楽になって勝ち逃げしよう。そう思っていたのに。
黙った御堀に、幾久が静かに言った。
「―――――オレの話だろ」
「……そうだね」
不満そうではあった。
だが、言葉をとめた御堀を幾久は軽く抱きしめ、体を軽く叩いた。
サッカーのとき、そうするように。
黙った御堀の腕を軽く幾久が叩き、前へ出る。
野山の前に幾久が立ち、そしてまっすぐに野山を見据えた。
「お前の言い分はわかったし、オレだってお前なんか嫌いだよ。謝られたって、許すつもりもないし、忘れるつもりもない」
はっきりと幾久に言われると、だろうな、としか野山は思わなかった。
幾久は続けて言った。
「あの舞台は、本当にいろんな人が沢山助けてくれたから。だからオレは許さない」
そうだろう、だからわざわざ玉木は野山と岩倉の目の前に、あれだけの人を用意したのだ。
結局、野山にはそのとき、何のことだか全く判らなかったが。
そして今だって、わかっているとは言いがたいが。
本当は幾久に謝罪する意思なんかないことを、多分みんな判っている。
自分が楽になる為の謝罪で、そのうち野山が退学になったのを知ったら、ああだからか、そう思うだろう。
(なんか、だっせーなあ)
楽になるために一番上手な方法を選んでみたはずだったのに、ちっとも楽じゃないし、むしろもうやった事を後悔している。
ボールを投げたことではなく、こうして頭を下げたことだ。
幾久は野山に言った。
「けど、お前の謝罪はわかった、受け止めはする。受け入れはしないけど」
幾久の言葉は、多分最大の譲歩だ。
とりあえず、野山の希望は通った。
勝ちのはずだ。
だけど、ちっとも勝った気なんかしなかった。
それでも、表立って謝罪したという面目を保つために、野山は幾久に頭を下げた。
これでもう、こいつらの顔を見なくて済むのだ。
もういい。終わりだ。
「……サンキュ」
そう言って野山が去ろうとしたその時だった。
山田が野山に声をかけた。
「周布先輩にも謝っとけよ。お前らの塗った土塀、夜中に塗りなおしてるの周布先輩なんだからな」
(―――――え?)
―――――不意だった
本当にまさか、そんな事をしているなんて全く知らなかったし思いもしなかった。
どうせお前らの嘘だろ、脅しやがって。
そう言いたくても、確かに自分たちの土塀の塗り方はいい加減だし、一生懸命やっても下手だし、でも翌日には綺麗に乾いていたから、乾けばそうなるものとばかり。
そういえば、周布の姿を最近、夜に見なかったのは。
野山ははっとして山田を振り返った。
やっぱり知らなかったのか、呆れた。
そんな顔を、山田も三吉も、品川も、していた。
放課後になり、いつものように野山と岩倉は周布のところへ行ったのだが、周布の姿が見えない。
「周布先輩は」
野山が伝築の先輩に尋ねると、二年の先輩は言った。
「たまきんに呼ばれてるから、遅れるってさ」
「そうっすか」
これはいよいよ、退学のお知らせでもあるのか。野山が思っていると、岩倉が言った。
「なあ、やっぱ退学になんのかな、俺ら」
「さあな」
そんなのは判らない。自分たちが退学かどうかなんて、野山には判るはずもない。
ただ、決まってしまったなら、嫌と言っても逃げようもないのだろう。
「じゃあ、周布先輩が来るまでなにしてたらいいですか」
野山が尋ねると、二年の先輩は言った。
「さぼってれば?お前ら好きだろ、さぼんの」
そう言って二年たちがくすくす笑っている。
すると岩倉がいやな顔で言い返した。
「なんだよ、後輩にいじめかよ」
二年が返した。
「だってそんくらい言いたくなるだろ。お前らの仕事って全然仕事になってねえしさ。邪魔なんだよ」
邪魔。
はっきりとそう言われたのは初めてだ。
岩倉は言い返した。
「おれらは周布先輩に無理やり捕まってんだけど」
二年が再び言い返した。
「だってまさか、これだけ使い物になんねーとは思わなかったもんなあ。ヒデーよお前ら。小学生の手伝いのほうがもっとマシなことするぜ」
なるほど、これが本音か。野山は納得した。
周布が野山と岩倉にかかりきりになっているのを、他の伝築の生徒が面白くなさそうに見ているのは知っていた。
それでも黙っているので、統率が取れているのかと思っていたが、単純に周布の前では我慢していただけらしい。
「だったらやらせんなよ!お前もそう思うだろ?!なあ!」
岩倉が野山に同意を求め、振りかえる。
ニヤニヤと二年生連中がこちらの様子を見ているのは判った。
(―――――これが、児玉の見た光景か)
なるほど、児玉が相手にしないわけだ、と野山は今更気づいた。
「おい?!」
岩倉が言うも、野山は首を横に振った。
「周布先輩がくるまで、待ってればいいだけだろ。座ってろよ」
そう言って野山は腰を下ろす。二年も岩倉も、おや、という風に驚いて野山を見た。
「さぼってりゃいいって言われてんだから、そうすりゃいい」
体中からどっと力が抜ける。
(―――――同じじゃねえか)
バンドTシャツを児玉が盗んだと言いがかりをつけ、実際は自分たちが隠した事がバレ、児玉をあおるも、児玉は『雪ちゃん先輩が帰るのを待とう』と言った。
あの時の児玉と今の自分は、全く同じ行動をしている。
ばかみたいだ。
あんなにも児玉を嫌って、追い詰めたつもりになって、喧嘩を売って。
児玉を追い詰めたなんて事はなかった。
ただ、面倒を押し付けただけだった。
岩倉は野山に合わせて、ずっとしゃがんだまま隣に居る。
スマホを見るでもない野山はひざを抱えたままぼうっとしていた。
(終業式までに、荷物全部片付くんかな)
はあ、とため息をついていると周布が現れた。
「わりーな、ちょっと野暮用でさあ」
二年生がういーっす、とか乙でーっす、と挨拶している。
周布は後輩に今日の仕事を話すと、すぐ伝築は動き始めた。
「よお、逃げずに待ってたのか。えれーじゃん」
周布の言葉に、野山は立ち上がった。
「今日は、なにしたらいいんすか」
「昨日と同じで土塀塗りかなー」
「どうせ先輩が夜中に塗りなおすのに?」
野山が言うと周布はおやっという顔になった。
「なんだ、ばれたのか」
「一年の鳳のやつらが」
「あー、あいつらな」
仕方ねえなあ、といいながら、周布は道具を抱えた。
「ま、いいじゃん。どうせやるこた一緒だ。おまえらも塗れよ。やんなくてもいいけど」
そう言って周布は早速仕事に取り掛かった。
野山は、周布の隣に腰を下ろして尋ねた。
「俺ら、退学になるんすか。たまきんの話って、それっすよね」
「あー、まあなあ」
えっと岩倉が驚く。
「マジで、本当に?」
が、周布が言った。
「……ったはずなんだがなあ。良かったな、お前ら、首の皮一枚でなんとかなったな。とりあえず中期で退学はねーってよ。後期の後はわかんねーけど」
岩倉はへなへなと腰を抜かして座りこんだ。
「なんで退学にならなかったんすか」
野山が尋ねると岩倉が答えた。
「本当は退学命令書まで作ってあったんだけどな。児玉が、たまきんにそういうのは嫌だって言ったんだよ」
驚く野山に、周布は言った。
「勘違いすんなよ。児玉が居たのは偶然で、お前らの為に言ったわけじゃない。児玉は本気で、ただ自分が気分が悪かったからそういうのが嫌だってたまきんに言って動いただけだ。俺もな」
周布はこれまでとは段違いの手際のよさで、ざっざっざ、と音を立てながら土塀の修復をやっていく。
野山と岩倉が居たとき、どうせ塗りなおすから手を抜いていただけだったのだと、野山はやっと気づいた。
「……周布先輩って、俺らのこと、嫌いだったんすね」
周布が二人を強引に引っ張った理由。
それは、別に野山と岩倉のことを考えたからではなく、たぶん、自分たちみたいな連中は、報国院を首になったら土塀を壊しまくるだろうとか、そういった理由に違いない。
周布は言った。
「お前らさ、どこに好かれる要素があんの?」
あまりに遠慮のない言葉に岩倉は絶句し、野山は何も言えずに黙っていると、周布は続けて言った。
「寮では問題おこす、他人の努力は邪魔をする、先輩にも先生にも同級生にも、てめーの親に対するみたいな態度をとって、思い通りにならなけりゃ癇癪起こす。そんなん親でも、無条件に愛するってそろそろ難しい年齢じゃないか?」
そうして壁を塗りながら周布は続けた。
「お前ら、あと数年で自分らが大人になるって判ってるか?」
大人って、と野山が呟くと周布は言った。
「そう大人。なにもかも全部、自分で考えて自分で責任取って、自分で考えて行動しなくちゃなんねえの。いつまでも子供でいられねーんだよ。なのに、なにずっと子供やってんの?」
周布の言葉に、岩倉も野山も黙る。
「お前ら、自分が親に愛されてるとか、大事にされてるとか思ってない?」
「そりゃ、だって普通親って子供には無償の愛があるだろ」
岩倉が言うと、周布が噴出した。
「無償の愛なんかねえよ。この世界はなにもかも取引で出来てんだ。あるとしたらお天道様くらいじゃねえか?悪人の上にも善人の上にも、平等に雨が降り、日が差し、やがて生まれたものは全部死ぬ。お前の親だって、自分の子供だから仕方なく面倒みてんだよ」
「んなはず」
「だってお前の親、お前が二人居てさ、鳳と鳩だったらどっちの子供がいいかって言ったら絶対に鳳のほう選ぶだろ?」
岩倉は口ごもる。
そりゃ、そうだけど、と野山は思う。
「お前らってたった壁塗り数時間の努力がひっくり返されて、ヒステリー起こすじゃん。そのどこが、『きちんと親に愛された』んだ?大人になる為の教育なんかされてないから、報国院がしんどいんだろ」
思いがけない視点からの話に、野山は驚いて目を見張った。
「それでもまあ、しょうがねえよ。入ったばっかりなら、この前まで親元で中学生やってんだから、先輩だってフォローはする、けどさすがにこの時期になってまではねえよ」
そうして、長いため息をふーっとついた。
「せっかく三年も飼い主から離れられるんだぞ。とっとと身の程わきまえろ。少なくとも報国院の先生たちは、お前の『飼い主』じゃねえよ。生徒を手荒に扱いはするけど、ペット感覚で甘やかしたりはしねえからな」
野山は唐突に思った。
判った。
この人は、自分たちの事を嫌っているのじゃない。