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報国院のピアノマン

  夏休みの終盤から始まった部活は、昼から活動するとあって暑さとの戦いだ。

 特に今日は暑さと湿気が最高潮で、幾久は耐え切れず「購買行ってきます!」と挙手し強引に部活を抜け出した。

 暑さから逃げるかのようにダッシュで購買へ向かい、スポーツドリンクを買って冷えたものを一気に飲む。半分くらい飲んでやっと落ち着くと、今度は轟音と言っていい程の蝉の鳴き声に圧倒される。

「もー、なんで購買って白くまねーんだよ」

 入れてくれたらいいのに、帰りにマスターのとこ行こうかな、と好物のカキ氷を思い出しながら、幾久は暑い、暑い、と呻くように呟く。

 文句を言いながら夏休みで誰もいない校内をだらだら歩いていると、美しいピアノの音色が聞こえて幾久は思わず足を止めた。


 夏休みの音楽室なんて誰も居ないはずだ。

 それなのに綺麗な音と声が聞こえてくる。


 暑さを一気に忘れてしまう、涼しげな音と声に思わず聞き惚れてしまい、吸い寄せられるように、開けっ放しだった扉から入った。

 窓が開けられていたのか、涼しい風と音が、幾久とすれ違う。

 ピアノを弾いているのは、幾久の父くらいの年齢の男性だった。久坂のような肩までの長い髪で、一瞬女性かと思ったが、体つきでそうでないと気付く。

 細いけれどがっしりとしていて、白いシャツに細い黒のズボンにループ・タイという格好だ。

 地味なはずなのにどこか派手に見えるのは、かなり整った顔立ちのせいかもしれない。

 どこか中性的な、独特の雰囲気をまとっていた。


 ピアノを弾いていた男性は幾久に気付き、一瞬眉を上げたがそのまま歌い続ける。曲は聴いたことがある。

 有名な昔の洋楽で、父も好きな曲だ。

 タイトルも歌手も知らないけれど。


 honesty is such a only word

 Everyone is so untrue……


 声もいいけど、なんといっても素人でもわかるほど、すばらしく上手なピアノだ。曲が終わるまで一歩も動けず、幾久はその曲をずっと聴いていた。

 力強いのに物悲しいとでもいおうか。

 普通のピアノのイメージはか細いと思っていたのに、目の前から響く音は打楽器のように力強い音がする。


 曲が終わり、幾久がぱちぱちぱち、と拍手すると、男性はふう、と一息ついて、幾久に尋ねた。

「もう一曲、聴く?」

 うんうんと頷く幾久に、男は一瞬面くらい、そして笑顔で「OK!」と答えた。

「よーし」

 男性は再びピアノの前に椅子をひきなおし、両肩をくるりと回し、鍵盤の上に両手を置いた。

 そして口笛を吹き始め、鍵盤を叩きはじめた。


 物静かなさっきの曲とは違い、軽快な曲に変わった。

 物悲しさはどこかにあるけれど、明るく、弾むピアノの音が心地よい。こういうのはジャズ・ピアノというのだろうか。幾久はピアノに詳しくない。


 Sing us a song, you're the piano man

 Sing us a song tonight


 体全体でリズムを取りながら弾いている、そのスタイルも格好いい。まるでここが学校ではなく、どこかのコンサート会場のようだ。

 途中、幾久を見ながら微笑んで、何か喋るように歌っている。

 にこにことした笑顔にこちらもとられて笑ってしまった。


 途中の間奏も凄い。

 口笛を吹きながらピアノを弾き、足で床を叩き、リズムを取りながらペダルを軽快に踏む。

 幾久は夢中になってその曲と歌に聞き入っていた。


 曲が終わると男はピアノの椅子に腰掛けたまま、幾久の方を見た。幾久はそこではっと気付き、慌てて夢中で拍手を送った。

 男性はうやうやしく、頭を下げた。

 幾久は興奮冷めやらぬまま、男に言う。

「こんな綺麗なピアノと歌、はじめて聴きました!」

 男性は「そっか」と嬉しそうに笑っている。

「昔に流行った曲だよ。知ってる?」

 男性が尋ねたので、幾久は頷いた。

「どっちも、父さんがすごく好きな曲です。曲名とかは知らないけど」

「そう」

 男は微笑んで、幾久に言った。

「どっちもね、ビリー・ジョエルって人の歌だよ」

 なんとなく聞いた事があるような気がする。

 曲は間違いなく、知っているのだけど。

「きっと君のお父さんに、そう言えば判るよ」

 うん、と幾久はなぜか頷いた。その男性がとても

 優しそうな笑顔だったせいかもしれない。

 新しい音楽の先生なのかな、そう尋ねようとしたところで高杉の声がした。

「幾久!なにサボっちょる!どこおるんか!」

 うっかり音楽室に入り込んでしまったから、気付かなかったらしい。

「スンマセン、音楽室にいます!」

 そう言って音楽室から出て行こうとして、立ち止まり頭を下げた。

「あの、ありがとうございました!」

「どういたしまして。お客さんが居て嬉しかったよ」

 じゃあね、と男性は手を振り、幾久はもう一度頭をさげて音楽室を出て行った。

「ここっす!ハル先輩!」

 ばたばたと廊下を走っていく音がして、男性は頬を緩ませた。


(やっぱり幾久君か。同じ顔だからそうだと思った)

 にこにこと浮かれてピアノを弾いていたら、さっき幾久が出て行った扉から、見るからに柄の悪そうな男が現れた。ドレッド・ヘアのようなもじゃもじゃの髪に顎鬚、胸にACDCと書かれた黒いTシャツを着て、ずり下げたジーンズを腰ではいている。

 目つきは鋭く、凄みがある。ジーンズからはじゃらじゃらとチェーンがぶら下がっていて、見るからにだらしない、駄目な大人の空気が満載だ。

(ろん)

 ピアノを弾いていた男性が顔を上げた。

 もじゃもじゃ頭の男性は実は幾久が入学式で見た父の友人らしき、吉田栄人のつけたあだ名が『エアロスミス』の彼の名前はろんと言う。

 元、有名なバンドのヴォーカルで、いまはプロデュース業の傍ら、たまに別のユニットもやっている。

「おい(りつ)、なにやってんだ。プロがタダで弾いてんじゃねーよ」

 へっと頬をゆがませて言う。

 ピアノを弾いていた律という男は、実はとてもケチで、口癖が『プロは無料で弾いたりしない』なのに、この大サービスは何なのか。

 いくら母校でも、調律を頼まれた上に確認のためのピアノでも、わざわざ曲を弾いたりしない。いつもなら、音を確かめるくらいしかしないはずなのに。

 しかし、律、と呼ばれた男は、だらしない大人に得意げだ。

「なんだよニヤニヤしやがって」

 機嫌のいい律に気味悪がり、論が言うと律はにまあ、と笑って言った。

「いま、すっげえ観客が居たの」

「は?誰だよ」

 観客なんて夏休みの高校にいるはずがない。

 そう論は思ったのだが。

「だーれーだーとーおもーもーうー?お前、死ぬほど悔しがるぜ」

 律がこんなにもニヤニヤしてご機嫌で、しかも論が悔しがるなんてことは滅多に、というかひとつしかない。

「……おいまさか」

 嫌な予感ほど的中するのだ。

 論はごくりと唾を飲み込む。

 律は言った。

「乃木息子。おれめっちゃ褒められたんだぜ。こーんな綺麗なピアノと歌、聞いた事がないってさ。さっすが、俺の才能は親子二代虜にしちゃうね!」

 へへんと胸を張って威張ると、論は呆然とした後叫んだ。

「はぁああああ?!」

 さすがプロのヴォーカリスト、いい叫び声を上げてくれる。きれいに通る、腹からの声だ。

「いま夏休みじゃねえの?!幾久、なんで東京に帰ってねえの?!」

 乃木幾久の実家は東京にある。

 いま夏休みなら寮はきっと休みのはずだ。高校生なら夏休み間はずっと自宅に帰っているとそう思い込んでしょんぼりしていたのに、まさかここに居たなんて。

 律は耳をほじりながら言う。

「知らねーよ、なんか用事があってこっちに帰って来てんじゃねえの」

 突然、論が覚醒した。

「俺、幾久、探す!まだ、どこかに、いる」

 何族が喋ってんだよと思うほどの接続語のなさで論が言うと、律が呆れて怒鳴った。

「馬鹿言ってんじゃねーよ!もうすぐ移動しねーと間に合わねーんだぞ!」

 今日はこれから博多で仕事がある。

 移動の新幹線のチケットも用意してあるし、車だってもうじきここへやってくるのだ。しかし論はそっぽを向いた。

「お前と(けい)やんだけ行け。おれは腹痛」

「あほか!ボーカル居なくてどーすんだよ!」

 そもそも今日は深夜に生放送のテレビ出演がある。

 おまけに明日のライヴの準備もあるから前日入りは決定事項だ。

「なんでお前が歌っていっくんに褒められるんだよ!俺の!方が!上手いのに!」

「あーハイハイ現役プロですもんねー」

 論はヴォーカルとギター、律は基本ベースだが、ピアノも出来る。確かに歌だけなら、論の方が上手い。

 ただ、ピアノの弾き語りとなると、やはり雰囲気としっとりした声はピアノによく合っていて、そこだけは律の評価が論より上だった。

「お前なんか庶民のくせにぃいい!」

「せめて一般人と言え」

 律はすでにバンドを辞めて、普通(?)のよきパパをやっている。

 それでも音楽は好きなので、過去、バンドを組んでいたメンバーのうちの兄弟三人、長男の経、次男の律、三男の論で兄弟バンドを組んでいる。

 いまはその兄弟バンドの活動を一時的にやっている最中だ。

「いくひさぁああぁあああ!どこだぁあぁああ!」

「おめーそれだから嫌われるんだよ」

「はぁ?別に嫌われてなんかいないですもんね!」

 そう論は言っているが、幾久の入学式の時に一度あったきりだし(実際は赤ん坊の頃に全員会ってはいるが)幾久の父の話を聞けば絶対に幾久には嫌がられているはずだと律は思う。

 経も論も律も、幾久の父、古雪ふるゆきとは高校時代に同じ寮に所属していて、いつも毎日一緒で楽しく過ごしていた。

 いまだに時間をつくっては会う仲ではあるけれど、それでも学生時代のようにはいかない。

 全員、乃木古雪が大好きだった。だから当然、古雪のコピーのようにそっくりな幾久にも思い入れがある。

 ただし一方的な、だが。

「いいから行くぞ」

「いやぁ!乃木息子君に会いたい!会いたいぃいい!律っちゃんばっかずるい!ずるい!」

 怖い雰囲気とは裏腹に、まるで子供みたいに暴れだす。知らない人が見たらあまりの恐怖に近づけないだろう。だが昔からずっと一緒の律には見慣れた光景だ。

 基本、末っ子らしい我侭なところはあるが、ミュージシャンとして成功したから大抵の我侭は通ってきた。

 だが、さすがに昔からそうだったように乃木親子相手にはそう簡単に我侭は通らない。

「うるせー馬鹿」

 ったく、どっちがミュージシャンなんだかわかりやしない。こういうファン、昔いっぱいいたなあ、と思い出してしまった。

「さっさと行け!間に合わないだろ!」

「俺便所」

「……行けよ」

 ったく、ガキかよと律はため息をつく。

 論は教室を出て行くが、チェーンがじゃらじゃらとやかましくてまるで散歩中の大型犬のようだ。

 律は立ち上がって音楽室を見渡した。

 幾久の父と親しくなったきっかけも、さっきみたいな風だった。


 あの頃、律は悪戯をやらかして、あとで教師にめちゃめちゃ叱られた。そして乃木の父、古雪は、自分達の悪戯の後始末を確認させられに来た役だった。

「なっつかしいなぁ」

 昔、この学校に学生として所属していた頃、いたずらでピアノの調律を全部弄ってやった。こんな事が出来るのはこの学校で自分しかいないので、当然ばれてしこたま教師に怒られて、その後元に戻しておくように言われた。

 元に戻した後、調子を見ようと思って曲を弾いた。

 誰も居ないから、音楽室に一人きり、大好きなミュージシャンの気分でピアノの前に座った。


『今日は、ライヴに来てくれて本当にありがとう』


 誰も居ない音楽室でそう言って、自分で自分に拍手する。気分はもう武道館だ。

『今日は素敵なナンバーを贈るよ。でも、なにかリクエストはある?』

 耳に手を当てて、なにかを聞くフリをする。

 当然、誰も居ないので声なんか聞こえるはずがない。

 しかしまるでリクエストを言われたように、頷いて答えた。

『OK!じゃあ、リクエストにお答えして』

 くい、とピアノの上にマイクがあるように手を動かし、つぶやいた。

『1973年のビリージョエルのナンバーで、

 ―――――honeasty』

 正直、浸りすぎていたかもしれない。

 ただ、自分で言うのもなんだけど、とてもいい調律で、いい状態のピアノだった。

 もとから報国院にあるピアノは歴史がある、戦火を逃れた古いピアノで、そんなピアノを自分で調律したのだから、自分好みなのは当たり前だけど。

 大好きなビリー・ジョエルの気分でピアノを弾き、夢中で歌っていた。

 そして弾き終わり、歌い終わり。

 一息つくと、いつの間にか音楽室に誰かが入ってきていた。夢中になって弾いていたから気付かなかった。

 うわ、恥ずかしい、どこから見られてたんだ。

 逃げようと思ったのに、入ってきていたのは乃木古雪で、その表情は知っているいつもの仏頂面じゃなかった。

 ぱちぱちと無言で拍手するその表情はまるで初めてピアノを見た子供のように、笑顔で頬を染めていた。

 目はまるく見開かれてキラキラしていて。

 ―――――そう、まるでさっきの幾久のように。

(親子だなあ)

 自分はそのときも、同じように言ったのだった。

『……もう一曲、聴く?』

 そのときも幾久と同じように頷き、微動出せずにこの曲を聴いていた。

 そしてさっきと同じように、二曲聴き終わった後、すごい笑顔で律に言った。

『こんな綺麗なピアノと歌、はじめて聴いた!』

 満面の笑み、そして惜しみない拍手。


 ―――――なぁ、古雪


 律は、懐かしい彼の姿を思い出す。


(もしお前が否定しても、お前は間違いなく俺の最初のファンだよ)

 誰もが知る、仏頂面と冷徹な表情が代名詞のようなあの乃木古雪の、満面の笑顔と、きらきらした目が忘れられなかった。

 それまでずっと人前で音楽をすることに興味なんかなかったのに、兄弟のやるバンドメンバーに誘われて初めて興味が出て、乗った。それが過去の、『ピーター・アート』だ。

 それからうまいこと、バンドは波に乗り成功して、何度も、何人も、何万人も、日本でも世界でも、古雪のようなきらきらとした、同じようなたくさんの目を、武道館でもアリーナでもドームでも、国立競技場でもウェンブリーでも見たけれど。

 律は思い出す。

(でもステージに立つ前に、目を閉じて思い出すのはいつでもあのお前の顔だった)


 高校生の時に見た、あの惜しみない拍手と笑顔。

 息子もまるで同じだった。まさかあの顔が、あの表情が、同じ場所で見れるとは。


「さすが報国院。持ってるよな」


 まるで夢の中のお話のようだ。

 あの頃の自分に思わず重なってしまう。

 律はピアノの鍵盤を愛おしそうに指で弾いた。


『律、ピアノマン、歌ってよ』

 世界中で喝采を浴びても、古雪にそう言われればいつだって、律はただのティーンのピアノマンに戻ってしまう。


 楽しい幸せなあの頃の日々。

 あのピアノはまだ寮にあるのだろうか。

 あの寮は、いまはどんな風になっていて、誰が暮らしているのだろうか。

 ―――――なあ、古雪。

 来年にはうちの息子もお前の後輩だ。

(この学校に受かれば、だけどな)


 もしそうなったら、そして幾久と自分の息子が出会ったら、やはり昔の自分達のように、楽しく過ごす事が出来るのだろうか。


 律は鼻歌を歌う。

 さっきの替え歌は即興にしてはいい出来だった。

 持ち歌にして、今度古雪の目の前で歌ってやろう。

 きっと驚いて苦笑いするだろうけど。


「ラーララ、ディディダーァ」


 さあ歌おうピアノ・マン。

 母校で魔法にかけられた、その感情をそのままに、抱きしめて観客におすそ分けだ。


「律!なにやってんだよ!間に合わねーっつったのてめーだろ!」

 トイレから戻った論が律に怒鳴った。

「あーハイハイ、うっせえなあ」

 仕方ない、大人はお仕事に向かうとするか。


 律は立ち上がり、ピアノの上にカバーをかけると静かに鍵盤の蓋を閉じた。

 ことんという音に、律は微笑んだ。ピアノに手を置いて、また逢おうな、そう心の中で呟いた。

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