甘えは気づかず忍び寄る
寮に戻り、児玉と一緒に風呂に入ろうと思ったが、スマホに連絡が入っていた。
「あ、誉からだ」
「どうする?風呂入るか?」
「ううん。多分愚痴だろうから、ちょっと誉と話するよ」
「そっか。じゃ、オレ先に入るわ」
「うん」
幾久は部屋を移動して、廊下の方へ向かう。
御堀と話す内容は、誰にも聞かれたくないからだ。
メッセージのやりとりも面倒で、御堀に電話にするか、と誘うと御堀もそれでいいと言ったので、連絡するとすぐに御堀が出た。
「こんばんは誉」
『こんばんは幾。もうお風呂入った?』
「まだ。さっきまでボール蹴ってた。いまタマが風呂入ってる。誉は外?」
寮だと人がいるので、御堀は幾久と電話をするときは外で散歩しながら話すことが多い。
『そう、外。いつも通り散歩しつつ』
「そっか。お金先輩も一緒?」
『いや、お金先輩は忙しいから。桜柳祭でてんてこまい』
「あはは。でも儲かってるなら機嫌いいでしょ」
『いいよ、めちゃくちゃいい。張り切ってるし。チケットもすごい売れたから、当日も期待できるって。頑張らないとね。僕らも』
「がんばってるじゃん」
そう幾久が自分で言うと、御堀も『まあね』と返す。
「桜柳会はどう?やっぱこの先も忙しくなりそう?」
舞台にそこまでの心配はなくなったとはいえ、桜柳祭が近づいている時期に御堀がとられるのは幾久にとってはあまり嬉しくない。
自信があってもやっぱり、練習はギリギリまで何度でもしておきたいからだ。
『そうでもないよ。最近ずいぶん楽になった。インカム導入されたときはどうなるかと思ったけど、僕はつけなくていいって言われてほっとしてる』
「ハル先輩はつけっぱなしだね、そういえば」
舞台なんかで忙しいはずの高杉ではあったが、桜柳祭にも関わっているので、部活中もインカムを付けっぱなしで、舞台のセリフをしゃべるとき以外はずっと待機している状態だ。
たまに、御堀が必要な時に雪充から指示が入るらしく、その時には御堀に指示が出るが、それでも断る余地は与えてくれた。
「本番近いんだもん、そりゃ気を使ってくれないと。誉って主役みたいなもんだし」
『幾だってそうでしょ』
「オレは部活だけだし。誉は桜柳会とかあって忙しいでしょ」
『最近はそこまででもないから。ちゃんと断っていんだってやっと判ったし。幾のおかげかな』
「そーだぞ、感謝しろ」
ふざけて幾久が言うと、御堀が言った。
『本気で感謝してるよ』
「あ、そう……」
真面目に返ってくると今度は妙に照れてしまった。
御堀がそれに気づいて笑った。
『なに照れてんの』
「いや、急にそんなこと言われると」
『僕をくどいときながら、今更?』
「くどくとかってなんだよもー。そういうの言うのやめろって」
幾久が言うと御堀が声をあげて笑う。
『ほんっと幾って面白い』
「誉のツボわかんないよ」
『いいじゃん、面白いんだから』
「もー。そんなん言うともう海に行かないよ」
『それは困るな』
いつか一緒に行こうと決めているので、それを出されると御堀は静かになる。
「ハル先輩にもすっごく言われてるんだからね。絶対に一人はダメって。だから一人はダメだよ」
『判ってるよ。あれから行ってないし、どうせ通り道に御門あるんだから、ちゃんと幾を誘うよ』
ああ、そうだ、と御堀が急に思い出して言った。
『それとさ、高杉先輩に伝えておいて貰えるかな。今度の土曜日の夜、泊めて貰うかもって』
「え?そうなの?」
『うん。外出許可をいま取って貰ってるんだ。正式じゃないけど、問題なければ通してくれるって』
「誉、ウチに泊まりにくるんだ!」
幾久は急に声が弾んだ。
『やっぱり海に行きたいし、それに幾とサッカーしたくてさ。でも時間ないだろ?』
確かにいまは部活に忙しく、平日はなにかをする時間はない。
だけど土曜日の夜なら、遊ぶ時間はある。
「いいじゃん、すっげ楽しみ!」
『まだ確実じゃないけど』
「誉ならなんも問題ないよ!わかった、ハル先輩にも言っとくね!」
『うん。正式に決まったら、うちの方からそっちに連絡行くと思うけど』
じゃあ、そろそろ切るね、という御堀に幾久もおやすみ、あしたね、と言って電話を切った。
御堀が御門寮に泊まりにくるかもと聞いて、幾久は急にご機嫌になった。
たまに時山が遊びに来てサッカーをしてくれたが、これで新しい遊び相手が出来る。
(シューズ、新しいの買いたいなあ。誉はどうするんだろ?)
サッカーを辞めて、多留人とも会わなくなってからシューズにもボールにも関わらなくなっていたけれど、こんなふうに触り出すと急にまた興味が湧いてくる。
(このへん、スポーツ用品店てどこだったっけ?)
どっかあったかなあ、時山なら知ってるだろうし、御堀も一緒に出掛けたいなあ、と幾久が考えながら居間へ戻ると、丁度高杉と久坂が居た。
「なんじゃ、児玉と風呂じゃなかったんか」
まだ寝る前の恰好じゃない幾久に、とっくに風呂を済ませた高杉が尋ねた。
「誉と喋ってたんで。タマあがったら、次に入ろうかと」
「そうか」
高杉と久坂はもう部屋に入るところだったらしく、二人ともいつも通りの寝る前の恰好だった。
久坂は浴衣、高杉はTシャツにジャージだ。
「それとハル先輩、誉が今度の土曜の夜、うちに泊まりに来るそうです」
「泊まりに?」
「はい。まだ正式に決まったわけじゃないけど、多分許可通るんで、ハル先輩に伝えておいてくれって。正式に許可出たら、あっちの寮からハル先輩に連絡があるだろうけどって」
寮の代表である高杉の所には、正式に通らなければ連絡は来ないので御堀は先に伝えておこうと思ったのだろう。
「判った。まあ、御堀の面倒はお前が見るんじゃろ?食事が一人前増えるくらいで、さしたる問題はなかろう」
「そうっすね」
面倒と言っても、布団を用意するくらいのものなので、別にすることもない。
御堀の目的は多分、幾久と海に出かけたりサッカーすることなので、寮として特別なにかを用意するとか、しなければならないこともない。
本来ならこういった事は許可されないのだろうけれど、寮のヒエラルキーで桜柳寮はトップに立っている。
御門はちょっと、ずれた感じはあるが、それでもほとんどが鳳クラスで、寮同士のつながりがあれば、規定なんかあってないようなものだ。
寮の責任者同士がいいといえば、どうにでもなる。
「じゃ、ハル先輩的にはオッケーなんすね?」
幾久が尋ねると高杉は苦笑する。
「駄目じゃ、ゆうたらお前が泣くじゃろう」
「泣きませんよ。んな子供みたいに」
「子供じゃから、遊び相手が欲しいんじゃろ?」
「そこは否定しませんけど」
確かに御堀とサッカーがしたいのは正直な気持ちではある。
高杉は言った。
「まあ、なんでもええ。御堀は有能じゃし、気晴らしになればエエ舞台もできるじゃろう」
地球部の部長としての立場もある高杉にしてみたら、やはり桜柳祭での舞台は成功させたい。
御堀がずっとプレッシャーを抱えていたのも知っているし、オーバーワーク気味なのも判っていたので、高杉もできることはしてやりたいのだろう。
「誉は仕事抱え過ぎでパンクしたんすよ」
「そうじゃったの。まあ、首席ちゅうのはそういう目にあうもんじゃ、報国院ではの」
三年の雪充も、二年の高杉も、二人とも首席入学したせいであれこれ仕事を押し付けられるのだという。
報国院には生徒会というシステムが存在しないので、どうしても鳳や主席にその仕事が集中するのは仕方がない事だとは聞いてはいるが、御堀の抱え込みぷりを知っている幾久からしたら、もうすこしどうにかならないか、とも思う。
「そりゃ誉は優秀ですけど、まだ一年だし、必死に頑張ってるだけなんで。雪ちゃん先輩も、ハル先輩も、誉に用事押し付けすぎなんすよ。あんまり押し付けちゃ駄目っすよ」
御堀が無理してでも、いろんな用事を引き受けているのを知っているからこそ、幾久はつい御堀贔屓になってしまう。
高杉は眉をひそめた。
「そんなに押し付けておるつもりはないがの」
「またもー。だって誉、最初の頃ちっとも部活に参加できなかったじゃないっすか。最近はそうでもないけど、桜柳会もあるし、大変そうだし」
すると、久坂が口をはさんだ。
「桜柳会は仕方ないよ。入学時の主席は責任者になる決まりだし。だからハルもやってるんだし」
「誉はものすごく無理して努力してるんスよ。先輩らみたいに、なんでもできるわけじゃないし。そりゃ、ハル先輩みたいに有能で天才気質だったらなんでもできるかもしれないけど」
「別にワシは有能な訳じゃ」
高杉がそう言い、はっとして口をつぐんだ。
「……いや、エエ」
そう言ってぽつりと、幾久に告げた。
「御堀の事は、気を付けよう」
幾久はその高杉の様子に気づけなかった。
「そうっすよ。先輩なんだから、ちゃんと後輩の事見てやってください。桜柳会もすごく大変そうだし」
「そうじゃの」
そう言うと高杉は居間を出て部屋に向かった。
いつも通り、何の変哲もなかった。
だから幾久は全く気付かなかった。
丁度その時、児玉が風呂から上がってきて、幾久に声をかけた。
「おい、幾久、風呂空いてるから入るならすぐ」
ばちんっという音に、幾久は驚き目を見開き、児玉も驚いて幾久を見た。
幾久の両頬を、久坂が両手で叩いていた。
顔をはさみこむようにして叩いたので、音ほどひどく痛いわけではないが、叩かれたので勿論それなりに痛い。
叩かれた幾久はびっくりしたし、見ていた児玉もびっくりして固まっている。
顔を両手で押さえられたまま、幾久は久坂に抗議した。
「いひゃぃ……何、ふるんふか、」
久坂は静かに幾久に告げた。
「―――――いまのは、いっくんが悪い」
「へ?」
いまの、とは一体何だったのか。
いつも通りのやり取りの中で、なにがおかしかったのか幾久には全く判らない。
どうして久坂は幾久を叩いて、こんなにも怒っていて、呆れたような顔になっているのだろうか。
幾久の両頬を手で包んだまま、久坂は言った。
「ハルは決して、有能な訳でも天才でもないよ」
久坂の言葉と目は、いつものように静かではあったが、そこに怒りが含まれているのが幾久にも判った。
「でも、」
「でもじゃない。なにバカなこと言ってるんだいっくんは。ちょっと考えたら判らないか?ハルだって、地球部の部長で、桜柳会にも参加してるだろ。最近、部活だって抜ける事多いのに気づいてなかったの?」
「……それは、知ってましたけど」
インカムをつけてずっとやりとりしているのも、忙しそうなのも目の前で見ている。
だけどそれは、桜柳会が近いからで、地球部の部長の仕事が沢山あるのだろうと、おかしいとは思っていなかった。
「御堀君の事は気づいてあげられても、ハルの事はどうでもいいの?」
「そんなつもりじゃ」
高杉はなんでもできるし、有能だし、責任感も能力もあって、飄々とかるくこなしている。
いつも通りの軽口のつもりで、それを言って、何が悪いのか幾久にはちっとも判らない。
どうして久坂がこんなにも怒っているのかも。
「いっくんには失望した」
久坂がぽつりと言い、両手が幾久から離れ、ため息をついて久坂が言った。
「きちんと理解して反省するまで、今後一切ハルに話しかけるの禁止。判ったね」
強い久坂の言葉に幾久は「はい」と言うしかなく、驚く児玉と顔を見合わせる事しかできなかった。