僕らはここに恋をする
今日は幾久のおかげでずいぶんと賑やかな夜になった。
少しは御堀に慣れてくれたらいいのに思ったが、御堀の思惑は見事にはずれ、幾久は外郎の食べすぎでダウンしてしまった。
それでもまあいいか、と思ったのは寮の皆が楽しそうで自分も楽しかったからだ。
ただ、今日台詞あわせもなにもできなかったので、結局振り出しに戻るのか、と思うと残念だった。
それともうひとつ、御堀には気になることがあった。
『二面性じゃないけど、人によって雰囲気が変わるけど、あれみたいなもの』
深夜の自室で、天井を見上げ御堀は幾久の言葉の意味をずっと考えていた。
幾久が言ったのはあくまで自分の寮の先輩たちのことで、御堀のことではない。
なのに御堀は、いつか姉に言われた言葉を思い出していた。
『ほま、アンタこのままじゃ駄目になる』
姉が唐突に、意味不明なことを言い出すのはいつものことだ。
中学の進路相談をした頃の事だった。
自分でも周りも、地元の私立高校に通うものだと思い込んでいた。
そのほうがサッカーも続けられるし、家からも通える。皆喜ぶからそれでいいと思っていて、そうするつもりだった。
だけど姉はそれに反対した。
過去、姉は家族の反対を押し切って、長州市の学校へ進学した。
私立の女子高で、成績優秀者は学費が殆どかからない上に生活費の一部支給まであるという、変わった学校に行きたいと言った時、誰も姉を止められなかった。
大人の言い訳をすべて先手を打って潰し、姉は自由な三年を手に入れ、更に大学も勝手に決めた。
もともと奔放な性格だったけれど、高校時代を重ねて一層強くなったようだった。
『ほま、アンタ報国院に行きな。あそこなら誰も反対できない』
報国院の姉妹校であるウィステリア女学院に通っていた姉はそう言い、強引な姉はほとんどそのとおりに薦めてしまった。
御堀は別に、どこでも良かった。ただ、姉の言う事は昔から絶対だったので、逆らうという事を考えなかっただけだ。
ただ、学校見学で姉と一緒に報国院に来た時に、考えが変わった。この学校がいいと思った。
周防市よりも都会だったからかもしれないし、雰囲気が良かったせいかもしれない。
だけど、初めてこの町を見渡したとき、姉ちゃん、ここ雰囲気いいね、そう告げると姉はにかっと笑って『だろ?ほまは絶対に気に入ると思った!』と言った。
その時、御堀の本当の気持ちに気づいていたのは自分でも誰でもなく、姉なのだと気づいた。
―――――逃げたかったのだ。
未来の跡継ぎと担がれて、どうあるべきというのを無意識のうちに察してそうする子供だった。
そうすれば皆喜んだし、うまくいった。それでいいはずだった。
和菓子屋の子が泥で汚れるなんてイメージが悪いわねえ、そう意地悪く言ったどこかのおばさんの言葉が、泥団子を作って遊んでいた、幼い誉の心に刺さってもう二度と泥なんか触るまいと思った。
そんな誉の手を引いて、連れて出たのは姉だった。
ねえ誉、サッカーしよう。
サッカーなんて知らない誉をそう言って強引に連れ出した。雨上がりのグラウンドで、姉はそう言ってボールを用意して、わざとみたいに誉と泥だらけになって、誉は初めてのサッカーに夢中になった。
ボールを蹴っ飛ばし、何も知らずに手を使ってボールを抱えて、転んで、服が汚れて泥だらけになって。
初めてのめちゃくちゃなサッカーはとても楽しかったけれど、泥だらけで絶対に叱られると思ってびくびくしながら家に帰ると、顔まで泥で汚した姉が、得意げに両親に言った。
『ねえ、ほまサッカーの才能があるよ!今度さ、ユースの試験、受けに行こう!』
姉弟そろって泥だらけなんて、いつもなら絶対に叱られるはずなのに、姉の言葉に両親は喜んで、それはいい、とすぐ手配を始めた。
誉はサッカーに夢中になった。人とぶつかっても、何かを蹴っても、泥だらけになっても誰にも文句を言われない、それどころか褒められる。
一人になりたかったら、ボール蹴ってくる、その一言で誰も邪魔しなくなった。
これまでは坊ちゃん、どこに行きなさるんで、坊ちゃん、お気をつけて、何をされているんで、坊ちゃん、お一人で出かけては、坊ちゃん、坊ちゃん、坊ちゃん。
ああ、あの家の坊ちゃん、道理で、いつもお綺麗でいらっしゃる。
うるさい。
お前らがそれを求めて強要して、望んだとおりに動かなければそんな子じゃないでしょ、と押し付けるくせに。
最初から自由なんかなにもなかったのに、お前ほど恵まれた子はいない、才能もあって外見も良くて頭もいいし自慢の跡継ぎだなんて。
(僕は、自慢の道具じゃない)
都合のいい誰かの道具でしかない。それに気づいて耐えられなくなった。
家から遠い報国院のある、この町に添う青い海を見たとき、いつだって海に行けるという事が、御堀にはどうしようもない自由に思えた。
一度なにもかも切ってみよう。そう思って誘われたケートスのユースも切った。勉強が忙しいので、とトップを取れば、誰もなにも言わなくなった。
そして誉に残ったのは一体何だったのか。何もない。
結局、誉は嫌でも和菓子屋の跡継ぎとして育てられた、『跡継ぎ坊ちゃん』の自分しか持っていなかった。
あんなにも嫌った跡継ぎの自分を、学校でも寮でも発揮して、大人しくて穏やかな自分をいまだ捨てられずにいる。
大人に舐められない様に、大人が思う『どこか有能そうな若者』を演じ続けてきた。
父に連れられて行くパーティーに嫌気が差しても逃れられず、香水と化粧のにおいを振りまくご婦人連中のおもちゃにされるのが判っていても、つきあいだから出ろと言われて。
『二面性じゃないけど、人によって雰囲気が変わるけど、あれみたいなもの』
幾久は鋭い。よくぞ御堀の隠していたものを見つけ当てたものだ。
今やっと御堀は気づいた。望んでいた学校に来たはずなのに、なぜか育った場所から離れている気がしなかったのは、このせいだった。
(僕が、自信がなかっただけだ)
これまで嫌がっていた自分から逃れるためにここに来たのに、結局嫌いな自分を出していた。
ロミオとジュリエットという舞台で、自分が求められるのはきっとこんな役のはずと思って、大人ぶってスポンサー連中を喜ばせてやろう、それで見下せばいいと思っていた。
でも結局それは、スポンサーが怖いからだ。
求められているのは御堀が大嫌いな『王子様のような跡継ぎ坊ちゃん』なのに、御堀は自分から、処刑されに行ったようなものだ。
たぶん幾久が照れている、迫力があると感じているのは御堀のそんな『自分が演じている大嫌いな大人ぶりっこ』の部分だ。
目がさえて、御堀は時間を確認した。
もうすぐ、いつも見ているサッカーの番組がはじまる時間だ。
録画しているから、無理にこの時間に見る必要もないのだけど、こんな風に眠れなくなった夜、御堀は一人、談話室で過ごすことがたまにあった。
寝付けなくなり、御堀は起きることにした。
深夜の桜柳寮はとても静かだ。足音を立てないように階段を降り、談話室に入る。
(時間あるし、ちょっと練習でもするか)
幾久と練習した台詞が御堀の中で重なった。
御堀はひじをテーブルにつき、ため息を吐き出してジュリエット、つまり幾久の台詞をつぶやく。
「……どうやってこんな場所まで?塀は高くて登れないはず、それにお前の立場を思えば、ここは処刑場みたいなもの、もし誰かに見つかりでもしたら」
処刑場は育ったあの場所だったはずなのに、逃れたはずの報国院で似たような役を演じている。
しかも自ら望んで。何のために逃げて来たんだ。
ここに来た理由がもう判らない。
御堀は自分の台詞を続けて喋った。
「塀なんて、恋の翼で飛び越えてしまったよ。どんな石の壁だって僕の恋を阻むことはできやしない。君に会うためならどんなことだってしてみせる」
こんな感情を抱えたロミオがうらやましい。どんな情熱があれば、敵で、しかも殺されるかもしれないという相手の家に忍び込めるのだろう。
どんな陳腐な台詞だと、自分に重なる前には思っていた。
でももし、自分に情熱があればロミオの感情を理解することができるのだろうか。
逃げたいと望んで逃げてこの場所へ来たのに、まだ逃れられずにいる御堀には判らない。
「御堀君?まだ起きてたんだ?」
幾久の声に御堀は驚いて顔を上げた。
「乃木君こそ」
「オレ、寝てたせいか眠くなんなくて。御堀君は台詞の練習?凄いね」
本当はしなくちゃいけないのに、オレのせいでごめん、と幾久は謝る。
謝らなくてもいい、と御堀は言う。だって幾久に罪はない。あるとすればそれは、大人ぶって周りを無駄に威嚇しまくっている自分だ。
(乃木君に、嫌われなくて良かった)
御堀は思う。きっとこんな無意識の威嚇を、幾久は察して怖がっていたのだろう。
こんな風な自分のままでいたら、きっといつか嫌われていた。そうなる前にまだ、気づけてよかった、と御堀は思った。
(どうすれば、こんな自分を治せるだろう)
染み付いてしまったものを、すぐに治すのは難しいだろう。だったら意識しなければ。
嫌いな自分にはなりたくない。
「オレ、相手したいけどちゃんと覚えてなくて」
幾久が困った風に笑うので、御堀は首を横に振った。
「居てくれるだけでいいよ。台詞は教えるから、なんとなく覚えてるところだけ付き合って」
「うん」
幾久は御堀の隣の椅子に腰を下ろした。
「さっきの、『うちの連中は』からでいいよね」
幾久の問いに御堀が「そうだよ」と頷く。
「じゃあ、オレが言うね。……うちの連中は、お前を見つけたらきっと殺してしまう」
御堀は続きの台詞を言おうとして一瞬口ごもった。
あまりに今の自分と重なったからだ。
すう、と息を吸って、吐いて。
幾久を見つめ、御堀は丁寧にロミオの言葉を紡いだ。
「どんな剣よりも君に嫌われるほうが僕には怖い。どうか僕に優しく笑って」
そうだ、幾久に嫌われるのが怖い。
ロミオと同じように。
御堀は心からそう思った。
幾久は短い台詞なら覚えているのか、答えた。
「絶対に見つかっては駄目だ、ロミオ、」
幾久の、正しくはジュリエットの気持ちが伝わってきた。心配されるのは、心地が良かった。
御堀は首を横に振って、ロミオの言葉に自分の感情をそのまま乗せた。
「夜の闇が僕を包んでくれている。でも君が僕を愛してくれないのなら、見つかって殺された方がマシだ」
どうか、今、嫌いな自分が出ませんように。そう願いながら御堀は言葉を続ける。
幾久は台詞を言った。
「ロミオ、誰がお前をそそのかしてこんな場所まで」
「恋だよ」
急いたように、御堀は呟く。いつもの余裕はなぜか無かった。
「そそのかしたのは、そうだね、言うなれば恋の神、キューピッド。あなたを見つけたのはそのせいだよ」
(そっか。恋だ)
御堀は気づいた。
どうして自分がここを選んだのか。報国院がいいと思ったのか、いま初めて、やっと気づいた。
(僕はここに、恋をしたんだ)
御堀は思い出す。
初めてこの場所へ来たときの事を。
眼前に迫り来る、鮮やかな海の青、海をゆく船、山から下りてくるやわらかい風、神社の中にある学校に土塀、石畳の道、川沿いの木々―――――
キューピッドは姉、御堀はそそのかされてしまった。
(僕は、だから)
大嫌いな自分から逃げたかった。でも諦めていた。
だけどそれとは別に、御堀はこの場所に恋に落ちた。
「御堀君?」
台詞を続けず黙った御堀に、幾久が心配そうにこちらを見ている。だけど、御堀は台詞もなにもかもが飛んでしまった。
恋に気づいた。これが恋なんだ。
御堀は穏やかに微笑んだ。
(だから僕は、ここを選んだ)
途端、もう大丈夫だと信じた。
誰が恋した場所に対して、無様な自分など見せるものか。
「大丈夫」
もう幾久は大丈夫だ。たぶん御堀を怖がることもない。
御堀は二度と、幾久に間違えた威嚇なんかしない。
「悪いけど、もう一度台詞、やり直していい?」
御堀の問いに、幾久はうん、と頷く。
「眠くないし、いいよ」
「そっか、ありがとう」
今なら、これからも、御堀はきっとロミオの気持ちがもっと理解できる。なぜなら自分もそうだからだ。
聞いてみたい、と御堀は思った。
ねえ、乃木君。
君もここに恋をして、東京から来たの、僕みたいに。
そう聞いたら、どんな顔をするだろう。
やっぱり照れてしまうのだろうか。
同じ理由ならいいのにな。
御堀はそう思ったのだった。