東京から来た眼鏡君
「わしだって、その程度で退学だったら何回も退学じゃ」
「え?ハル先輩も実はヤンチャだったんすか?」
「……一瞬だけな」
一瞬ってどのくらいだろうと思ったが、高杉が言う。
「一年、あったかないか、くらいじゃ。別にバイク乗ったり酒飲んだりはしてないがの。あと煙草も喘息で断念した」
「やろうとしたんすか」
「やろうとしたけど、むなしくてやめた」
お前はすんなよ、と言われてしないっすよ、と答えた。
「本当に興味があってするなら、見ない振りしてやるけど自分を痛める行為ならやめちょけ。わざわざそんなんせんでも、他のことでなんぼでも、嫌でも痛い目は見る」
高杉の言葉が妙に重かった。
なぜかは判らなかったけれど。
二人きりで黙っていると、風がざあっと音を立てた。
風の音に顔を上げると、それは木々が擦れる音だった。
強い風が吹くと桜が散る。綺麗だなあ、と思う。
東京に住んでいる頃、桜はわざわざ見に行くもので、こんな風に風景に溶け込んでいるものではなかった。
この前行った寺も、この神社も、通学路にある桜も、父もきっと見たのだろう。
(もし、ここにずっと通ったら、あと二回は桜が見れるのか)
そう思って、たったの二回か、とも思った。
こんなに綺麗な場所なのに、たった三ヶ月でお別れなんてつまらないなあ。
そしてふと思ったのが、なぜこんなにもここから転校したいのか、という事だ。
(いや、大学はいい所に行くべきだし)
それは判っている。
だけど、自分にはそんなに入りたい大学なんかあっただろうか。
一瞬、目の前が暗くなる。
(そ……だよな。オレ、なんでこんな、転校に拘ってんの?大学だって、別に、そんな)
『幾久は、いい大学に入れるべきなんです!』
フラッシュバックしたのは、母親の声だった。
ヒステリックに父に叫んでいた。
そうだ、別に幾久がいい大学を望んでいたわけじゃない。
母だ。
小学生の頃からお受験に必死で、大学は絶対に東大なのよね、とか言っていた。
望みが高いのはいいけど、さすがに東大は冗談だろうと半分は思っていたのに、幾久が報国院に進学を決めたとき、母は泣きながら喚いていた。
その姿に幾久は引いた。
『しっかりとこの三ヶ月の間に考えなさい』
父が幾久の入学式に言った言葉が思い出された。
『どうしたいのか、自分は本当はどういう気持ちなのか―――――』
初めて気付いて、幾久は手が震えた。
あんなにも母親が嫌で逃げたかったのに、幾久が選んでいたのは、母親の望む人生だったんじゃないのか。
父はそれに気付いていて、幾久を報国院へ逃がしたのではないのか。
「幾久?」
「……すみません」
唐突に気分が悪くなり、幾久は口をつぐんだ。
「水、持ってきてやる。ちょっと待ってろ」
高杉が慌てて井戸へ近づく。この神社の井戸は整備されていて、誰でも綺麗な水が持って帰れるようになっている。
水道の蛇口を捻り、持っていたボトルに水を入れて高杉が渡してくれる。
礼を言って受け取り水を飲むと、少し落ちついた。
「大丈夫か」
頷くが、顔色が悪いのか高杉ははらはらしている。
「すまん、わしがいろいろ言ったせいか」
「イエ、多分、関係ないっす……」
どっと一気に疲れた気がして、幾久は肩を落す。
本当に高杉は関係ない。
ただ、嫌いな母親に支配されていたような事に気が付いて、気分が悪くなっただけだ。
そう説明したいのに、吐きそうになって言えない。
高杉はジャージを脱いで丸めると、枕をつくり幾久を横に寝せた。
「ちょっと待っちょけ!」
言うが早いか、境内を走っていく。
どこに行くんだろうと思っていると、暫くしてすぐに戻って来た。
一緒に居るのは、幾久が入試の時に試験官をやっていた教師だ。
相変わらず歩き煙草の上に、あのときにはなかった無精ひげまで生やしている。
「幾久、車回してもらったからな。歩けるか?」
頷こうとしたら、突然教師にお姫様抱っこされた。
ぷっと煙草を吐き捨て、それを高杉が拾い、教師のポケットから携帯灰皿を出してその中に入れた。
「大人しくしとけ。寮まで車で送ってやる」
抱っこされるほどではなかったが、気分が悪いのは事実なので素直に抱かれて、車の中に押し込められた。
車はスポーツタイプのツーシーターだったので、運転する教師と幾久の二人しか乗れず、高杉は歩いて帰るとの事だった。
「スミマセン……」
「まーしょうがねーわな、コハルの頼みとあっちゃーなー。普段はこんなんしねーからな、甘えんなよ」
「マジ、スンマセン……次から気ィつけます……」
ぐったりとなっている幾久に、教師は苦笑する。
「ほんと冗談のきかん奴だな。真面目すぎるわ」
冗談だ、気にするな、と教師は言う。
「送るくらい、ちゃっちゃーだし、コハルが俺を頼るのも久々だしなー」
「コハル、って誰っすか」
少し気分がよくなり、そう訪ねると教師が答えた。
「高杉の事だよ。高杉呼春、ってコハル、とも読めるだろ。あいつ、子供の頃はコハルちゃんって呼ばれてたんだよ。本人すっげえ嫌がるけどな」
確かに『呼ぶ』は『呼』とも読む。
しかしコハルちゃんなんて行ったらすぐに蹴っ飛ばされそうだ。
「じゃ、先生、子供の頃からハル先輩の事知ってんですか」
「知ってるもなにも、俺が先生やってんのあいつのせいだよ。あいつがいなかったらこんなクッソ面倒な仕事なんか絶対にしてねーわ。ガキはうるせーし面倒くせーし」
すごい言いっぷりだな、と逆に感心する。
「先生って、千鳥でしたっけ」
「おーよ。千鳥の担任で報国の寮ももっとるわ」
それでこんなに乱暴なのかな、と思っていると教師が言った。
「お前、実際御門どうよ。久坂から苛められてないか?」
いきなり久坂の事を言われてびっくりしたが、高杉を幼い頃から知っているなら当然久坂も知っているのだろう。
「あー、えーと、苛められては、ないっす、多分」
思い切りからかわれはしたが。
「じゃ、苛められずになにされた?」
「なんかされたのは前提なんすね」
「お前調子よくなったな。そうそう、久坂、お前になんかしたんだろ?」
しつこい教師に、うーん、と幾久は答える。
「からかわれは、したっす」
「どんな」
「どんなって……」
話してもいいもんだろうか、と考えていると、教師が『言わないとわかってんだろうな』みたいな顔で覗き込んでくる。
「先生、コエーっす」
「おう、脅してんだもんな。ほらとっとと言え」
御門寮の前に到着したのに、路肩に車を止めて教師が幾久に迫ってくる。
「言えって、たいしたことないっすよ。ちょっとオレが勘違いして、それをネタに久坂先輩がからかったくらいで」
「だから、なにをどう勘違いしたんだよ」
しつこいので幾久は、以前あった事を説明した。
夜に寝ている時に久坂が高杉にキスしているように見えて、それをホモだと勘違いした幾久を久坂がからかって後から高杉にばれて二人が喧嘩になった事。
実はキスしていたわけではなく、高杉が『眠って』いるかどうか心配になった久坂が夜中に心配で目を覚まし、呼吸を確認しているだけだということ。
それを説明すると、教師はむっつりと黙り込んだ。
「……先生?」
「やっぱそう簡単にいかねーよなぁ……」
一人で勝手に納得しているっぽい様子に、どうしたのかと幾久は思う。
「あの、先生?」
「いや、うん判った。あ、俺がこの事知ってるってコハルにも久坂にも、とにかく誰にも言うなよ。言、う、な、よ?」
「……わかりました」
なんで一々すごむんだろうこの先生、と思ったが、幾久は素直に頷く。
「よーし。じゃ、降りろ」
「ハイ。ありがとうございました」
気分が悪いのは大分よくなっていたが、それでもちょっと熱っぽくなっている気がする。送ってくれて助かった。
「礼はコハルに言えよ。ほんっとあいつはお前にはお節介なんだからな」
「あの」
「なんだよ」
幾久はずっと、疑問に思っていた事を教師に尋ねた。
「あの、ハル先輩がオレに甘いってガタ先輩とかが言うんです。それって、マジですか?」
教師は頷く。
「うん、っていうかお前にはお節介焼きすぎだな。ま、そうなるだろうと思ってたけど、予想以上だった」
「ハル先輩って、誰にでもあんなんですか?」
幾久の言葉に教師がぶっと噴出す。
「ないない、アイツはよっぽどの身内にはあめーけど、そんなん一握りしかいねーよ。お前がそのレベルで世話やかれるほうがおかしーんだって。ま、山縣のいう事は正しいわな」
「……なんで、なんすかね」
「なに。俺がそれ知ってるっての?」
「ひょっとしたら」
そう言うと、教師はニヤニヤしながら幾久を見た。
「へー、真面目馬鹿かと思ったけど、馬鹿ではねーのな」
一々、失礼な人だと思うが教師なので黙っている。
それにそれより、どうして高杉がこんなにも幾久に構うのかが知りたかった。
「そんなん、理由はたったひとつだよ。オメーが『東京から来た眼鏡君』だからだ。あ、これも言うなよ。言ったら退学にさせっかんな」
よく判らない理由を尋ねる前に、教師は窓を閉めて、さっさと車を出してしまった。
一人残された幾久は、意味不明な言葉に頭を悩ませる事になった。
「東京から来た眼鏡君……?一体、なんの事だ?」
訳が判らないが、なにか考えると頭がずきずきと痛み、気分が悪いまま、御門寮へ戻る事にした。
真っ青な顔の幾久を心配して、吉田と久坂が布団を敷いて幾久を寝かした所で高杉が帰ってきた。
夕方になれば、高杉が昔から通っている医者が往診に来てくれるという。
「医者なんか、よかったのに」
布団の中で幾久は言うが、吉田が首を振った。
「いっくんの為だけじゃないよ。もし変な病気だったら寮の全員が食らっちゃうだろ。だからちゃんと対策なの。大人しく診察されときな」
そっか、そういう気遣いもいるんだ、と幾久は納得した。共同生活って大変なんだなあ。
もし受験の日とか、そんな時に自分が持って帰ったインフルとかで先輩が受験に失敗したら、と考えるとぞっとする。
そういう事を考えないと、共同生活はできないのだろう。
(そうか。ちゃんと、そういうの、考えるのって大事だよな)
山縣の事を嫌いだといいながら家族だと言った高杉の言葉の意味と重みが判る。
共同生活っていうのは自分だけがなにかを強いられるわけじゃなく、他人も自分のせいで削られるんだ。
「気をつけまふ……」
あったかい布団にぬくぬくと包まって、心配する先輩達の顔を見ながら言うと、なんだかとても幸せな気分だった。吐きそうな気持ちは治まった代わりに、頭痛はとても酷かったけれど。
土曜日は本当は休みなのに、心配した吉田が寮母の麗子さんを呼んだ。あらまあ大変、と麗子さんが夕食を作ってくれることになった。
夕食は食べやすいお粥にしましょうね、と気を使ってくれて、ガタ先輩はとっときのジュースをよこしてくれた。
医者が来て、診察をした後、ぐうぐう眠る幾久の様子を見て暫く考え込んだ後、その医者が言った。
「多分、ストレスじゃないのか。免疫が弱っとるんじゃろう。東京から来たんなら環境が違うから余計に身体がびっくりしとるじゃろうし。日照時間も違うからの」
「日照時間?時差?」
驚く吉田に、山縣が言う。
「あ、そういや東京って日が落ちるの早いよな。明けるのもはえーし」
そういうこと、と医師が頷く。
「一日じゃどうこうはわからんし、一般的に言う風邪なら食って寝れば一週間で治る。頭痛が酷いなら痛み止めだけ置いちょく。月曜日になっても悪かったらまた呼べ」
ま、大丈夫じゃろうけど、と医師が言う。
「疲れじゃ疲れ。寝れば治る。若いんじゃしの」
「そっか、びっくりしたよ。いっくんずっと元気だったから」
大した事がないと聞いて、二年生は皆ほっとしていたが、山縣が言った。
「どうせ知恵熱だろ。ほっときゃ治るって」
その言葉に全員が噴出した。
具合が悪いのにうるさいなあ、と幾久は思ったが、お粥でおなかは一杯だし、今日は沢山考える事があったので疲れた、と思いながら夢の中へ沈んで行った。
一陽来復・終わり




