トッキーと幾久
幾久は早速、多留人から貰ったボールで練習を始めた。御門寮の中は広いので、どこでも練習できるが、万が一にでも寮にぶつからないよう寮から遠く、門の近くで練習する事にした。
何度かはずませて手に持ち、幾久は足元にボールを落した。
「……よし!」
もうこのボールは扱ったので自信はある。幾久は昔よくやっていた技を繰り返しやってみた。
多留人と遊びながら勘を少し思い出したので、そのままのイメージで遊んでいると、門から時山が入ってきた。
「あ、先輩ちっす」
「おーっす。って、いっくん、なにやってんの?」
「リフティング」
「いや、見ればわかるけど」
時山が驚いたのは、その技術がけっこう凄かったからだ。
(これでサッカーやってなかったって?)
幾久は楽しそうに、あれこれ技を使っているが、もしこれを試合で使えるのならこっちのユースに入れるレベルだろう。
「いっくん、遊ばない?」
時山の誘いに幾久は首をかしげ、あっという顔をした。
「時山先輩、ユースでしたっけ、そういや」
「元、な。元」
今はもうサッカーはそこまで本気でやっていない。
入学した頃は本気でプロを目指していたけれど、伸び悩み、自分は選手になれないと気づいて逃げた。
それは納得した結果だけど。
「じゃあ、どうします?」
「いっくんから俺がボール取るよ。それでどう?」
幾久は「いっすよ」と笑う。
多留人と昔よくストリートでやっていた奴だ。
あまり動かず、相手の隙を狙ってボールを足で奪うというのは幾久も得意だ。
「じゃ、はじめよっか」
時山が言うと、幾久もスイッチが入った。
二人の勝負が始まった。
幾久がやけに上手いのは、見た瞬間に気付いたが、正直ここまでとは思っていなかった。
時山は幼い頃からずっとサッカーをやっていたし、上手いとか天才とか持てはやされていたこともあった。
流石にこの年になれば、自分がそこまでの物を持っていないのは判るし、それでもけっこう上手いつもりではいたけれど。
(いっくん、めちゃめちゃ上手くねーか?これ)
顔には出さないが、時山は少し焦っていた。
いくらユースを降りたからって、そこらの素人や普通の学校のサッカー部に負けるつもりは毛頭ない。
それなのに幾久の技は、正直言えば赤根より上だ。
(なんでこれでサッカーしてねーんだ?)
技術だけでいうならかなりのものだし、しかも時山の苦手なコースをさっさと呼んで嫌な場所に運んでいく。
やっているうちに段々テンションが上がってきたのか、動きが早くなり調子づいてきて、ボールを足で止め、隙をみつけて時山の股抜きを何回もする。
時山にもプライドがある。
顔に出さずにいたけれど段々上手い幾久に本気になってきて、かなり集中して本気になってしまった。
最初はおしゃべりしながらだったのが、会話が消え、スピードが速くなる。
なのに幾久はむしろ楽しそうで、笑って時山の相手をしている。
(コリャ、おいらの負けだわ)
あっさり負けを認めた時山は「ちょいタンマ」と動きを止めた。
「ご老体にはきちーわ。休憩していい?」
時山が言うと幾久は「いっすよ」と言って、近くの石のベンチに二人で腰掛けた。
「いっくん驚いたわ。かなりうめーな」
時山が誉めた。
「あざっす。でも時山先輩もうまいっすね」
にこにこと幾久は言うが、正直時山は複雑な気持ちになった。
(そりゃそうでしょ、ちょっと前まで本気でサッカーやってましたもん)
プロになるつもりだったのだ。でも、プロの選手になるには足りないと自分で気づいて、プロになりたいか、と問われればそうでもないと思ってしまった。
面白いことは他にもあった。やりたいこともあった。
嫌なこともあった。だから、もういいや、と思った。後悔はないのだけど。
(けど、なんでいっくんはやってねーんだ?)
自分のように嫌な理由があるのかも、と思った時山は幾久にそれとなく探ることから始めた。
「ボールどしたん?買ったん?」
「貰ったんすよ。東京の時のダチで、昔一緒のユース居たんスよ」
偶然福岡に来てて、という話に時山は頷く。
「いっくんユース居たんだっけそういや」
ユースはサッカーチームが自分の所で持っている育成機関だ。幼い頃から教育して、うまくいけば自分のところで選手が育つ。
時山も幼い頃から長州ケートスのユースで育ってきた。だから学校もそのままここを選んでサッカーを続けてきたのだけど、辞めることを選んだ。
幸い、サッカー辞めたら出て行けとは報国院は言わないけれど、だったら勉強しとけ、と言うのが報国院だ。
「オレのはコネみたいなもんすよ。父さんの後輩が選手で、そこのコーチしてたんで。その証拠に、プライマリしかユースじゃなかったんす」
「へー、どこの?」
「ルセロ東京」
「はぁ?!」
時山は驚いて声を上げた。
「ルセロ東京って……トップリーグじゃん!」
「そうっすよ?」
それが何か?という風に幾久は首をかしげているが、時山からしたらとんでもない。幾久の方が格上だからだ。
「ちょいまち。リーグ戦でも毎回トップ争いしてる、あのルセロ?アジアリーグで優勝したあの?」
「そうっすよ」
「おいおいおい、いっくんまさかのエリートかよ」
「だから、オレ、落ちたんすってば」
「そりゃ、ルセロの話だろ?!」
えぇえええ?と時山は驚く。そりゃ、ルセロなら判る。日本でもリーグのトップ、アジアでもトップで、ルセロの選手は海外に引き抜かれる事も多い。日本でトップクラスと言っても過言ではない。
ルセロを落ちても恥じゃない。他のチームもあるし、高校サッカーでだって出来たはずだ。
「勿体ねぇ」
時山はつい本音がこぼれた。
幾久が上手いのも納得だ。じゃあ、幾久は全然高校生なら行けたレベルだったのではないか。
しかし幾久は「そうでもないっす」と答えた。
「小学校上がる前かなあ。コーチに言われたんすよ」
「言われたって、何を?」
時山が尋ねると、幾久が答えた。
「オレ、ちっさかったしフィジカルよえーから、このままだと体が追いつく前に負けるし、プロになってもうまく行って二部どまり、しかも三十前には引退どころか、契約なくすレベルだって。死ぬ気で頑張れば、超高校生級のチームにはかろうじて入れるかもしれない、でもレギュラーは難しい。それでもやりたいか?プロ目指すか?本気で考えろって言われて、そこまでじゃないなあって」
その話を幾久に聞いて、時山は呆れた。
(いっくんってひょっとして、自分のポテンシャルに気付かないアホの子なのか?)
それとも異様に冷静なだけか。
プロがわざわざ言うのは、その可能性があるからだ。
つまり、幾久は時山くらいのレベルには全然なれて、しかも多分だが、そのままなら時山よりも赤根よりも上だったろう。
レベルが高い場所で、本気の大人に本気で言われて、下手に半端な才能があるばっかりに、真剣に大人は相手をして正直に考えさせたのか。
「受験もあるし、母親もサッカー嫌ってたし、まわりが馬鹿みたいに上手かったんで、オレには無理だなーって思ったんす」
そりゃそうだろ、と時山は呆れた。
(よりにもよって、ルセロならなあ)
オリンピックに出ても海外に出ていても、ルセロ出身ならやっぱりそうか、と思うレベルの連中がごろごろ存在しているのだ。時山もサッカーはしていても、レベルが違う。
時山が目指していたのはケートスの選手だ。それでも伸び悩んだのに、幾久が居たのは日本のトップクラス。全く居場所が違っている。
「選手になろーって思わんかったん?」
「なれる、とは言われました。でも、それでずっと飯は食えないって。ああいうの、判るみたいっすよ。才能ないって言われましたもん、オレ」
幾久はしれっと答えているが、時山にとってはレベルの違う話に驚くばかりだ。
幾久が話しているのは、幾久自信の経験からだから、そうたいしたことのないように聞こえるが、時山にとってはそういうことは、サッカー雑誌やテレビで聞くような内容で、つまり現実味がない。
時山は『サッカー選手』になりたかった。
幾久は『トップクラスの選手になれない』と言われた。
その違いに、時山は打ちのめされてしまった。
(……マジかよ)
これが田舎と都会の違いなのだろうか。ずっと地元に居て、地元で育ってサッカーやって、ケートスに所属する選手にでもなれれば、そのうち俺が一部に昇格させてやるよ!とか言って盛り上がっていた数年前の自分が、時山は恥ずかしくなってしまった。
幾久に罪はない。幼い頃からそういう環境だっただけだ。
幾久の所属した上の世界はシビアで冷静で、夢を見せてくれるサービスはついていなかった。それだけのことだ。
「それでも、頑張ればやれるって思わなかったの?いっくんは」
頑張ればどうにかなるし、やれる。そんな風に自分も少し前までは思っていた。でも、いろいろ違うことに気づいて辞めた。幾久はそうは思わなかったのだろうか。ひょっとしたら、とかは。
「ないっすね」
幾久はあっさり答えた。
「めっちゃ上手いやつが居て、あーこれは無理だ、って素直に思えたんで。努力もスゲーし、才能もスゲーし。オレにはこれはないって」
時山は思う。もし、幾久が自分のように、田舎の二部レベルにいたなら、妙な期待と希望を持って頑張ってしまったのかもしれない。
地方のサッカー選手で一生サッカーに関わって、地元に貢献とか思って、自分は頑張ってるぞ、と思えたかもしれない。
だけど幾久の環境はそうじゃなかった。
トップも海外も見据えた中で、「才能がない」とはっきり言われてしまった訳だ。
(厳しいなあ)
本当のトップリーグは、才能がなければ夢すら見せてくれないのか。それがいいか悪いかはおいといて。
「……いっくんって恵まれてるんだかないんだか、わかんない子だね」
「そうっすか?」
「人生ってわからんもんだなあ」
もし幾久がこの長州市に生まれて育っていたら、時山のようにケートスのユースに入って、蝶よ花よと大事にされていたかもしれない。
そして結局行き詰って、何が楽しいのか判らなくなって、自分みたいに別のものを楽しいと感じるようになってしまって。
「いっくんさあ、才能あったらもっとサッカーやりたかった?」
「どうかなあ。もしやりたかったら、才能関係なくやっただろうし、オレ、ほんと最近わかったんすけど、友達と楽しいサッカーできるから、サッカー好きになったのかもなって」
幾久は思う。サッカーは好きだし、多留人と遊ぶのは楽しかった。だけど多留人のような鮮やかな才能は自分にないし、あんな努力もできない。
あくまで幾久は、多留人のおまけのようなものだった。それに不満があったわけではないし、むしろ多留人と二人で決めるのは嬉しかった。
左利きの多留人にぴったりあわせられるのも、ずっと仲がよかった幾久だけだった。
「才能とかって言われても、正直オレ今よりもっとガキだったから意味わかんなかったし、今も多分よく判ってないんすけど、努力じゃどうにもならない部分が才能っていうのなら、それはなんか判る気がするっす」
幾久は言った。
「ハル先輩とか、瑞祥先輩見てるとそういうのなんか判る気がする」
誰かを強引に引き寄せる不思議な力。そんなものがある気がする。
「それが才能なのか、めちゃくちゃ努力した後の結果なのかはオレにはわかんないんすけど」
多留人は才能があると言われるのを物凄く嫌がる。
それは努力して得たものだと思っているからだ。
でも幾久はそうは思わない。やっぱり多留人は才能があると思うし、高杉や久坂が持っているものと、同じものを持っている気がする。
舞台なんか興味もなかったのに、久坂と高杉のロミオとジュリエットには、どうしようもなく引き込まれてしまった。
男同士で恋愛物なんて、しかも高杉がジュリエットなんて絶対に笑うだろ、と思っていたのに、あの二人は真剣に互いを恋人と認めて、誰も入れない空気を作った。演技の上手下手というよりも、説得力が違った。
「なんなんでしょーね、ああいうの」
「……そーだねぇ」
時山もそれを知りたかった。幼い頃は才能があるとか上手いとかさんざん言われてその気になった。
だけど上に行けば行くほど、あと一歩がどうしても届かなかった。
頑張れば届く、という言葉は虚しかった。
きっとそういうものじゃないと、判ってしまったからだ。
「よし、じゃあもうちょっとやるか!いっくん」
「ウス!」
二人は立ち上がり、ボールを蹴った。互いにパスを繰り返す、まるで昔からずっとそうしていたかのようだ。
(いっくんがもしもっと早く、長州市に来てたら)
時山は考えても意味のない事を思う。
そうしたらもっとずっと、楽しかったのかもしれないな。
いつから自分は、求められることだけやればいいと思うようになったのだろう。
最低限クリアすれば、それが賢いと考えるようになったのだろう。
なぜ、トップリーグのクラブにスカウトされたいと言わず、二部リーグのケートスを目指したのだろう。
叶う夢ばかりをわざと選んできたんじゃないのか?
とっくに考え終わったはずの事が、時山の中で動き始める。そうして気づく。
(おれって、考えて結論出したんじゃなくって、思考停止してただけか)
幾久はプロの選手に才能がないと言われて、それを受け入れた。かたや自分はどうだ。そんなプロに才能がどうなんて言われた事もない。
(あーもう、なんかスッゲーコンプレックス発動しそう)
とっくの昔に考えて終わったと思い込んでいたことが、幾久のせいで復活してしまった。時山は足を止めた。
「いっくん、わりーんだけど、ちょっと本気出してくんない?俺、いっくんとガチでやってみたい」
時山が言うと幾久は少し驚いたが、「いっすよ」と笑って答えた。
「じゃー、そのあたりからこっちに入ったらオレの負けで、時山先輩はあのへん」
「オッケー。マジで本気出して行くから」
時山はぐっぐっと膝を伸ばす。そのことに自分で気づいて笑った。いつも本気モードに入る時に身についたルーティーンだ。
(やっべ、俺本気じゃん)
「よっし!じゃ、やるか。いっくんからはじめていーよ」
「ウス」
幾久も目が変わった。いつものんびりして、のほほんとしているくせに、こんな目をするなんて知らなかった。
(ひょっとして、おいらが初めてかな?)
幾久がボールを蹴り始め、時山は遠慮なく本気を出して幾久にかかった。
さっきとはスピードも当たりも違う。幾久も本気で、遊び半分ではなくなった。
(本気でけっこうやるな、いっくん)
これは幾久が休んでいたからなんとかなるが、もしずっとやっていたら間違いなく負けただろう。
幾久のボール回しは異様に上手い。これより上手いとか、ルセロのユースどんだけだよ、と今更時山は思う。
体の動かし方や、ボールのあしらいひとつ取っても無駄がない。基礎がしっかりしているのだろう。
(あー、いいサッカーするねえ、いっくん)
これはいつかマジで試合してみてーわ、と辞めたはずなのに時山は思う。
二人は汗だくになりながら、抜いた、抜かれたを繰り返す。
「楽しいっすね、先輩」
「本当!めっちゃ、たっのしー!」
息は切れ、体は疲れているのに、ずっとサッカーをしていたい。ずっと感じることがなくなった、子供の頃の感情を時山は思い出す。
(なんで俺、辞めちゃったかな)
幾久とのサッカーに少し後悔しつつも、いまはただ、目の前の楽しそうな後輩を先輩の意地で負かせてやろうと必死になった。
「……あいつらはなにしちょんじゃ」
呆れる高杉はそう言いつつも、「しかし上手いのう」と感心して見ている。
「ホント、意外な才能だね」
あれならケートスのユースはいけたんじゃない、と久坂が言う。
どうも外が賑やかなので様子を見ると、いつの間に来ていた時山と幾久が、見事な接戦を繰り広げている。
二人とも必死すぎて、寮の玄関前でずっと観察されていることに全く気づいていない。
「いっくん、楽しそうだね」
「そうじゃの。生き生きしとるの」
普段は打ち上げられたマグロみたいなくせに、と高杉が言うと久坂が笑う。
「そりゃヒドイよ」
でもまあ、と久坂も笑う。
「暑い暑いって廊下でごろごろしているいっくんとは別人だね」
寮でだらけてカキ氷を食べながら昼寝を楽しむ幾久と、時山と細かい技を出し合ってサッカーのいい勝負をしている幾久はまるで別人にしか見えない。
「あの存在感を舞台で出せりゃ、ええとこ行くぞ」
高杉の観察に久坂も「そうだね」と頷く。
「直ちゃんも楽しそうだ」
年上の幼馴染がいろいろ悩んでいたのは二人とも知っていた。だけどどうしようもない事だから、ただ見守るしかしていなかった。
彼は彼なりに結論を出したのだろうと思っていたのだけど、あの様子を見ると少し違ったのかもしれない。
「いっくんって本当、変な子だよね」
「そうじゃのう」
特に変わった才能があるでなし、あるとしたら素直すぎる事くらいと思っていたのに、その素直な、時々子供じみた感性がまわりを巻き込んでゆく。
巻き込んだつもりでいたのに、こっちがひょっとして巻き込まれているのかもしれない。
「本当、面白い奴じゃ」
高杉が笑い、久坂も微笑んだ。
「御門っぽいよね」
「ああ」
そう二人が笑っていると寮から栄人が出てきた。
「もー!みんないい加減にしないとカレーくさっちゃうよ?ハルも瑞祥もいっくん呼びに行ったんじゃなかったの?」
そう出てきたが、高杉が二人の様子を指差すと、それを見て栄人も、仕方ないなあ、と玄関先に腰を下ろした。