すれ違うふたり
「逃がしたな栄人」
高杉の言葉に茶碗を洗いながら栄人が「そうだよ」と笑った。
「あんまからかうなってハル。折角居てくれるって決まったのに、逃げられたらどうすんだよ」
「今更転校なんかするか」
高杉はそう言って笑っているが、栄人は肩をすくめて言った。
「そうじゃなくて、あんまりからかうと他の寮に行きたいって希望出されるよって言ってるの。あんなに雪ちゃん雪ちゃん言ってたら、恭王寮に希望出すかもよ?たしかタマちゃんも恭王でしょ?」
そう言われ、高杉は目を丸くする。全く気付いていなかったという表情だ。
「え?まさか気付いてなかったの?全然?」
「……考えもしちょらんかった」
しまった、という風な高杉に久坂は笑った。
「案外、ハルって天然なところあるよね」
「気をつけないと、マジで逃げられちゃうぞ」
今度は高杉を脅かす久坂と吉田にうるさい、と高杉は言い返す。
「ま、それでも他の寮はないじゃろ」
「そっかなあ。今日だってなんか考え込んでる様子だったし、なにかあるんじゃない?」
「だよね。部活休んだのって、ひょっとしてハルのせいじゃない?」
「あー、うるさい。んなことはない」
くるっと後ろを向く高杉に、久坂が持ち前のイケボで囁いた。
「もし、いっくんが出て行きたいって言ったらどうする?」
一瞬びくっと肩を震わせた高杉に、久坂はくすっと笑った。
「本気でびびった」
「……瑞祥、お前」
「はい、二人とも、騒ぐなら外でね、外で」
吉田の言葉に二人が立ち上がった。
「そうじゃな。最近、手合わせしてなかったからのう。ストレスたまってたんかもしれん」
「だよね。たまには発散しないと良くないよね」
そう言うと二人は玄関から出て、芝生の敷き詰められた寮の庭へ向かう。
「よし、来い瑞祥!」
「手加減するよ」
「ぬかせ」
そう言うと二人は手合わせを始めた。その声は風呂場に居る幾久にも届く。
「先輩ら、またやってんのか」
あの二人は本当にべったりだなあ、と湯船の中で息を吐く。
一人でのんびり浸かる湯もいいけれど、吉田と喋りながら入る風呂も嫌いじゃない。
(それより、タマのこと、どーしよう)
相談する先輩もいないし、自分でもこれ以上は考えられない。
それに山縣の考えはなにもかもがごもっとも過ぎて、ぐうの音も出ない。完全に詰んでしまった状態だ。
つまり、『負けました』と言うしかない。
(あーあ)
なにができるわけでもないけれど、なにも出来ないのも癪だし、かといってなにができるわけでもない。
ぐるぐると何度も同じ場所を考えてしまうしかなくなる。これがどうしようもない、という事なのだろうか。
(この三ヶ月間だって、相当頭使ってたのになあ)
報国院に居るか、それとも転校するのか、将来の事も含めてずーっと考え抜いて、やっと決めた。
将来はわからないけど、今は報国院がいい。
そう決めて一息ついて、あとは鳳クラス目指していけばいいや、なんてのんびり構えていたのに。
「ほんっと、どうしよう」
風呂場で膝を抱えて、湯船に頭を預けていると、急に騒がしくなった。
ばたばたとする音に、なんだ?と頭を上げるといきなり風呂場の扉が空いた。
「入るぞ幾久!」
風呂に入ってきたのは高杉だった。さっき庭で久坂と組み手したせいで草まみれになっている。
「や、だから入る前に言ってくださいって……」
「お邪魔しまーす」
更に入ってきたのは久坂だ。久坂も高杉と同じく髪に草がついている。
「だから、入る前になんで一言……」
二人は幾久が居てもかまわず、いつも通りシャワーを浴びて体を洗い始めた。
「もー、狭いじゃないっすか」
「気にするな」
「そうそう、気にしない」
そう言って先輩二人は体を洗い終わると、無理矢理幾久の入っている浴槽に入ってきた。そのせいで湯船からお湯が流れ出ていく。
(栄人先輩が見たら怒りそう)
幾久の心配をよそに、二人は楽しげにお風呂に浸かっている。
「幾久、背中流してやろーか」
「イエ、もう洗ったんでいいです」
そもそも、湯船に浸かる前に必ず体をしっかり洗えと吉田に言われている。
だから二人もそうして入ったんだろうに。
もう、と幾久はため息をつく。
「……なんかあったんか」
高杉の言葉に幾久はどきっとした。
「え?」
「なんか考え込んじょるようじゃからの」
幾久はどきっとした。確かに、児玉の事を聞いてしまってからずっと気になっているのは間違いないが、そこまでばれているものだろうか。
「ひょっとして、部活が気に入らない?」
久坂の問いに、幾久は首を横に振った。
「いいえ、んなことはないっす」
確かに演劇部というのは経験したことがないし、最初は嫌だとしか思わなかったが、一緒にいる一年生や先輩は面白い人ばかりだし、鳳の一年生とも仲良くやれている。
久坂や高杉みたいな、濃い人に関わっていたせいか、ちょっと変わっていると言われる面々があってもそこまで酷いとも思わなかった。
台詞を覚えるのは大変だが、幾久の相手役の御堀というのがびっくりするぐらいに覚えが早く、おまけにフォローもしてくれる。
「台本、かなり判りやすいし、あれなら覚えやすいっす」
元々のロミオとジュリエットはかなり言い回しが古臭く、そのままだと何を言っているのか意味不明だ。
普通に台本を読んでいる幾久も首をかしげてしまうような内容で、大丈夫だろうかと思ったのだが、実際に舞台に使う台本は、かなり現代風にアレンジされていた。
台詞も大幅にカットされているし、内容もわかりやすくされたので完全に覚えるのも大丈夫そうだ。
「御堀君、すごい頭いいし助かってるっス。逆にこっちが申し訳ないというか」
幾久は御堀にちょっと借りがある。夏休みが終わる前に、御堀の寮に泊まった事があるのだが、その時に随分と迷惑をかけてしまった。
「確かに、御堀は頭エエし、落ち着きもある。悪くない」
高杉の評価に幾久も頷く。
「だから雪ちゃん先輩も、いっつも一緒なんすね」
そこは正直、羨ましくもあった。
主席として入学した一年のトップは、代々そうやって地球部の部長や、桜柳祭の実行委員を請け負うシステムになっているそうで、御堀は雪充の仕事も、高杉の仕事も手伝っている。そのうえ舞台での役もあって忙しそうだ。
雪充と一緒なのは羨ましいが、あんなに忙しいのは大変そうだなと同情もある。幾久はせめて舞台での迷惑をかけないようにと必死で台詞を完璧に覚えている最中だ。
だから本当は、一日だって休む訳にはいかない。
多分、一番仕上がっていないのが幾久だろう。
(本当は悩んでる場合じゃないんだよな)
児玉の心配をするよりも、幾久は自分の心配をするべきだ。それは判っているのに、やっぱり考えないわけにもいかなくて、幾久はまた無意識にため息をついていて、久坂と高杉の二人はそんな幾久を見て、二人で目を見合わせた。
弥太郎に、児玉が寮でいじめられてると聞いてしまい、いろいろ思い悩んだ幾久だったが、たった一晩ではいい案も当然思い浮かばなかった。
翌日も隠そうと努力はしたのだが、幾久の態度が妙なことに、児玉はすぐに気付いたらしい。
ランチの時は弥太郎に気付かれないように二人で暗黙の了解はあったものの、やはり隠し通せるものではなかった。
放課後になり、児玉は言った。
「おい、幾久。ちょっと今から時間ないか?できれば部活、休んで欲しいんだけど」
「えーと、多分大丈夫」
少し怒ったような児玉の声に、幾久はしまった、と思った。
(ひょっとしなくても、バレてんじゃん)
言われる事も想像はつく。なにかあっても部活でバレないようにしたほうがいいと判断した幾久は、山田にメッセージを打った。
児玉に誘われ、軽音部の部室へと一緒についていった。
中に入ると、誰も居なかった。
「まだ誰もいないの?」
「今日は休み。俺が勉強の為に部室借りてんの。弥太郎に聞いたんだろ?」
やっぱりばれてるのか、と幾久は頷いた。
「うん」
「どこまで聞いた」
「どこまで、って?」
幾久は児玉に隠すこともないと、聞いた事を説明した。洗濯機を止められたとか、ベッドを濡らされたとか、悪口や足のひっかけや、他の寮生を巻き込んでいることも。
児玉は思い切り深くため息をついた。
「全部じゃねーか。ヤッタ、余計な事を」
「ヤッタは心配してるんだよ」
「判ってる」
だけど児玉は不機嫌そうに言った。
「判ってるけど、お前にいう事じゃないだろ」
「なんだよそれ」
幾久はむっとした。
「ヤッタだって、どうしていいかわかんないからオレに相談したんじゃん」
幾久には弥太郎の気持ちが判る。
児玉をどうにかして助けたいけど、自分で考えても行動しても限界がある。
どうすれば良くなるだろうか、考えても判らないし表ざたにできる事でもないから、信頼のおける友達に相談するしかなかった。
そんな事が判らない児玉じゃないはずだ。
「オレだって、なんとかしたいよ」
「余計なことは考えなくていい。恭王寮の事だし、そもそも幾久それどころじゃねーだろ。今日部活休ませたのは悪かったけど」
勉強だって、部活だって。幾久も児玉も忙しい。
だからこんな余計なことに構っている場合じゃないのは二人ともよく判っている。
児玉は幾久に時間を取らせたくないと思っているのは、幾久にも判る。
幾久が児玉を助けたいと思っているのも、児玉には判っている。
けれど、だからどうすればいいのか。
互いに、じゃあ頑張ろうなんて小学生みたいな事を言ったとしても、どうにもならない。
だけど、なにもしないのも腹が立つ。
子供みたいな悪意に今更、手を取られているなんて考えるだけで腹が立つし、悪いのは二人ではなく、あの元鷹だというのも判っている。
思いは同じだ。
それなのにどうして、こんな風にすれ違うのだろう。