Future Pop
薄暗い空は明けはじめると徐々にその色を変えてくる。
灰色と青の混じった色から白へ、そして少しずつ青とわずかな茜色。
かすかに残った星がまばらに白い光をこぼし、小さな夜の跡を残す。
いくら海際でも夜が明けて間もない神社の敷地は静かで寒い。
防寒着の生地がたてる衣擦れさえ聞こえそうなほど音のない世界。
つめたい空気、歩く度に白い息が顔を包む。
神社の境内は、昨日から行われている報国院の桜柳祭の出店で埋もれている。
あと数時間もすれば、業者や生徒がやってきて、賑やかな店を開き、町中の人が遊びに来る。
桜柳祭の二日目、この日こそ本番だと皆言う。
乃木幾久の父、古雪は防寒着のポケットから手を出すと、報国院の正門と呼ばれる鳥居の前で、一礼して神社に入った。
「わざわざ遠回りなんかしなくったって、あっちから入りゃ近いのに」
ふわあ、と大あくびながらついてきたのは古雪の友人である菅原だ。
黒のロングヘアーに黒のライダースジャケット、黒の革パンにブーツというスタイルだ。
「お前はついてこなくて良かったのに」
「目が覚めたんだよ」
ふわあ、とあくびする菅原を置いて、古雪は先に進む。
古雪は手水舎に向かうと柄杓を手に取り、龍の水口に近づけた。
龍の口から柄杓に水が注がれるのを待って古雪は作法通り、手を水で清め、口に水を含み吐く。
一緒に来た菅原も同じように手と口を清める。
神社の外陣の御扉は夜明けと同時に開かれている。
二人は静かに賽銭を落とすと礼をする。
作法の通りに頭を下げ、柏手を打つと、開かれた本殿の中へ響いた。
お参りをすませて、やっと古雪はほっとして言った。
「お参りしないと帰って来た気がしないな」
「それでこんなに早起きしたのか?」
ふわあ、ともう一度大きなあくびをする。
古雪が到着したのは、夕べ、もう日付も変わろうかと言う時間だった。
「お前は付き合わなくてよかったのに」
古雪が言うも、菅原が言った。
「だって一人じゃ古雪、泣くだろ?」
「泣くか」
呆れる古雪に、菅原はジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
「それより寒みーから、あったかい缶コーヒーでも買って、ついでに散歩しないか?」
菅原の誘いに古雪も「そうだな」と頷く。
二人は神社の境内にある自販機へ向かった。
温かい缶コーヒーを買い、手を温めながら報国院の敷地内を通り、しろくま保育園の隙間道を抜けてまず乃木神社に向かう。
報国院の神社と同じように、二人はお参りをすませて神社を後にする。
この後歩いて、高杉晋作が挙兵したことで有名な寺へ向かい、城下町を川沿いに歩くのが学生の頃からの散歩コースだった。
「幾久君には見に行くことを伝えたのか?」
尋ねられ、古雪は首を横に振った。
「教えてくれないのに、言う訳ないだろ?」
「そりゃそうかもしれないが」
忙しい合間を縫ってなんとかこちらへ帰って来て、息子の舞台を見たらすぐに帰るなんてよっぽど息子を見たいのだろう。
「まさかあの子が地球部に入ってるなんて、思いもしなかったんだよ」
夏に会った、幾久の先輩である御門寮の三年生、山縣は自分たちを経済研究部だと言っていた。
そうなのかと素直に思い込んでいたのだが、後の山縣からの情報で、実際は山縣は映像研究部、幾久は地球部に無理矢理所属させられていると聞いた時は驚いたものだ。
地球部と言えば、昔からやや変わった部で、特に入学時にスリートップだった面々は地球部に所属することが多く、古雪も実は学生の頃、所属していた。
「舞台に出る上に、配役はジュリエットだ。そりゃ親には言いたくないだろ」
「……そうかもしれんが」
そこが古雪には不満だった。
元々、桜柳祭には来るつもりだったのでスケジュールはなんとかしたのだが、こともあろうに自分の息子が舞台に出る上に主役のうちの一人なんて全く知らなくて、聞いたのは現学院長である、古雪の後輩の吉川からだった。
「アイツから聞いたときには耳を疑ったぞ」
あの目立つことが嫌いで面倒くさがりな子が、まさかの地球部で、まさかの主役とは。
昨日のうちに舞台を見ていた菅原は言った。
「開演前から随分と人気だったらしくて、チケットはすでに完売、立ち見もマックス、今日の二回まわしもキャンセル待ちと当日券待ちが出ているほどだとさ」
良かったな、と笑うも古雪は肩を落とす。
「複雑な気持ちだよ」
「別に女装しているわけでもないし。まあ、でもベッドシーン的な描写はあるからなあ。あれは盛り上がったぞ」
ぷっとそういって笑う菅原に古雪は露骨に表情をゆがめた。
「そういうのはいい」
「お前のそう言う顔、久しぶりに見るなあ」
ふざける菅原にぼそっと言った。
「黙れよ、律」
「おーこわいこわい」
しかし菅原は楽しそうだ。
このむっとした表情は、学生の頃の古雪そのものだ。
幾久と違い、滅多に笑う事もなく仏頂面で性格も言葉もきつく、そのくせ成績は圧倒的にトップに君臨していた、報国院の鳳でも王様と呼ばれた。
「幾久君は穏やかなのにな」
そう言うと、古雪は表情を緩め、笑顔になった。
「あの子はいい子なんだ」
「自分で言うのか」
「言うさ。可愛くていい子だ。私の息子でも、私とは違う」
自分の高校生の頃を思い返せば、全く生意気で手が付けられない、そのくせ自分を子供とも思っていなかった。
成績だけはやたらいいだけの、あちこち欠陥だらけの人間だったことを今では判るけれど、あの頃は知らなかった。
頑なだった古雪を変えたのは、ここに居る菅原律や、他の面々で、高校生活は古雪の性格を一気に変えた。
「ウチの子も、そう言えるくらい可愛いかったらいいんだけどねえ」
「可愛いじゃないか。奥さんにそっくりで」
「性格は残念ながら俺に似たよ。いや、どっちかっていうと経だな。あと我儘なのは論のせいだ」
「そりゃ手ごわい」
ぷっと古雪は吹き出す。
「お前には懐いてるのにな」
「サッカーのおかげだよ」
古雪はサッカーが好きで、自分ではもうやっていないが漫画を見るのも試合を見るのも好きだった。
息子の幾久にもだからサッカーを習わせたし、試合を見ているおかげでサッカーをやっている律の息子とも世代関係なく話せる。
古雪は尋ねた。
「ユースには入るのか?」
「さあ?本人はどうなのかね。好きなようにすりゃいいとは言ってある」
「そりゃお前が親なら、そう言うしかないな」
ふっと古雪は笑う。
律は高校生の頃からバンドをやっていて、成功を収めた「ピーターアート」の一員だ。
古雪の世代で「ピーターアート」の名前を聞かなかった人はいないだろうというくらいにバンドは大きくなった。
海外での活動も成功を収めて、今も時折音楽活動は行っている。
「なんでもいいさ。やりたいことはやりゃいい」
「そうだな」
なんでも好きな事をすればいい。
報国院ではその三年が許されているのだから。
ただし、条件はなにかと厳しいが。
「それよりお前、幾久君の舞台、録画はしないのか?可愛いって評判で、うちの檀家のバーさんなんて、そろそろお世話になるかもとか言ってたのに、舞台見て『あの子が出る限り死ねない』とか言い出してそりゃもう」
そう言って律が噴き出すと、古雪は真面目な顔で言った。
「映像はすでに映研に予約してある」
「お手が早いことで」
映像研究部は報国院の映像関係を全て担っているので、当然桜柳会の映像の記録や保存、舞台の映像協力もしている。
それを知っている古雪は、後輩である報国院の学院長の吉川を通じ、映研からデータを貰うようになっている。
「もともと希望者には販売するつもりだったそうだから、私みたいな素人が張り切って撮ることもないし、幾久の先輩が連絡をくれてな」
「へえ」
「幾久の舞台のアルバム、特別仕様で作るがいくらで購入するかと尋ねて来たぞ」
「それはちゃっかりした奴がいるもんだ」
「報国院は変わらないよな」
そういうちゃっかりしている所とか、ふざけているようで大真面目なところとか、昔、自分たちが居た頃とちっとも変らない。
二人は散歩しながら話を続けた。
「そういえば学校、改築したんだろ?」
「旧校舎も地震対策して改装はしたが基本そんなに変わってないし、あとはスピーカーがやたら良くなったとかか?百仁鶴のやろー、学院長になって一番にやったのがそれだからな」
「ハハハ、あいつらしい」
「まあ、生徒はみんな楽しそうにやってるからいいんじゃないのか」
ちょっと前、吉川が学院長になる前の報国院は評判が下がった時期があった。
学院長や建築会社の癒着やなんやかやが見つかって、週刊誌さえにぎわせたものだ。
お偉方がいるとどうしても、こういったのは出てくるものだが、それを全部片づけたのも、やはり報国院の連中だった。
政治家などを数多く輩出している報国院では、悪いのがつるむ事もある。
だが、前学院長やどうしようもない面倒な教師と戦ったのも報国院の生徒で、その生徒こそ実は現在、グラスエッジとして活動している連中でもある。
権力体勢もあれば、反体制もある。
ここはそういう存在で、こういった事を繰り返し続いてきた。
「桜柳祭は最初から見るのか?」
律の問いに古雪は頷いた。
「勿論。幾久の舞台を見終わるまでの時間はとってある」
「なるほど」
これは気合が入っていることで、と律は笑ったのだった。
「他の連中は?」
古雪が尋ねると律が答えた。
「経も論も、昨日見てないから今日見るってよ。花緒は仕事が片付いたら見に来るとさ」
「そうか。会えたらいいんだけどな」
「大丈夫だろ」
なにしろ全員報国院出身で、なにより桜柳祭が大好きな上に、今年は古雪の息子が舞台に出ていると聞けば、来ない訳がない。
「息子は?来年、報国院じゃないのか?」
「俺はそうして欲しいんだけどな。本人は興味ないらしくて」
「へえ、そんなもんか?」
「なんか苦手な奴が報国院に行くから、あんまり行く気になれないって言っててな。周防市に学校があるだろ?私学の」
「ああ」
このあたりで有名な私学の高校と言えば、まず報国院が上がるが、周防市でトップに君臨するのはキリスト教系列の私学だった。
「あそこならファイブクロスのユースがあるから、あっちも受けてみたらどうだ、とは言っているけどな」
「好きにさせるのか」
「そりゃ報国院には入って欲しいとは思うが、親のエゴを押し付けるわけにはいかんだろ」
お前だって、と律に言われ、古雪は「まあな」と頷く。
「どっちかっていうとお前の方が意外だったぞ。昔から夢だって言ってたけど、そういう雰囲気をちっとも出していなかったのに、いきなり入学だろ?」
「私だって思ってなかったんだよ」
教育は妻に任せきりで、下手に自分が関わらないほうがいいと思っていた。
大人しいと思っていた妻は実は神経質でコンプレックスが強く、幾久に勉強を押し付けていたと気づいたのは、情けなくも最近だ。
「忙しいっていうのが理由にならないのは判っていたつもりだったんだが」
自分で望んで選んだ仕事だから、忙しいのは仕方がない。
妻もそれを理解していると思っていて、実際に忙しくて帰らない日が続いても、文句ひとつ言わなかった。
それが楽だった。
だから間違えてしまっていたことに気づいたのは、やっと息子が問題を起こしてしまってからだ。