壁はプライド
「消防士だろ。消火栓の位置、どこに繋いで、ホースの長さどこまで届いて、どこからどこに向けて放水するか、その場で判断しねえといけねえだろ。どこを壊したらショートカットできるのか、もしくは壊しちゃいけないのは何なのか。報国町は城下町だから文化財があるだろ?火災になって、火を消したはいいが、文化財を燃やしたらどうなるんだ?商売あがったりだろ?」
それは確かにそうだ。
文化財に見学料をとって、それで経営している寺だってあるくらいだ。
だったら、それがなくなったら寺の存在は意味がなくなる。
「昔から火災と町は戦っててな。どうやって火災の被害を少なくするのかってのが、町作りの基礎なんだよ」
「……出さないように努力すりゃいいじゃないっすか」
野山が言うと、周布は笑った。
「そりゃそうだけどさ、生きるためには飯食うだろ?飯作るには絶対に火がいるじゃねえか。江戸時代に電気はねえもんな」
そりゃそうだ、と野山は思う。
「江戸時代の江戸なんか、水がないのが当たり前だからな。消化の基本は砂だぞ。燃えたものは諦めて、家も壊してとにかく被害を少なくするってのしか出来なかったからな」
すると、脇で聞いていた二年生が口をはさんだ。
「江戸っ子は宵越しの金は持たないっていうじゃん。あれって、すぐ火事になるから財産持ってても無駄だから使っちまえって意味なんだとさ」
「へえ」
それは知らなかった。と、感心すると、周布が言った。
「だから江戸の商人は、立派な蔵を作ったんだよ。漆喰は燃えねえ。内扉を鉄にして、分厚い漆喰で全部塗っちまえば、まず蔵は残るから再建できるしな」
だから、と周布は言った。
「城下町の壁ってのは、防犯もあるけど火災を防ぐって意味もある。壁がある町っていうのは、裕福な証拠なんだよ。あとはプライドって意味もあったりすんぞ」
「プライド?」
周布はうなづく。
「西洋の話だけどな、昔は侵略したら壁をわざと壊して回ったんだとさ。お前らのガードなんかこのざまだって見せしめだな」
へえ、つまらないことを良く知ってるな、と野山は思った。
「そんなんいいっすから、先に裏を塗りましょーよ、でねーと俺ら、終わんないじゃないっすかあ」
そう突然言ったのは、岩倉だ。
いつものようにへらへらと笑って、馬鹿にしながら周布に言った。
「こんな休憩とか、要領わりーじゃないっすか。どうせ表塗ったんだから、とっとと裏塗ったらいいじゃないっすか。なんで表塗ったら休んでるんすかぁ?」
『お前らはバカだからなあ』そんな意味を存分に含めて言う岩倉に、周布以外の面々は顔を見合わせた。
あ、これ面倒くさくなりそうなやつだ、と気づいた野山は岩倉を止めようとするが、予想外、先輩たちは立ちあがって言った。
「それもそーだよなあ」
「うん、表塗ってて乾くまで待つって、バカみてえだよなあ」
「言われるまで気づかなかったわー」
口々にそういって立ち上がり、コーヒーを飲み干すと、手を叩いた。
「じゃ、いっちょやりますか!」
岩倉は、やっと気づいたのか、バカども、サボってんじゃねえよ、そんな顔でニヤニヤしていたが、周布が言った。
「あ、じゃあお前ら帰っていいぞ。野山と岩倉は残ってな」
え、と野山と岩倉の二人は驚く。
「どうせすぐだから、かまわねえから」
周布の言葉に伝築の面々は顔を見合わせていたが、「じゃ、お願いします!」「お先失礼しまーす!」とめいめいの道具を片付けると、さっさと帰っていってしまった。
驚いたのは野山と岩倉だ。
「なん……なんで俺らだけ!」
「だってどうせ仕事にならねーし?」
「嫌がらせかよ!」
岩倉が言うが、周布は肩をすくめていった。
「お前らじゃあるまいし、んなことするかよ」
そういうと、さっき塗った道路側の土塀の裏、しろくま保育園の敷地内になる壁側へと向かった。
こんな広さ、三人でどうにかできるわけがないのに、なぜこんな事をさせられるのか。やっぱり嫌がらせだ。
そう思っても、周布には逆らえない。
岩倉は気づいていないようだけど、野山はなんとなく察していたのは、自分たちは想像以上に立場が悪くなっているのではないか、ということだ。
なぜなら、何も注意がない。
岩倉はへらへら笑っているが、あの玉木がどことなく、怒っているような雰囲気なのは自分にはわかった。
それなのに叱るでもなく、ただ人数を見せ付けて、どうですかなんて、自分たちには何の意味があったのか。
尋ねてもどうせいうはずはないけれど。
(御堀だって、んな性格悪かったのかよ)
自分の事は棚上げて野山は思う。
てっきり、優等生のお坊ちゃんで、ええかっこしいだと思っていたのに、先生の前で堂々と『嫌だ』というなんて思わなかった。
完全に野山の計算違いだった。
周布はのんびりと、さっきやっていたように土塀を塗りなおしていて、自分たちもそれに従った。
ただ、こうして黙って土塀を塗っていると、岩倉の言うとおりで、なぜさっさと裏側を塗らなかったのかとは思う。
三人で話すこともないので、黙々と壁を塗っていると。誰かが歩きながら喋っている声が聞こえた。
話し声に聞き覚えがある。
野山は気づいた。
一年の、鷹の連中だ。
野山とそう成績に差がない面々で、鳳を目指していたのに鷹でしかなかった。
そういう奴らだった。
土塀の裏に人がいるとは思わないのだろう、通りに人がいないのを良いことに鷹の連中は自分たちだけの気安さから、いろんな事を喋っていた。
先生がうぜえ、寮がつまんねえ、鳩ってやっぱりバカだよなあ。
鳩クラスに落ちてしまった野山にしてみたら、舌打ちしたくもなるが、あちらからは見えないから仕方がない。
「そういやさ、ロミジュリって最悪だったよなあ」
野山は、はっとして耳を澄ます。ロミジュリとは桜柳祭でのロミオとジュリエットの事に違いない。
どうやら三人で帰っているらしい、声はみっつ聞こえた。
「判る判る。あれなんなの、結局ホモじゃん、BLじゃん、腐女子大歓喜で媚媚半端なかったわ。きめーよな」
「御堀もさ、首席のくせによくあんな事やるよな。報国院の無茶振りすげーっていうか。しかしやんなよ、って思わねえ?」
三人はげらげら笑い始めた。
「思う思う!首席ってなんでんな無茶振りされんのかね!おかげでこっちはストレス解消になるけどさあ!」
「わかりみぃー!首席がバカなことやらされたら、あー首席になったら罰ゲームくらうんだー、じゃあ俺、鷹でいいじゃんって思っちゃうわ」
「思うよな!かなり鳳の奴、舞台に出ててさあ、コスプレ大会!まじ恥ずい!!!!」
「黒歴史までご準備してますーってか。将来、鳳が官僚とかになったら、あれで脅すのかもな!」
「週刊誌に売るとか!」
「マジかよ!俺が売る!」
げらげら笑う話は声も内容も丸聞こえだ。
岩倉はこっちをちらちら見てニヤニヤしているが、野山はちっとも面白くなんかなかった。
(―――――鷹でいいじゃんって)
馬鹿かよ。お前ら、頑張っても鷹の下のほうだったじゃん。
全然、ギリ鷹のレベルなのに何言ってんの。
『そういうお前、鷹で何位なんだよ。今回順位出たろ?言ってみろよ』
前期、学食で幾久に言われたことを思い出し、野山は息を止めた。
まるで同じだ、あのときの自分と。
ふざけて歩いている連中が、どん、と壁にぶつかった音がした。
なんだよ、と笑っていたが、壁にぶつかった一人が「あー!」
と声を上げた。
「なんだよ!制服汚れたじゃねーかよ!」
多分、ジャケットに塗ったばかりの土塀の泥がついてしまったのだろう。
表面に塗ってあるのはかなり粒子の細かい泥とはいえ、汚れは付くに違いない。
「この壁、よく見たら乾いてねーじゃん。塗りたてって奴かよ」
「あ、マジだ。っておまえ!やべーじゃん、穴あけてんじゃん!指つっこむなって!」
そう言って注意しながらもげらげら笑っている。
と、野山は思わず出て行こうとした肩を、周布が黙って止め、首を横に振った。
(折角、塗ったのに!)
連中は裏に野山たちがいるなんて知りもしない。
すると、傘で壁に落書きしたらしい。
「バカって、お前小学生かよ!」
「そう。わざとこうやって描いとけばさあ、小学生がやったって思うだろ?」
「確かに、鷹様がやったとは思わねーわ!」
そういうと、三人は足で削ったり、石で落書きすると、笑いながら去っていった。
しばらくして三人が去ったあと、周布にあごでしゃくられ、野山、岩倉、周布の三人は表へ出た。
「あーあ、こりゃひでー。思い切りやってくれたなあ」
それは、五メートル近くにもわたって横に線が引かれ、その上、バカとか、適当な落書きだとか、そういったものがいくつも描かれていた。
野山は言った。
「俺、やったやつ判るんで先生に」
「は?なんで?」
「なんでって」
野山は驚く。犯人がわかっているのなら、先生に言って注意して貰うほうが早いではないか。
だが、周布は言った。
「だから言っただろ、休憩しようって」
そこで野山はやっと気づく。
壁を塗って、そのあとのんびりと待っているのは、休憩ではなく土塀が乾くまで待っていたのだと。
「こうなるの、判ってたなら、なんで『塗りたてです』って看板とかおかないんすか!」
「だって、んなことしたら余計にああいうのいたずらするし」
周布の言葉に、野山は驚いた。
「こんなの当たり前だって。いちいちキレてたらどうにもならねえよ。明日にでもやり直しすんぞ」
「いやっすよ!なんで俺らがやるんすか!」
冗談じゃない。
今日だけでも二時間くらい、捕まってずっと塗らされていて、体だってしんどいし足も痛いし、丁寧に塗ったのに。
周布は言った。
「この程度、たいしたことねーじゃん」
「二時間かかったんすよ!」
「たった二時間くらい諦めろって。むしろ、二時間で済んでラッキーって思わねーと」
「なんでだよ!悪いのはあいつらなのに!」
「でもさ、お前らだって三ヶ月かかった地球部の舞台、台無しにしたじゃん」
周布の言葉に、野山と岩倉は硬直した。