この人ごみをかきわけて、早く来やがれジュリエット
さて庭園に入った幾久は、早速どこに行けばいいか迷っていた。
(うーん、一応案内のまま行ってみるか?)
全く来たこともない場所だし、どのくらいの広さかも判らない。
さっきチケットを購入した時に貰った案内図を広げてみるが、やたら広い、ということは判った。
「散歩気分で歩くかあ」
人もまばらだし、丁度いいか、と幾久は庭園内を歩き始めた。
季節が冬のせいか、木々が枯れていて寂し気だが、御門寮も似たようなものだ。
(花が咲いてねーと、何の木か判んないなあ)
観察しながら小走りであちこち見ても、そう見栄えのいい場所もない。
御門寮の広い版といえばそうだし、なんだか山のふもとを普通に歩いている気になる。
(誉、ホントにいんのかなあ)
宇佐美に探すように言われたけれど、一体この広い敷地内のどこに居るのだろう。
きょろきょろとしながら幾久は庭園内を歩き続けた。
路地を抜け、広場へ出た。
サッカーが出来そうなくらいの広場は、春になれば見事な桜の森になるのだが、当然幾久は知らず、木ばっかり、という印象しかない。
「池ってあるけど、ちっさい湖じゃん」
御門寮にも池はあり、それもけっこうな大きさだが、ここにあるのもかなり大きい。
さすが毛利の殿様の邸宅といった所なのか。
池をぐるりと回るのもかなりの距離がある。
散歩にはいいかもしれないが、気分が晴れるかといえばそこまででもなく、早速幾久は飽きてきた。
「ほーまれーは、どーこーだー」
池と言うより湖のような場所の脇を、誰もいないのを良いことに、そう歌いながら歩いて池をぐるりと回り、のんびりと歩き石畳をテンポよく、たん、たん、たん、と降りた所だった。
池をまたぐアーチ状の石橋の傍に、まるで映画のワンシーンのように、着物姿の美男美女が立っていた。
やった、と幾久は喜び、声を上げた。
「誉!」
突然の声にびっくりしたふたりは振り返り、そして羽織袴姿の男性、つまりは御堀はびっくりして、一瞬声を失っていた。
幾久は小走りで駆け寄り、へへ、と笑って言った。
「みーつっけた!」
見合いの為に毛利邸へ移動した御堀達は、本館と呼ばれる邸宅に上がり、応接室で休んでいた所だった。
まだ部屋のセッティングに時間がかかるのかとうんざりしていた御堀だったが、突然、係の人らしい人が御堀の父を呼んだ。
突然なんだ、と不機嫌な表情になった父だったが、係の人に用件を伝えられると首を傾げた。
やがて、複雑な表情をしてもう一度戻ってくると、御堀と小早川に告げたのは、『二人とも、しばらく外に出ていなさい』という命令だった。
御堀には訳が分からなかったが、どうやら父にとって面倒が起きているという事は判った。
ざわざわしはじめた大人たちの中に紛れるのも嫌で、邸宅を出て庭に逃げ出す御堀に同調するように、小早川もついて出た。
幸い、天候は暖かく、そこまで寒いと感じる事もない。
大人にこれ以上巻き込まれたくなくて、せめて邸宅から見えにくい場所へ、逃げるように庭へと歩き出す。
この庭は木々が多く、身を隠す場所はいくらでもある。
見つかりたくない、逃げ出したい。
感情のまま、速足になる御堀に、同じように小早川がついてくる。
逃げ出したい気持ちは同じでも、他人を思いやる余裕を全く失っている御堀はついてくる小早川に苛立ち、立ち止まった。
ついてくるな。
そう言おうと小早川を見ると、言葉を出す前に小早川の表情は固まっていて、もう怒鳴られた後のようになっていた。
そこまで表情に出てしまったのか、御堀がそう思うも、謝る気持ちにもなれずただ立ち止まっていたその時だった。
たん、という軽やかな石畳を叩く足音が響いた。
そして聞こえたのは、決してここで聞こえるはずのない声だった。
「誉!」
目の前に、まるで魔法のように現れたのは、いま長州市に居るはずの幾久の姿だった。
どうして。なんでここに。
驚きのあまり固まる御堀は、いま自分が夢でも見ているのかと思わず目を擦ったほどだ。
幾久は得意げな顔で、御堀にいばって言った。
「みーつけた!」
そこでやっと、御堀は目の前の幾久が、本当に幾久本人だと気づき、驚きを隠さず言った。
「幾……なんでこんな所に?」
すると幾久は、腕を組んでうーんと考えて、いいアイディアだ、みたいに目を輝かせて言った。
「オレというものがありながら!」
御堀は呆れて幾久に言った。
「幾、僕がお見合いするって言ってた時、そんな事言ってなかったろ」
「諸事情により」
「どーいう事情」
呆れたまま御堀が言うと、幾久はもう一度少し考えて、ちょっと首をかしげて言った。
「色々あるんだけどさ。でもそれよりなんか、気になって」
ざわっと風の音がしたのは、ただ単に、風が木々を揺らしただけだ。
その証拠に、幾久の髪がゆるくなびいている。
それなのに自分の心の中の音がまるで幾久に届いてしまったのではないかと、御堀は思わず手を握りしめた。
幾久は御堀を笑顔で見つめたまま言った。
「誉がなんか、ひょっとしたら傷ついてんじゃないかなって思ってさ」
びっくりした表情のまま御堀は固まっていて、黙ったままなので幾久はきまり悪く、頬を指でかいた。
「助けに来たぞ、かな?」
幾久の言葉に、胸が締め付けられるようだった。
さっきまでこんなに苦しくはなかったのに、幾久のせいで突然溺れたみたいに息ができない。
「……なにバカ言ってんだよ」
御堀は言葉を無理に紡ぐが、幾久は気にせず続けて言った。
「うん、オレもそう思ったんだけどさ。でも判った。オレ来てやっぱ正解だった」
「なにが」
幾久が来た瞬間から苦しさが増した。
なんでこんな場所にいきなり来て、なにもできないくせに助けに来たとか、ふざけてる。
そう御堀の心の中は叫ぶのに、その言葉がどうして浮かぶのか判らない。
幾久はほっとした表情で御堀に告げた。
「誉、やっぱりめっちゃ傷ついてんじゃん。オレ来て良かった。顔みたらやっぱ判るもんだな」
そう言って幾久がにこっと笑った。
駄目だ。
ここで幾久に近づいては。
守ってきた何か、耐えてきたものや、これまでの御堀の信じていた強さみたいなものが崩れてしまう。
そう御堀は思っているのに、足はすでに土を蹴って、幾久に向かって抱き着いていた。
幾久に抱き着き、しがみつくと途端、体中から力が抜けたようになる。
ぎゅうっと抱きしめると幾久が背中を軽く叩いた。
幾久の肩に顔をうずめると、幾久が頭をこつんとくっつけてくる。
「ホラな、無理するからだぞ」
幾久の言葉に御堀はただ頷く。
そうだ、と御堀はやっと気づく。
(僕はずっと、無理を)
我慢して無理して、ただ通り過ぎるのを待っていた。
そうすればこれまで、波は穏やかに通り過ぎて行ったから。
だけどどうしても我慢できなかった。
きっと自分でも気づかない間にもうとっくに限界も通り過ぎていた。
気づいたのは、幾久が来てくれたからだ。
(苦しいのは)
御堀は思う。
幾久が来て苦しいのは、息ができなくなったからじゃない。
まるで生まれた子供のように、肺に空気が入ったからだ。
これまでずっと肺の中を満たしていた水が出て、空気を吸い込んでしまったからだ。
苦しいのはとっくに、御堀は呼吸を覚えてしまったからだ。
幾久の傍でなら思い切り呼吸が出来ることに。
これまでずっと、穏やかで温かい場所にいたのは、まるでお腹の中と同じだからだ。
親の保護のもと、安全に生きていられたけれど、だから狭く苦しかった。
いつだって外に出たかった。
自分だけで自分の力を試したかった。
肩書のない世界で自分を評価されたかった。
幾久の肩に顔をうずめ、思い切り強く抱きしめた。
きっと痛いくらいだろうに、幾久は何も言わず御堀を強く抱きしめてくれる。
幾久の呼吸が、動く心臓の音が、御堀の体に響く。
すう、と思い切り息を吸った。
御堀に刺さっていたひどく刺々しく痛いものが、その瞬間消えていく。
鳥のさえずりが初めて聞こえた。
そんなはずはないのに、ここは木々だらけで、いくらでも鳥がいるというのに、いまやっと御堀の耳に届いたのだ。
ざわめく風の音は、不穏で気味の悪い音でしかなかった。
今は違う。
幾久の髪をいたずらに揺らす、ただの温かい冬の風だ。
これまでずっと息を止めていたかのように、肺の中につめたい空気が流れてくる。
やっと御堀は気づいた。
生まれた子供が、母親の腹に戻れないみたいに、呼吸を覚えてしまった御堀は、もう戻れない。
(僕はここでしか)
息ができない。
もう幾久の傍でしか。
毛利邸の玄関に立ち、にこやかに笑う青年を、御堀の父は見誤ってしまった。
報国院の関係者が急ぎの用事で訪ねてきたと聞き、玄関へ向かうとそこに立っていたのは若者らしいモッズコートに身を包んでいたから、その時にすでに見下していた。
玄関先で決してコートを脱がず、どこか軽率な雰囲気を出して笑う宇佐美を最初に見誤ったのは、御堀と小早川の仲人を狙っていた夫婦だった。
いやあお若い方ですなあ、わざわざ正月だというのにこんな所まで?
報国院は人手不足ですかな?
それともまさか、そのお年で誉坊ちゃまの同級生とか?
まあ、あはは、オホホ、と爆笑する夫婦に御堀は下品さに顔をしかめても、結局思ったのは似たような事だった。
宇佐美はそんな事は想定内だと言わんばかりに、とても、むしろ機嫌は良さそうに笑顔で言った。
「報国院を代表して参りましたのに、まさかこのような下品極まりない無礼を受けるとは。よろしい、でしたらお話は必要ありません。私の名刺だけお渡ししておきます。御堀誉君の退学手続きは正月明けになります」
退学、の言葉に流石に御堀の父は驚いた。
なぜそんな権利がこんな若造に。
そう思ったが口には出さず、表情を伺った。
宇佐美はコートを脱ぎ、手元に持った。
しまった、と御堀の父が思った時には遅かった。
一目で判る仕立ての良いスーツは、産地は英国、生地は世界最古のフランスの生地商社製で、織りから見ても高級品だ。
仕立てはイタリア系のハイブランド、細身のデザインではあるが体格のいい男に丁度良く誂えてある。
カフスボタン、ネクタイのブランド、時計のメーカー。
外見で相手を計るのは、取引の時なら当たり前だ。
そしてその宇佐美の外見は、どう見ても、若造にしては全く手に負えないレベルの衣装でしかないはずだった。
所が、よく似合っている。
こんなスーツに身を固めるタイプの男が、コートだけ砕けた印象のものを着るなんてありえない。
しかも、本来ならマナー違反となる事は重々承知の上で、わざとモッズコートを着たまま御堀を訪ねて反応を見た。
―――――機嫌よく笑うはずだ。
宇佐美の垂らしたあまりにもおおきな釣り針に、笑いながら自ら仲人夫婦が食いついたのだから。