報国院のピアノマン【おまけ父世代バージョン】
息子の幾久からの連絡で、級友が報国院に来ていたことを知った。
また論のやつが余計な事をしていないかと思ったが、幾久が会ったのは律だったらしい。
『一番まともそうなおじさん』とは息子の幾久の感想だが、実はアイツが一番手に負えないことを知ったら幾久はどう思うだろうか、と考えるだけで笑ってしまった。
ものすごく上手なピアノで、テレビでもやってたよ、というべたぼめの幾久の評価に、古雪は興味が出て、丁度配信もされていたので見ることにした。
画面に映るのはよく知っている相変わらずの面々と、そして懐かしい律のピアノ。
「めずらしいな、律がピアノを人前で弾くなんて」
超がつくほどピアノに関してはドケチで、なかなか弾いてはくれなかった。
ただなぜか、古雪が頼めば別で、他に人が居ない時に弾いてよ、と頼めば気軽に弾いてくれた。
音楽に詳しくなかった古雪は、この兄弟のおかげでいろんな文化に触れた。漫画に詳しいのは論で、サッカー漫画もよく知っていて、元々サッカーが好きだった古雪は一気にハマッた。
音楽は経、律の二人のスキルと知識が圧倒的で、寮にあるピアノをいつも弾いていた。
(そういえば、あのピアノはまだ寮にあるのかな)
毎日毎日、飽きることなくギターを弾き、ピアノを弾いていたあの三人を思い出す。
最初は面倒な連中と思っていて、それはいまも変わらないけれど決して嫌な思い出ではない。
あるとすればたったひとつ。それは古雪の人生すら変えてしまったことだけど。
その理由を当の本人は多分知らない。
古雪にとって、人生でもっとも幸福な時間だったあの頃を、いまは古雪の息子の幾久が経験している。
『父さん、オレ、このまま報国院に残りたい』
幾久がそう言った時、頭の中ではしてやったり、と自分の計画の上手さを得意に思ったのに、心の中はいきなり濁流に飲まれたようだった。
あんな感情はもう何十年も感じなかった。
本当にいいのか、と思いもしない言葉が出てきて、不安げな声に自分で驚いた。
だけど幾久はきっぱりと、強い意志を持って、しかも笑って答えたのだ。
『うん、あの学校がいい。先輩たちも、寮も、オレ、すごくすごく好きなんだ。父さん、ありがとう。オレ、あの学校に出会えてよかった』
いっきに泣きそうになったのを必死に堪えた。
そうか、決めたのか。良かった。
感情のまま抱きしめたいのをぐっと堪えた。
あの学校なら、東大もサポートしてくれるし、先輩の山縣君も居るんだ、心配ないだろう。
妻の手前、そうわざとらしく言えば、息子もそれに気づいたらしく、少しいたずらな顔で頷いた。
『そうだね。狙えるなら頑張りたい』
いつから策略を上手に練るようになったのか。そんなのは決まっている。あの学校のせいだ。あの学校は勉強も勿論だが、そういった余計な事をいつも先輩達が教えてくれる。自分だってそうだった。
どこか無気力で、そのことに自分でも気付いていないような息子は育てやすくはあったけれど、大丈夫だろうかという心配もあった。
中学の最後に問題を起こしたのはまずいけれど、父らしい仕事に思わず浮かれた。
今だってずっと浮かれている。息子があの学校に通っている。それだけで古雪には、どれほどの喜びが、きっと誰にも判らない。
だからもし、律の息子が報国院に入ったら最初に聞くつもりだ。なあ律、どんな気分だって。
多分自分と同じように思うに違いないけれど。
画面に流れる懐かしい曲に、古雪は目を細めた。
『ねえ律、ピアノ・マン、歌ってよ』
頻繁にねだった好きな曲を、律はいつもふたつ返事で弾いてくれた。卒業するときに一番残念だったのは、律のピアノがもう好き勝手に聴けないことだった。
番組の宣伝に、ライブの情報が流れた。どうやら東京でもライブがあるらしい。日付を見て、古雪はスケジュールを確認する。
もし行けるなら久しぶりに行ってみようか。
律のピアノがまた聴けるかもしれない。
(それに、桜柳祭もあることだし。幾久は部活は経済系と言っていたが、どこまで本当なんだか)
さて、ライブに息子の桜柳祭、ふたつの休みをもぎ取るのにどうすればいいのかな。
いつもならうんざりするスケジュール管理に、古雪はがぜんやる気になって、上司を言い負かす策略をあれこれ練り始めた。