この寮、本当に大丈夫?
食事を終え、満腹になった後は麗子がコーヒーをいれてくれた。
宇佐美はそれを断って、仕事があるからとすぐに帰っていった。
コーヒーはインスタントじゃない、ちゃんと豆を挽いて、コーヒーメーカーを使わずに、喫茶店みたいに手でたてたやつだ。
それを全員が、なんの疑問を持たずに飲んでいる。
「あの、ここっていつもこんななんですか?」
「こんなって?」
栄人が聞く。
「だから、食事」
「まっさか。今日はいっくんが来るから、大ご馳走だっただけで」
「ですよね」
あんな食事が普通にあるわけない。そう思ったが。
「普通はお刺身ったら、ふぐはあんま出ないけど、他はいつもどおりかなあ」
「え。刺身フツーにあるんすか」
「うん、フツーにあるよ?」
「ふぐのみそ汁とかも?」
「ふつーによく出るけど?」
な、と栄人が高杉に言うと、高杉が頷く。
「こういうメニューだったら、いつもは鯛の吸い物だけどな」
鯛、だと?!鯛のお吸い物なんて、料亭くらいでしか出ないんじゃないのか?幾久は驚くが、皆それをおかしいとは思っていないらしい。
すごいなここ。
竜宮城に来た浦島太郎ってきっとこんなだったんだろうなあ。
そりゃ戻らないわ。
肉派だった幾久だが宗旨替えしそうになるほどのおいしさだった。
というか、母親が魚嫌いで滅多に魚が出なかったので余計に自分も肉が好きだったのかもしれない。
「あー、今日はいい鯛がなかったって言ってた」
言っていたのは魚を持ってきた宇佐美だろう。
「それでか。ふぐの刺身にふぐのみそ汁ってくどいと思った。幾久が来るからあえてそうしたのかと」
「そういえば、鯛の刺身もなかったよね」
久坂が言う。
「いい鯛が手に入ったらリベンジするって言ってたから、そのうち持って来んじゃね?」
と、からりと襖が開いた。
「じゃあ、みんな、私帰るわね」
「はーい」
全員が返事をする。
え?帰るって?寮母さんじゃなかったのか?
「おやすみなさいね」
そう言って麗子は襖を閉めた。
「あの、」
幾久が栄人に尋ねた。
「寮母さんなのに、ここに住んでないんですか?」
「この寮の向こうに家がもう一軒あるんだよ。この敷地内だけど。麗子さんはそこに住んでる」
じゃあ、夜は誰も大人が居ないのか。
高校生だけで大丈夫なのか?
そう思うが誰もおかしいとは思わないらしい。
「じゃあ、消灯とかは?」
プリントには消灯や起床の時間もきちんと決まっていたはずだ。
「んなもん、電気消しゃ消灯だろーが」
山縣が、やはりゲームから目を離さずに言った。
「管理は?」
「自己管理」
栄人が言う。
「大人がいないとか」
「すぐ近くに麗子さんがいる」
高杉が言った。
「そんなんでいいんですか?」
「この寮はそれでいいの」
にっこりと微笑んで久坂が言うと、高杉が言った。
「けど、おおっぴらに言うなよ。馬鹿が来ても困るけ。隠してるわけじゃねーけど、オフレコ」
隠してんじゃん、と思ったがあえて言うまい。
別に自分だってトラブルを招きたいわけじゃない。
それにどうせ、そんなに長居する予定じゃない。
だからあえて自分から火種を撒き散らすつもりもなかった。
食事は最高だし、コーヒーもおいしいけど、だからといって自分の人生をここで傾けて良いわけもない。
「そういや風呂、どうしようか?」
久坂が尋ねると、高杉が言った。
「幾久一番風呂だろ。その次にわしらが入って、次お前らな」
「風呂、狭いんですか?」
寮と言えば広そうなのに。
「でかい風呂もあるけど、いま人数少ねえから小さい風呂使ってんの。ほら、お前一番なんだからちゃっちゃと入って来い」
さっき風呂の場所だけは教えて貰ったので、幾久は着替えとタオルを持って風呂場へ向かう。
風呂場は普通の家庭にどこにでもあるような風呂だ。
「洗濯物そのカゴにほうり投げちょけ。全員一緒に洗うから気にすんな。あと、タオルとかその棚にあるの適当に使え。ドライヤーとか化粧水とか、そこにあるのも使って良い」
「でも、これって個人の物じゃないんですか?」
「この寮は、使われたくない物は個人で全部管理しろって事になっちょる。つまり、置いてあるものは誰が使っても文句は言わん」
「はぁ、」
「じゃけ、お前もそうしろ」
言われて風呂の戸を閉められた。
(変わってるなぁ、確かに)
風呂場には緑のボトルのシャンプーがあって、それで幾久は髪を洗った。
ああ、良い匂いするなあ、なんかいいっぽい感じのシャンプーだ。
風呂もこの寮の外見からは思いつかない新しい、というか最新式と言ってもいいくらいのシステムバスだ。幾久の住んでいたマンションより随分といい。
一人何分なのか聞いていなかったけど、あまり長湯をするわけにもいかないので、幾久はある程度浸かったら早めに出ることにした。
風呂には広めの洗面台があり、棚にはいろいろ置いてある。
化粧水に整髪剤、香水に髭剃り。ドライヤーで髪を乾かし、化粧水をちょっと使わせてもらった
これもいい匂いがする。
高杉は見るからにお洒落そうな感じだし、久坂もイケメンな上にピアスをしているくらいだからやはり外見には気を使うのだろう。
栄人もちゃらい風だし、彼女もいそうな感じなのできっとあれこれ使うのだろう。
ただ、山縣は外見を気にしない風なので、使わないのかもしれないな。
「お風呂、お先、でした」
「おう、じゃ、入るか」
「ん」
高杉と久坂が一緒に風呂場へと向かう。
山縣は寝っ転がってゲームを持ったままだし、栄人はのんびりとテレビを見ている。
「アニメっすか?」
「そー。ここ、ケーブル入ってっから」
見たいのある?と番組表を渡された。
「あ、じゃあ、サッカーかな」
「サッカー好き?じゃ、かえよっか」
栄人がサッカーの番組に変えてくれた。
「サッカー部に入りたいとかあんの?」
「いや、オレ見るだけです。子供の頃は習ってたけど辞めちゃって。漫画とかもたまには読みますけど」
小さい頃はそういった習い事もしていたけれど、中学受験と同時に辞めたのだ。
「キャプ翼?シュート?リベ武?ジャイキリ?十一分の?アオアシ?青山君?」
「へ?」
「漫画だろ?」
栄人の問いに、山縣が頷く。
「どれだよ」
「どれだよって……あんま漫画知らないんすよ」
母が漫画嫌いというのもあって、家では読まなくなっていた。
無料配信のものを見たり、クラスメイトにたまに借りたくらいだ。
キャプ翼は確か、父が持っていたのを昔読んだのを覚えているが、いつからか読まなくなっていた。
そういえば父は未だに買っているのだろうか。
父の部屋には入らないので何があるのかは知らなかった。
「ジャイキリとアオアシも知らんって、サッカー好きならそん位は読めよ」
「はぁ」
「いっくん漫画好きなら、山縣に読ませてもらったらいいよ。こいつすっげえ漫画持ってるから。面白いのもよく知ってるぜ。オタクだからな」
オタク。確かにそういえばそんな風かも。
「読むなら手を洗え食いながら読むな本を伏せるな折り曲げるなカバー失くすな」
一気に言う山縣に、幾久はやや引くが、栄人は楽しそうに言う。
「あははー。おれ、カバーに付いてる、あの、なんかあんじゃん?新しい本とかについてる文章だけのとかあのおまけ」
「帯。おまけじゃねえわ」
山縣がやはり不機嫌そうに言う。
「あれいらないだろと思ってさぁ、勝手に捨てたらえっらい怒られたわー、いっくんも気をつけてね!」
「普通捨てるかボケ」
「いやー普通捨てるでしょ」
普通捨てるもんじゃないのか、と幾久も思ったが、山縣が不穏な空気を出していたので答えなかった。
高杉と久坂が風呂から上がってきて、幾久が驚いたのは久坂の格好だ。高杉は普通にラフなスウェットの上下なのに、久坂は浴衣を着ている。
しかもすごく渋い奴だ。裾はすこし短いがああいうものなんだろうか。
「あはは。いっくん久坂に引いてる」
栄人は笑うが、いや、引いては居ない。
いや、引いてはいるのか?というのかイケメンが着物着ても、いっそうイケメンっぷりが引き立つというか。
「ほんっと、イケメン、っすね、久坂先輩」
「着物効果だろ」
高杉が突っ込むが、いや、絶対にそれもあるけど、それだけではないと思う。
「ハルの言うとおりだから」
「そうそう、日本人なら着物着りゃ三割増にイケメンだわ」
だったらイケメン十割な久坂は着物効果でイケメン十三割じゃないか。
「おれらも風呂はいろっと。山縣いこいこ」
「おう」
栄人が言うと、山縣はゲームを持ったまま立ち上がって風呂場へ向かう。
携帯ゲームをまだ手放していないが、まさかずっと持ち歩くつもりなんだろうか。
部屋から栄人と山縣が出て行ってから、幾久は高杉たちに尋ねた。
「山縣先輩って、三年なんですよね?」
「おお」
高杉が答える。
「高杉先輩と」
「ハル」
高杉が訂正する。幾久は言い返した。
「……ハル先輩と、久坂先輩と、栄人先輩は二年、ですよね?」
「そうだけど」
久坂が答える。
「あの、なんでみんな山縣先輩の事、先輩って呼ばないんですか?」
二年生なのに、誰も山縣に「先輩」をつけていない。
「ああ、それは」
久坂がいう言葉に、高杉が乗っかった。
「だってワシ、あいつの事好かんし」
「はぁ?!」
高校生にもなって悪口?と幾久は驚く。
だが高杉と久坂はけろっとして言う。
「とにかくうざい」
「まあ確かに」
と、久坂が頷く。
「うっとおしいし」
「確かに」
「自分勝手でマイペースでローカルルールにうるせえ」
「ネットスラング多すぎ、思考回路独特すぎ」
「あと、言葉の使い方がたまにおかしいんじゃあいつは。しねってすぐに言うのもどうかじゃ」
「あれちょっと酷いよね。本人は軽いスラングだって言うけどさ」
「軽くねえよな。そういうのはネット上だけで言っちょけって」
気分悪いわ、と高杉は言う。
「あの、そういうの、オレどうかと思う」
「じゃよな?」
頷く高杉に、幾久はそうじゃなくて、と言う。
「本人いないのに悪口平気で言うあんたらもどうかだし、そういう相手に平気な顔して付き合うのもどうかだろ」
別に正義を気取っているわけじゃない。
だけどあんな風に、普通に付き合っているようにしか見えないのに影でこんな風に悪口を叩くなんて、そういうのはおかしいと思うし、自分は参加したくない。
ここ最近、幾久自身が覚えの無い悪口を言われていたから余計にだ。
生意気だとか言われても構わない。どうせ辞めていなくなる場所だ。
だったらこんな気分の悪いことを、我慢なんかするもんか。
幾久が言いかえしたことに驚いたのか、高杉は黙って幾久を見た後、久坂を見た。
だが、久坂も幾久をじっと見つめて、その後まるで合わせ鏡のように、同じタイミングで高杉と見詰め合った。
なんだよ、とやや幾久が引くと、二人は突然、「ぶはっ!」と噴出して同時に爆笑した。
げらげらと笑い続ける二人に幾久はなぜかいたたまれなくなってしまう。
「な、なにがおかしいんすか!」
「や、だって……っ」
腹を抱えて久坂が笑い、高杉も笑って言う。
「幾久、真面目……っ!マジ、真面目!」
幾久はかっとなって怒鳴った。
「ふ、ふっつーだろ!普通だよ!こんなん!」
「いやーマジ幾久って、真面目!」
まだ高杉は笑っていて、久坂も言う。
「ほんっと、可愛いなあ、栄人がいっくんって言うのわかる。僕も今度からいっくんって呼ぶ」
駄目だ、おなかいたい、と久坂が笑い続けている。
げらげらと二人が笑い続けていると、風呂から上がってきた栄人と山縣が不思議そうに二人を見た。
「……なに、ウケてんの?」
「久坂が笑うとか。きめえ」
心底嫌そうな顔をして山縣が言う。
やっぱり手にはゲームを持っている。
「や、それがさ、お前の悪口言ってたらさ、幾久がお前を庇ったんだよ」
なんだこの人たち!
普通、悪口言った相手に直接そんな事言うか?驚く幾久に山縣も目を丸くしている。
「は?」
山縣がゲームをちゃぶ台の上に置いた。高杉が言う。
「幾久がさ、わしら二年なのに、三年のガタ呼び捨てなのはなんでかって言うから、そりゃーガタ嫌いだからだっつってお前嫌いな理由言ったら、そういう事言う、わしらがどうかで、平気でガタと付き合うのもどうかだって」
山縣がじっと幾久を見つめた。
あれ。この人タレ目だ。そういえば山縣はずっとゲームばかりしていたから、まともに顔を見たのはこれが初めてだ。
山縣は幾久に言った。
「真面目きめぇ。正義厨かよ」
幾久の頭の中で、ぴきっとなにか音がした。