僕らを繋ぐのは、ただの「好き」
長井の前から去った三人は、山縣の部屋に向かっていた。
「タマ、さすがボクサー。パンチ力ある事言うよな」
幾久が言うと御堀も頷いた。
「ピンポイントで抉るなんて凄いよ」
「え?俺別に間違ったこと言ってねえよ?」
児玉は驚くが、幾久は首を横に振る。
「いやー、えぐい。タマこえー」
「いや、お前もけっこう言ってたじゃん」
児玉が言うも、幾久は再び首を横に振る。
「いやあ、決定打はタマだよ間違いなく」
「凄いよ、児玉君」
「ちょちょ、なんで俺が全部やったようなことになってんの?幾久だってけっこう言ってただろ!」
御堀が足を止めて言った。
「寮生は家族じゃない。兄弟でもない」
さっき幾久が長井に向けて言った事を繰り返し言った。
幾久は御堀をみつめるが、御堀はふっと笑って幾久に告げた。
「好きでしか繋がれないって、いいね」
好きな事だけでしか繋がれない。
それがまるで、立場での甘えを許さないと言われている気がする。
それが嬉しい。
好きでさえいれば、いつまでも自分たちは繋がっている。
今の自分たちには、それが何よりも強い繋がり方だと思えた。
「幾」
「ん?」
「好きだよ」
一瞬、面喰ったが、幾久はそれが御堀の、いつものきわどい言い方だと気づいて、ぷはっと噴き出した。
「オレも好き」
「お前ら、まだロミジュリ抜けてねえの?」
呆れる児玉に幾久が言った。
「オレ、タマも愛してるよ?」
御堀も言う。
「僕もタマ君、好きだな」
「タマ君ってやめろ、間抜けだから」
児玉の言葉に、御堀はふふっと笑って言いなおした。
「じゃあ、タマは?」
「好きだよ。当たり前だろ」
そうだ、自分たちはお互いが好きだ。
お互いに好かれるような自分だって好きだ。
無力でどうしようもなく子供な自分が嫌いでたまらなかった。
春に、雪充がいなくなってさみしいと、素直に口に出す高杉に驚いた幾久は、もういない。
先輩達がいなくてさみしい。
たった一日離れただけでも。
「あーあ、やっぱ瑞祥先輩とハル先輩いないとつまんないし、さみしいな」
「明日には会えるよ。一緒に帰るんだろ?」
「でもそしたら誉も桜柳に帰っちゃうだろ?」
それはそれで面白くない、と幾久が言うと、御堀が笑った。
「大丈夫。週明けまで居るよ。そのつもりで許可取ったし」
「ちゃっかりしてんな」
児玉が言うと、御堀が得意げに答えた。
「当然。僕、御門好きだし。ずっと居たい位だよ」
その言葉におや、と言う風に児玉が御堀を見ると、御堀は隣の幾久越し、児玉にニヤッと笑ってみせた。
成程な、と児玉は御堀に拳を出した。
「じゃあ、頑張れ」
「うん。頑張ってる」
こつんと御堀も拳を当てた。
児玉は思った。
(そうか、御門寮、三人になるのか)
御堀は有能だ。
こうと決めたら絶対にそうするだろうし、そう言えば山縣の態度も御堀に対して軟化していた。
(ってことは、すでに動いてるってことか。すげえな)
成程、これが鳳たるゆえんか、と児玉は感心した。
「なんか俺、もっと頑張らないとだな」
「いきなり何だよ、タマ」
幾久に児玉はなんでもない、と答えた。
春、一年生は幾久たったひとりだった。
その御門寮が、幾久を中心に増えてゆく。
くしくもそれは、毛利が水面に投げ入れた石が、波紋を広げていくように、少しずつ、広がってゆくのだった。
長井が生意気な一年生に怒鳴ると、三人は黙って廊下を離れた。
長井は一人、チェロを響かせていた。
さっきから音が上手く運べない。
それは多分、長井と、わずかに存在する高いレベルにある人でしか、気づかない音の揺れではあったが、長井自身は気づいていた。
(クソッ)
生意気な連中、煩い連中。
高校生の頃の杉松にそっくりなあのわずらわしい奴は、やっぱり中身がそっくりだった。
むしろ、年が若い分だけ、長井に容赦なく言葉を突き立ててくる。
(生まれが下品って奴なんだよ!)
思いのままに弓を弾きたくとも、そんな事で動揺させられていると思うのが嫌で、長井は意地でも曲の安定を保った。
(どうせもう、明日で終わりだ)
目的は果たせなかったが、もうどうでもいい。
こんな事なら最初から、放っておけばよかったのかもしれない。
ノートの中身がばれた今となっては、なぜ自分がこうも焦っていたのかすら、思い出せなくなっていた。
(俺は、なんで)
どうしてあんなにも焦っていたのだろう。
どうしてあんなにも、母親を憎んでいたのだろう。
ノートが見つかる前までは、まるで自分が隠していた犯罪を誰にも見つからずに始末するかのような、焦燥に駆られていたというのに。
杉松にそっくりな幾久が長井のノートを持ってきた瞬間、もう終わったと、そう思ったのだ。
(一体)
あの瞬間、諦めのようなものが長井の中におきて、そして想像よりずっと静かな感情が長井の中に湧いていた。
ノートをもし誰かに。たとえば瑞祥や呼春に見つかってしまったら。きっとバカにされる。
なんだ、お前、やっぱりグラスエッジに入りたかったんじゃねえかよ、ばっかじゃねえの。
そう笑って茶化されると思っていた。だからどうしても、それだけはプライドが許さずになんとかして探して見つけて、処分しようと思っていた。
今考えたら、どうせ瑞祥も呼春もいないのなら、あの連中に探せと命令すれば良かったのに。
「……見つかったら、すぐにでも出てってやる」
長井はぽつりと、呟いた。
もし本当にそのセリフを言っていたら、長井を嫌う後輩連中はさっさと探して中身も見ず、長井にノートを渡していただろう。
(なんで俺は)
もう自分は高校生じゃない。
大人の策略は得意なはずだ。
一生懸命頑張って、努力していれば報われる。
そんなことが嘘で、誠実にやればやるほど、利用されるだけだと知っているし、うまくかわしてきた。
少なくともこの場所を離れてからは。
(なんで今更)
自分は高校生みたいな感情で、高校生みたいなことをやって、高校生に喧嘩を売っているのだろう。
今更、なにもかもどうしようもないのに。
(―――――後悔なんかしてねえよ)
それは事実だ。
長井は自分の選んだ道に、疑いも無ければ後悔もない。いまの自分に満足しているし、ふざけたロック・バンドなんかに交じりたい訳もない。
だったらなぜ、こんなにもチェロの音が、思い通りにならないのだろう。
いつだって長井の指示する通りに、音を運んでくれるのに。
聴きなれて弾き慣れたはずの曲が、まるで他人が弾いているような心地悪さだ。
長井は廊下のガラス越しに見える夜の御門寮の庭を見た。
ゆがんだガラスの向こうに、池と橋と、東屋が見える。
そして初めて気づく。
自分は、この風景を、一度も見たことがなかった。
廊下で楽しげに、歌ったり、遊んだり、ギターやピアノを弾いている連中を横目で見ながら、煩くなると舌打ちし、部屋に籠った。
あまりにうるさくて覚えてしまった曲を、ノートに書き込んで、自分ならこうする、と編曲したあの頃。
(そういえば)
幾久が結局持ち去ったノートの曲は、長井すら弾いてやれなかった曲で、初めて聞いたことに今更気づく。
(無駄な事しやがって)
あんな曲、今更形にしても、何の意味もないのに。
高杉にメッセージを送ると、すぐに電話がかかってきた。
「あ、ハル先輩」
その言葉に寝ていたはずの山縣ががばっと起き上がる。
『幾久か。いまどこにおる?』
「ガタ先輩の部屋ッスけど」
『移動せえ』
山縣の部屋で話を聞かれたくないのだろう、高杉が言うので幾久は尋ねた。
「移動はいいッスけど、どこに?いま廊下に長井先輩いるし、外はさすがに寒いし」
『ワシらの部屋ならえかろう。児玉、御堀も一緒におるか?』
「はい、います」
じゃあ、と幾久はスマホを持ったまま児玉と御堀に声をかけた。
「ハル先輩が、部屋に移動しろって。あ、ガタ先輩はいいです。寝てて下さい」
山縣はがっかりすると、起き上がった。
「さっさと部屋出ろ。一応、鍵すっから」
「はーい」
一年生三人は山縣の部屋を出た。
「……まだ響いてるね」
防音の山縣の部屋を出ると、チェロの音は寮の中に響く。
「やめないつもりかな」
幾久が言うと児玉が苦笑した。
「まさか。そのうちやめるだろ」
三人とも、久坂と高杉の部屋へ向かい、明かりをつけた。
エアコンをつけ、あたたかくなるのを待った。
「ハル先輩、部屋につきました」
『長井は?』
「チェロ弾いてます」
『なら問題ないの』
そして高杉は幾久に、なにがあったのかを詳しく尋ね、幾久も何も隠さずに伝えた。
スピーカーをオンにして、全員に聞こえるように話した。
さすがに高杉も、長井がグラスエッジを自分流に編曲した楽譜を内緒で取りに来ていたと知ると、驚きを隠せないようだった。
『アイツがそんなもんを』
「でも、別に仲間になりたいわけじゃないっていうのは本気だと思うッス。ツンデレとは違うなって」
『長井はそういう意味では嘘はつかんじゃろうの』
「でもまさか、楽譜を取りに来たのは予想外っした」
『そうじゃの。ワシもそれは知らんし、判らんかった』
そもそも、荷物そのものが山縣の大量の段ボールの中に紛れていたし、誰も興味がなかったのでそのままになっていたから、こっそりやろうと思えばいくらでも出来たのに。
「長井先輩って、なんか残念な人ッスよね。ガタ先輩に似てるとこもあると思ったけど、全然違ったッス」
『ガタは面倒な奴じゃが、話は聞くし、説明も一応はするからの』
「はい」
やっぱり高杉には、長井と山縣の違いが判ってたのか、と幾久は感心する。
「そんなことより、ハル先輩も瑞祥先輩も、明日は帰ってくるんスよね?」
幾久が言うと高杉が笑った。
『なんじゃ。さみしいんか』
「はい。さみしいッス。だから早く帰ってきて欲しいッス」
幾久が素直に言うと、高杉は少し驚いて噴き出した。