父について行った。
近所の喫茶店に入り、冷たいコーヒーを奢って貰い、幾久の父に話を聞いて多留人は驚いた。
「幾久が、全寮制の高校に?」
「そう。私の母校なんだけどね。急にそっちに進路を変えて」
「……幾久、ドラマでいろいろあったみたいだって」
幾久と幾久の父の祖先である、乃木希典という明治時代の軍人がモデルになったドラマが去年放映されていた。
幾久はそんな事を全く気にするタイプではなかったのだが、知り合いからのまた聞きで、幾久が学校でドラマが原因でいじめられていると聞いた。
同じ学校なら、声をかけることもできただろうけれど、幾久が所属する学校は私学の進学校で、多留人と地区が全く違っていて、接点もろくになかった。
幾久の父は頷いた。
「そのせいもあってね。環境を変えたほうがいいだろうと思って私の母校を勧めたんだ」
(そういうの、何も連絡なかったな)
こっちも連絡はしていないのだからお互い様なのだが、自分が新しい環境に移ったように、幾久もまた、新しい生活に移っていたのが勝手だが寂しい。
「あと、幾久は電話番号もなにもかも変えてね。連絡取れなくて困っただろう」
多留人は幾久の父の言葉に首を横に振った。
「おととしくらいから、全然、連絡しなくって……幾久、塾、忙しいって言ってて」
「……そうか」
多留人の言葉に、幾久の父はそれ以上、なにも言わなかった。
しかし、多留人は顔を上げて幾久の父に言った。
「もし、幾久が嫌じゃなかったら、俺の電話番号と、ID、伝えて欲しいんです」
顔が見たい。
多留人は無性にそう思った。
サッカーがあんなに好きだったのに、ユースを離れてどうなるかと思ったのも一瞬、やっぱりそこまで鮮やかには見えなかった。
確かに上手くはなったし、うまくなっている自覚はあるけれど。
「幾久に、会いたい、です」
ぽつりと多留人が言うと、幾久の父はぱあっと笑顔になって言った。
「だったら、約束して会ったらいい!」
え、と多留人は驚く。
自分はもうすぐ寮に帰らないといけないし、幾久がどこにいるのかも知らないのに、会ったらいいなんて。
すると幾久の父は自分のスマートフォンを多留人に見せた。
「ここが君のいま居る福岡の学校だね」
多留人は頷く。
幾久の父が画面を移動して示した。
「幾久の学校は、ここ」
「えっ、ひょっとして、福岡に近いんスか?」
驚く多留人に幾久の父は「割とね」と笑った。
「新幹線でなら、新幹線で博多から小倉。幾久の学校はへき地だが、小倉までなら一時間かからない」
「え……マジ、っすか」
小倉は多留人の両親が好きな漫画の聖地があって、そこにはキャラクターの銅像もあり、行ってみたいと思っていたところだ。
「何なら小倉で待ち合わせをしたら良い。そしたらお互いに無理がないだろう?」
「確かに」
幾久の父はその場で多留人に、土日限定で安いチケットがあることなんかを教えてくれた。
なんだか急に幾久に近くなって、多留人はワクワクするが、ふと気づく。
「でも、会ってくれるかな。俺だけ、サッカー続けてて。幾久に申し訳ないっていうか」
しかも、偶然あった幾久の父にここまで頼って。
多留人がしゅんとしていると、幾久の父は言った。
「あの子がサッカーを辞めたのは、我々、親のせいでもあるんだ」
多留人はじっと幾久の父を見つめた。
「幾久の事は私もクラブチームから相談をうけていてね。だけど、妻が、幾久の母親が幾久にサッカーを続けさせるのを嫌がったんだ」
「―――――え、」
確かに幾久の母はいつも不機嫌で、最低限のやりとりしかしていなかったが。
「なんとか続けさせてやりたがったが、無理に続けさせても幾久の環境に良くないと思ってね」
クラブの方から、幾久が才能がない、と言われたのは知っていると幾久の父は言った。
「じゃあ、あいつ、辞めなくてもいいのに」
母親のせいで。あるいは塾のせいで。もしくは、あいまいな才能の定義なんかで。
「いや、やはりそう甘くはないよ。幾久はあのままサッカーを続けていても、君と同じ場所へは行けなかっただろう」
怜悧な幾久の父はそう言った。でも多分それは本当なのだろう。
「―――――でも、俺は一緒に行きたかった」
幾久と。今は心からそう思う。
だけど一緒には行けないのだ。それも今は判っている。
幾久の父は言った。
「幾久へは私から伝えておくよ。けれど偶然会ったのではなく、君から連絡があった、と言っておく」
「なんで、っすか」
「そう言えば、あの子は必ず君に連絡するよ。君の事が本当に、好きだからね」
幾久の父にそう言われ、多留人は胸が苦しくなった。
「多留人君がどんなにサッカーが上手で、パスを渡す時どんなに自分が嬉しいか、幾久は私によく話してくれていた」
だから、と幾久の父は続けた。
「君が『会いたい』と思っていると聞けば、必ず喜んで連絡するよ」
本当かな。そうならいいな。
もしそうなら、沢山話したいことがある。
幾久の父と別れ、多留人は自宅へと戻った。
部屋に入れば、壁にはあこがれの選手のポスター、ユースの頃のユニフォーム、そして、幾久とお揃いで買った、日本代表のユニフォーム。
多留人はユニフォームをじっと見つめた。
子供の頃、幾久と多留人で、大好きな選手の番号を身に付けた。
代表の試合を見に行って興奮して、いつか俺たち、自分の番号をつけたユニフォーム着てこの試合会場に立つんだぜ、その時は俺が15番、幾久、お前はやっぱ19番だぞ、そう多留人は言って、幾久も「うん!」と頷いた。
落ちるなよ、そうお互いに頷いて笑った。
最高に楽しくて最高に面白くて幸せだった。
幸せだった。
―――――いまは、そうじゃない。
もう小さくなったユニフォームは、多留人の体には合わない。
福岡の二部リーグのスカウトを受け、そこと連携している全寮制のサッカーが強い高校へ入学した。
多留人は一年生でありながら、すでにレギュラーに選ばれているし、プロのチームに登録も済んでいる。
そして、そのうちアンダーではあるが、日本代表にも選ばれる可能性があるだろうとも。
お前スゲーよな、才能まじ半端ねーよ。
そうチームメイトは褒めてくれるけれど。
才能という言葉が多留人は大嫌いだ。
だけど幾久に言われるのはそこまで嫌じゃなかった。
『なあ多留人、FWの才能って知ってる?一瞬の隙を見逃さずに敵のゴールにボールを叩き込む事だってさ。だったら多留人、お前才能あるよな、そういうの絶対に見逃さないんだから』
オレが保証するもんな!そう言って笑う幾久が、多留人にとってどれほど誇らしかっただろう。
どこまでも幾久と一緒に行くんだと思っていた夢はあっさり砕かれた。
乃木にはお前みたいな才能がないから。
その一言だけで。
だから―――――才能なんか大嫌いだ。
あの頃、幾久がユースを落とされて、中学生になった頃。
練習場へ向かうクラブバスは、いつも多留人を拾った後、幾久を途中で拾って練習場へ向かっていた。
多留人と幾久はいつも一緒で、ずっとおしゃべりしていた。
これまでのように、練習場へ向かうクラブバスに乗っていた多留人はため息をついた。
これまでなら、このあたりでバスが止まり、幾久が乗り込んでくる。
だけどもう幾久は、クラブバスには乗れないのだ。
多留人は何の気なしに、ふと外を見た。
そして、気づいてしまった。
曲がり角をゆるくカーブを描いて回る、曇ったくらいガラスの向こう、外からクラブバスをじっと見つめている幾久に。
(―――――幾久!)
一瞬、バスの窓から見えた幾久は、塾に向かう途中なのか、大きなカバンを持っていた。
そして手には、サッカーボール。
幾久はクラブバスをじっと見つめていて、寂し気に見送り、小さく『さよなら』と呟いた。
多留人だから気づいてしまった。
なぜなら、ほんの一瞬の隙を絶対に見逃すことはないから。
どうして親友の、一番見られたくないだろう部分を、よりによって自分に見せたりするんだよ。
なんでだよ、俺が、幾久が、なにをやったっていうんだよ。
サッカー好きだっただけだろ。
なんで一番見たくない一瞬を、見せたりするんだよ。
多留人の才能が一瞬の隙を見逃さないというなら、神様はなんて意地悪なんだ。
親友の辛い部分を見逃さないのが才能だっていうのかよ。
だったら、こんな才能、なんになるんだよ。
結局お前を追い出した場所で俺は頑張らないといけないのかよ。
でもきっと、答えは「そう」でしかないんだろう。
あんなに楽しかったサッカーが少しずつ楽しくなくなっていった。
だから、全然気になんかしていないふりをして、多留人は幾久をサッカーに誘った。
「幾久!フットサルやろーぜ!サッカーでもいいけど」
「うん!」
フットサルや、ストリートで遊ぶ分には幾久は楽しそうについてきたし、実際楽しそうだった。
多留人も勿論、楽しかった。
わざとらしくても、塾へ向かう前の幾久を誘うと、時間まではと付き合ってくれた。
最初はこれまで通り楽しかった。
二人でずっとやってたみたいに、心からサッカーもフットサルも楽しめた。
だけど、見たくない一瞬の幾久の隙を、多留人はどうしても見つけてしまう。
多留人に気づかれまいと意識しているだろう幾久だって一瞬くらいは本音が出る。
悲しい、悔しい、本当はずっと一緒にサッカーやりたいのに。
そんな葛藤の一瞬を誤魔化して幾久はいつも多留人の前では笑ってくれていた。
誤魔化すなよ、そう言ったってきっと幾久が苦しいだけだと知っている多留人は、幾久の誤魔化した笑顔に、騙されたふりをした。
一瞬だけでもあの頃みたいに、自由にサッカーをしていたかった。
だから幾久の心に蓄積した、悲しみに気づくことが出来なかった。
やがて、幾久はいつしかフットサル場に来なくなった。
なんでだよ、忙しいのか、と笑いながら尋ねると、そうなんだ、塾の宿題凄くってさ、と笑っていた。
そして連絡もなくなった。
やけにあっさりしたものだった。
あんなに笑って過ごしていたのに、本当はちっとも笑っていなかった罰があたってしまったのかもしれない。
でも嘘をつき続けても、幾久と一緒に遊びたかったんだ。