暗躍
彼には、隠し扉を探索する技能などない。
魔法で隠蔽されていれば探知もできるが、人の手で巧妙に隠されていては、なかなか見つけられない。
一見ごく普通の民家であるこの家の主リパラー・ヨゥロに問い掛けても、隠し扉のことは話してくれそうになかった。
だから、彼はリパラーの妻を捕らえ、話さなければ殺す、と脅した。
隠し扉が開かれる。
その時点で彼は、リパラーの妻の、両手両足と喉を焼いた。
逃げられるわけにも、助けを呼ばれるわけにもいかない。
掴み掛かってきたリパラーの両腕も、焼いた。
あと少しの間だけは、殺さない。
確認しなければならないことがある。
隠し扉は、地下室へ続くものだった。
リパラーとその妻を先に蹴り転がし、彼も地下室へ降りた。
かび臭い広大な地下室である。
一体、いくつの本棚があるのか。
そして、何千冊の本が置かれているのか。
おそらく、この全てが、ヨゥロ族についての記録なのだろう。
「……余計なことなど、考えなければ良かったのにな」
ヨゥロ族は、憎い。
殺しても殺し足りない。
他の種族への憎しみはない。
ヨゥロ族に迫害され、追放された者には、憐れみさえ感じる。
苦痛と憎悪で表情を歪ませたリパラーの頭髪は、くすんだ緑色だった。
肌の色は、他のラグマ人と変わらない。
リパラーは、先祖に追放されたヨゥロ族を持つ。
決して、ヨゥロ族ではないのだ。
リパラーの妻の方は、ヨゥロ族の血が流れてはいない。
殺したくはない。
だがリパラーは、ヨゥロ族の秘匿についてのことを知っている。
それだけならまだ良いが、リパラーは秘匿を、シーパル・ヨゥロに伝えようとしている。
それで、消さなくてはならない存在となった。
彼は、地下室を見渡した。
「ヨゥロ族についての記録は、これだけか?」
リパラーが、憎々し気な視線を向けてくる。
「……ああ、これだけだ」
「……本当に?」
彼は、弱々しく呻くだけのリパラーの妻に、掌を向けた。
「待て! やめてくれ! 本当だ! 本当にこれだけなんだ!」
リパラーが青冷め、唾を飛ばしながら喚くように言う。
「……わかった、信じるよ、リパラー。けど、大声を出すのはやめてくれ。わかるな?」
「……あ、ああ……わかった……」
「秘匿について、誰かに話したか?」
「……誰にも、話していない」
「小学校に通う子供が、二人いるな、リパラー」
「なっ……!? 待っ……!」
「今頃、朝の授業を受けているところだろうか?」
「やめ……やめてくれ……頼む……頼む……」
リパラーは、這いつくばり、焼け爛れた両手を組み合わせて、涙ながらに懇願してきた。
「……まだ……誰にも話したことはない……頼む! 信じてくれ!」
「パナ・ヨゥロにも?」
「話してない!」
「……そうか」
嘘はついていないだろう。
這いつくばったままのリパラーを見て、彼はそう判断した。
リパラー・ヨゥロ。
なぜヨゥロ姓を名乗るのだ、と彼は思う。
ヨゥロ族がどんな仕打ちを先祖にしたか、知っているだろうに。
リパラーが、顔を上げた。
「……君が、ヨゥロ族を壊滅させたのだな」
「そうだよ」
隠すつもりもない。
リパラーの瞳に映る彼が、頷く。
緑色の頭髪に、青白い肌。
リパラーも、リパラーの妻も、彼のことを見てしまった。
ヨゥロ族ではない者を無闇には殺したくはないが、殺さないわけにもいかない。
記憶操作の魔法は、少し準備に手間が掛かる。
時間がないのだ。
間もなく、シーパル・ヨゥロがここに到着する。
(シーパル・ヨゥロか……)
ヨゥロ族族長候補だった男。
従兄弟であるパウロ・ヨゥロが死亡した現在、最も秘匿に近い存在だろう。
殺しておくべき者だが、彼が手を下す必要などない。
シーパル・ヨゥロは、ズィニア・スティマが殺そうとしているのだから。
ズィニアならば、彼よりも確実に殺してくれる。
人を殺すという一点において、ズィニア以上の存在などこの世にいない。
ソフィアよりもザイアムよりも、あのストラーム・レイルよりも、ズィニアは人殺しが上手であるはずだった。
ズィニア・スティマは、最悪の殺し屋なのだから。
(シーパル・ヨゥロは、ズィニアに任せればいいとして……)
リパラーとその妻の方は、そうはいかないだろう。
シーパル・ヨゥロが来る前に、消す。
この大量の蔵書も、処分しなければならない。
(やはり、燃やすか)
火事に見せ掛けて、焼く。
最初から考えていたことだった。
だから、リパラーやその妻を痛め付けるのも、炎でやった。
「苦しませはしない……」
彼の掌の先に、炎が生まれる。
「ヨゥロ族ではないのだからな……」
彼は、そう呟いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
キュイの部下たちが準備してくれた馬車に、シーパルは揺られていた。
パナとドーラもいる。
馬車の周囲は、キュイの部下たちが十人で囲っていた。
物々しいとも思えるが、ありがたかった。
一人では、なにかあった時に、パナやドーラを守り切れる自信がない。
ラグマの軍人が率いる一行を遮るものなど、このロゼンデラーにそうはなく、快調に馬車は進んでいた。
「それで、そのリパラーさんという方のお宅へ、向かってるんですよね?」
対面の座席に座ったパナに、シーパルは聞いた。
ドーラは、狭苦しそうに体を縮めて、寡黙に腕組みをしている。
パナは、その隣で甘えるように彼にもたれていた。
「そうさ」
「どんな方なのでしょう?」
パナたちは、このロゼンデラーに滞在する間、リパラーの家に下宿しているという。
「ヨゥロ族の血を引く人さ」
「ヨゥロ族の……」
「そう。七百年前に追放された、ヨゥロ族のね」
「七百年前ですか……」
途方もない年月である。
そんな時代から、追放などという風習はあった。
そして、考えてみれば当然だが、追放されてそこで人生が終わりというわけではない。
結婚する者もいれば、子を授かる者もいるだろう。
そうして、命は連綿と続く。
「あたしたちはさ、あんま強い立場じゃないからさ」
パナは、フードを脱ぎ、マスクやマフラーも外していた。
「んで、ヨゥロ族の遺伝ってのは、なかなかしぶとくってね。子孫に特徴が残っちゃうことが多いんだよ」
緑色の頭髪、青白い肌、そういった身体的特徴が、望まなくても子々孫々受け継がれていくのだろう。
「一族を追放された者たちは、まず帰る所を失う。外見が違うものだから、社会に溶け込むのも簡単じゃない」
「ええ……」
「……言っとくけど、あんたを責めてるわけじゃないよ」
「わかってます」
シーパルが微笑むと、パナは咳払いを一つ入れた。
「まあ、とにかく、弱い立場だ。だから、弱い者同士、横で繋がるしかなかった。七百年だからね。結構な人数が繋がってるわけだ」
「ギルド……みたいな感じなんですかね?」
「……大分違うような気もするけど。とにかく、それらを管理統括する長……って横の繋がりにその言い方も変だけど……長みたいな人が、リパラーさんさ」
「なるほど……」
そのような立場ならば、多くの情報が流れてくるだろう。
「んで、リパラーさんの御先祖様である追放された人ってのが、元族長らしいのよ」
「えっ!?」
「驚くことでもないさ。魔力が乏しい者は、追放される。言い方を変えれば、魔法使いとして見込みがない者は、追放されるってことさ。族長になれる程の魔法使いが、ある日を境に魔法を使えなくなる。ないことじゃないだろ?」
「……そうですね」
例えば、脳を損傷するような大怪我をしてしまうと、命を取り留めても魔法が使えなくなることがある。
「……追放された、元族長」
ならば、当然知っているだろう。秘匿のことを。
それが、子孫へと受け継がれているのならば。
掌に、じっとりと汗が滲むのを、シーパルは感じていた。
核心に、一気に迫りつつあるのだ。
だが、シーパルは一度気持ちを鎮めた。
リパラーの家に着くまで、まだしばらく掛かる。
「リパラーさんは、普段はなにをされてるんですか?」
「あたしと同じ、薬師さ。あたしよりも、ずっと忙しいだろうけど」
「まあ、ヤンリの村とは人口が違いますからね」
「それだけじゃなくて、ほら、言っただろ。追放されたヨゥロ族の、長みたいな存在だって。たくさんの人の、相談を聞いたりしてるわけよ」
「へえ……」
忙しい人で、余り時間がないとは言っていたが、そういうことか。
「そういえば、お二人がヤンリの村を発ったのは、相当前のことでしたが」
「『メスティニ病』さ……」
パナの表情が、少し陰る。
「流行りかけて、結構患者が出てるだろ? 医者や薬師が集められてるってわけさ。まあ、それだけじゃないんだけどね」
「ん?」
「ほら、『ヒロンの霊薬』を、政府が管理し始めただろ。それはまあ、薬師としては困ることもあるわけよ」
南国では、黄金ほどの価値がある薬である。
確かに、個人で扱えなくなれば、薬師としては痛手なのだろう。
「んでまあ、薬師同士で集まって色々話し合われているんだけど……あとは、察しな」
苦笑しながら言う。
もしかしたら、抗議デモなど計画されているのかもしれない。
「リパラーさんの家まで、もう少しかかるね。なあ、あたしも聞きたいことがあるんだけど」
「なんでしょうか?」
「族長候補にもなると、おかしな訓練を受けなきゃいけないらしいじゃないか。あんたも、受けたんだろ?」
「ええ、そうですね」
幼い頃、従兄弟のパウロと変わった訓練を受けた。
一切の光を閉ざされた洞窟に、数日間閉じ込められたことがある。
一日中、外で突っ立っているよう命じられたこともある。
洞窟の中で、二ヶ月以上眠り続けたこともある。
肌で、感覚で、時間の流れを、空間の動きを把握しろ、と言われた。
心臓を呼吸を、周囲の時間を止めるつもりで、眠り続けろ、とも言われた。
未だに、訓練の必要性を理解しきれていない。
ただ、過去の訓練を思い出すと、妙に感覚が鋭く感じられることがある。
誰がどこで、なにをしているのか。
視界の外の出来事が、なぜかわかったりするのだ。
「一冬、寝て過ごしたりもするんだろ?」
「そうですね。もう、十何年も前にやったきりですけど」
「まるで冬眠だねえ。熊かっての」
パナはケタケタ笑いながら、熊のような夫の膝を叩いていた。
「まあ、あれだ。良家の坊ちゃんも、苦労してるってのはわかったよ」
「はは……」
シーパルは、愛想笑いを返し。
そこで、馬車が止まった。
「あれ? まだ……」
パナが、怪訝そうな顔をする。
窓から通りを見ると、人々が溢れていた。
通行人ではなく、野次馬である。
見つめる先に、立ち上る炎と煙が見えた。
「あの家って……」
パナが、唇を震わせた。
ヨゥロ族は、視力がいい。
時に、見たくないものまで見えてしまう。
ドーラも、眼を見開いていた。
「様子を見てきます」
キュイの部下の一人が、機転を利かせ人々の間を縫っていく。
(……なんだろう……この感じは……)
嫌な予感。胸騒ぎ。
それだけではない。
ズィニア・スティマと出会った時のような、ハウザードと対峙した時のような、背筋を貫くような圧迫感。
様子を見に行ったキュイの部下が、戻ってきた。
「リパラー・ヨゥロの家が、火事です。消防が鎮火に当たっていますが、成人した男女二人の遺体が発見されたようです。おそらくは……」
「……そんな……!」
パナが、頭を抱え呆然と声を上げる。
ドーラも、言葉を失っているようだ。
(……なんで……!?)
シーパルも、当然動揺していた。
真実まであと一歩というところで、リパラーが死んだというのか。
(いや……)
殺されたのではないか。
その考えが、頭を過ぎる。
ヨゥロ族は、壊滅させられた。
パウロも殺された。
秘匿を知る者は、みんな殺されていった。
リパラーも、そうなのではないか。
シーパルが、秘匿に近付いたから。
とにかく、この場にいるのはまずい。
「引き返してください。急いで!」
キュイの部下たちに、言った。
馬車が、転進する。
シーパルは、脳を必死に働かせていた。
(……リパラーさんは何者かに殺害されたとして……何者かの目的は、秘匿が人々に知られることの妨害だとして……)
「パナ、ドーラさん。ヨゥロ族の秘匿について、リパラーさんからなにかを聞いていますか?」
「……秘匿? いや、なにも聞いてないな」
答えたのは、ドーラである。
パナは平常心を失い、呆然としている。
(パナとドーラさんは聞いてない……)
ならば、リパラーを殺害した何者かに、狙われることはないかもしれない。
ここで別れた方がいいのかもしれなかった。
シーパルと一緒にいると、それだけで『コミュニティ』に命を狙われる可能性がある。
だが、何者かが、パナやドーラが秘匿について知っているかもしれない、と考えたら。
二人を、消そうと考えるかもしれない。
いや、それならシーパルの元を訪れる前に、襲えばいいだろう。
もしかしたら、今まで二人には手が回らなかっただけかもしれない。
二人と一緒にいるべきなのか、離れるべきなのか。
二人の危険が減るのは、どちらだ。
わからない。
敵がいることなのだ。
その思考まで完全に読めない限りは、はっきりしない。
キュイの部下たちと少し違う軍服を着た男が、一行の元へやってきた。
キュイの部下たちと短いやり取りをして、去っていく。
シーパルは、馬車の窓を開いた。
「どうしましたか?」
「……我々の守備範囲に、マナ族が軍を率いて侵入してきたとのことです」
「それは……」
「我々は、急ぎ戻って、本隊と合流しなければ。御者に一人残していきますので……」
「……わかりました」
心細いが、仕方ない。
王都南西の防衛が、彼ら本来の任務なのだから。
キュイの部下たちが、馬車の御者台にいる者を除き、去っていく。
不安な気持ちに駆られる。
少しずつ追い込まれていく。そんな気分だった。
せめて、パナとドーラの二人だけは守らなくては。
シーパルは、短槍を持つ手に力を篭めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
街が慌ただしくなった、とテラントは感じていた。
『ゴミ捨て場』から購入した、ロゼンデラーに潜伏している『コミュニティ』のメンバーのリストは、かなり正確だった。
だが、今のところ役立っているとはいえない。
潜伏先へ向かうと、すでに軍や警察に制圧されたあとなのである。
すでに相当のメンバーが、捕縛されたようだ。
迅速過ぎる動きだった。
騒動が鎮静化するまでしばらく待とう、という気分になっていた。
テラントは、元々はラグマ王国の将軍だった。
故あって将軍の座を辞したが、軍人の中には、テラントが国を捨てた、と考える者もいるだろう。
あまり、軍や警察と関わりたくない。
この街の『コミュニティ』のメンバーのリーダー格である、ダンテ・タクトロスが捕らえられたという話や、百本の『ヒロンの霊薬』が回収された噂は、まだない。
テラントは、病院の前にいた。
ユリマが入院している病院である。
以前会ったのは、何年か前のことだった。
ユリマはまだ、六つか七つだっただろう。
利発な子供だから、それでもテラントのことは覚えているかもしれない。
時間潰しに見舞いでもしようかと考えたが、テラントは躊躇った。
ユリマはテラントのことを、『テラントおじさん』と呼ぶ。
テラントは、二十七歳だった。
我ながら狭量だとは思うが、『おじさん』と呼ばれるのは少しばかり抵抗がある。
もっとも、テラントもユリマくらいの年齢の頃は、似たようなものだっただろう。
十五歳の頃は、周りの同年代の少年たちと比較すると、一番長身だった。
だが、十歳の頃は、一番背が低かった。
幼いテラントから見たら、青年以上の男は見上げなければならないくらい大きく感じられ、誰彼構わずおじさん呼ばわりしていた記憶がある。
(……けどまあ……いざ自分がその立場になると……うーむ……)
「……坊ちゃま?」
「!」
背後から聞こえた声に、テラントは体が石化したように硬直するのを感じた。
それでも、関節をぎしぎし鳴らしながら振り向く。
食材が詰まった買い物袋を持った、五十手前くらいのふくよかな女性がいた。
「あらまあ。やっぱり坊ちゃま! お久しぶりでございます」
「や……あ、タタト……」
知っている女性である。
テラントが生まれる前から、父や母の身の回りの世話をしている家政婦だった。
「坊ちゃま、戻っておいでなら、旦那様にお会いになればいいですのに。きっと喜びますよ」
「ああ……うん……まあ、そのうち。……それよか、『坊ちゃま』はやめてくれ……」
『おじさん』呼ばわりは勘弁して欲しいが、それ以上に『坊ちゃま』はない。
「あらまあ、そうですか。わかりましたわ、坊ちゃま」
わざとじゃなかろうか。
「親父は……えっと……館だよな?」
「ええ、そうですわ、坊ちゃま」
父は軍人であり、戦争で片腕を失ってからは王子の剣術指南役だったが、先年、それも辞した。
現在は王宮の側の館で、早目の隠居生活である。
もう、両親とは何年も会っていない。
確か、マリィとの結婚が決まった辺りからだ。
若くして将軍となったテラントは、エセンツ家の誇りだっただろう。
貴族の娘との結婚を父は望んでいたようだが、テラントはマリィを選んだ。
マリィは、『放浪する医師団』という団体に所属していたが、ただの一市民である。
父は、結婚に反対した。
母は、父に従う人である。
両親に祝福されないまま、結婚した。
そして、将軍の座も捨てることになった。
勘当されたわけではないが、勘当に近い状態ではある。
「まあ……そのうちな。……そのうち」
別に、父を嫌いではない。
だが多分、まともな会話は成り立たないだろう。
「あらまあ、そうですか。……あ、わたしはもう戻らないと。坊ちゃま、失礼しますわ」
「あ、ああ……」
太った体を揺らし、タタトが去っていく。
見送りながら、テラントは溜息をついた。
(どっと疲れた……)
額が、嫌な汗でびっしょりとなっている。
(まったく……こんなとこ、誰か知ってる奴に見られでも……した……ら……)
その視線に気付き、ぎしりとまた体が硬直するのをテラントは感じた。
五メートルほど離れた所。
赤毛を長く伸ばした男と、茶色の髪の華奢な女が、無表情でこちらを見つめている。
テラントは、慌てて顔を逸らした。
(……いやぁ、疲れてるなぁ、俺。見間違い見間違い)
あれが、ルーアとティアのはずがない。
恐る恐る振り返り。
「うっ!?」
思わずテラントは、呻きつつ体をびくりとさせていた。
いつの間にか、体が当たるほどの距離までルーアが接近していて、無表情のままテラントの顔を見つめている。
(……近えよ)
顔を背けて。
「!?」
その先に、同じく触れるほどの距離まで近付いたティアが、やはり無表情でテラントを見つめていた。
左右から見られ、嫌な汗がだらだらと流れ続ける。
「……なんだよ、お前ら」
「……」
ティアは無言。
ルーアが、もそもそと口を動かした。
「……坊ちゃま」
「んぶっ!」
ティアが吹き出し、病院の塀にかじりつく。
肩をふるふると震わして。
「ふふ、うふふ……坊ちゃまって……テラントが坊ちゃまって……」
「……おい、ティア」
「ふはーっははは!」
背後で、高笑いがした。
「坊ちゃまーっはははっ! ふはっ! ふはっ! はふはふっ! うはははははははっ!」
石畳の上を、ルーアがばたばた転がっている。
「……」
「く……ふふ……っ……きゃはははははっ!」
「くくく……いひひ……坊ちゃ……ははははははははっ!」
いつ以来になるだろうか。
羞恥で、頬や耳どころか、首筋まで赤くなるのは。
「お前ら……笑いすぎだ……」
青筋を立てながら、テラントは凄んだ。
ぴたり、と笑い声が止まる。
ティアが、深呼吸をし始めた。
眼の端の涙を拭き取り、真面目な表情を向けてくる。
「あたしは、全然笑ってないからね、テラント」
「……」
ルーアが、すくりと立ち上がった。
衣服についた埃を払い、やはり真面目な表情で。
「俺はオースターみたいに嘘をつけないから、正直に言うな。……ちょっとだけ笑ったわ」
「あっ! なんか狡い、ルーア!」
「……」
「悪かった。でもよぉ、テラント……」
ルーアは、テラントの肩に手を置き、今まで見せたことのない凛々しい顔立ちになった。
「『坊ちゃま』だぜ!?」
「んぶふっ!」
ティアが、また吹き出す。
「あはははははっ! うふっ! あははははははっ!」
「ふわはははっ! あーっはっはっはっはっ……!」
「……」
どったんばったん転がるルーアを、テラントは結構本気で蹴りつけた。
「いてっ!? わははっ! いてっ! いてっ! 駄目だーっ! かわせねえ! なんて必殺技だ! ははははははっ!」
「きゃはははははっ!」
「ぶははははっ!」
「あはっ! はっ……あはははははっ!」
「……」
周囲の注目が集まる。
それでもルーアとティアは、ひとしきり笑い続けた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
あまりに目立ち過ぎる。
笑い転げる二人を、テラントは近くの公園まで引きずるように運んだ。
二人とも、ベンチの背もたれにしがみつくようにして座っている。
余程ツボに嵌まったか、ティアはまだ体をぴくぴくさせていた。
ルーアの方は、いくらか落ち着きを取り戻しているようである。
「笑ってる場合じゃねえし……」
「……ルーア、ティア、お前らなにしに来たんだ?」
「おう。聞いてくれ、ぼっ……ラント」
「……」
険悪に睨みつけるが、平然とルーアは経緯を話し始めた。
マナ族が侵攻してきたため、キュイの部隊が迎撃に出た。
キュイから少し違和感を覚えてしまう伝令があり、直後に『コミュニティ』からの襲撃があった。
『コミュニティ』の兵士は、真っ先にルシタを狙った。
「キュイさんは『コミュニティ』と事を構えてて、そのせいでルシタさんが狙われてしまったと考えたんだが……」
「それで、ユリマちゃんも危ないんじゃないかって、様子を見にきたの」
ようやく落ち着いたティアが言った。
「ふむ」
テラントは、顎に手を当てた。
「多分、ユリマは大丈夫だぞ」
「なんでだよ?」
「そうよ。キュイさん、あんなにユリマちゃんのこと気にしてたのに」
「『コミュニティ』の目的は、王宮にある『ヒロンの霊薬』だ。キュイは、『ヒロンの霊薬』の運搬をしていた」
「そういうことか……」
察したらしいルーアが、口の端を歪ませて前髪を掻き上げた。
「『ヒロンの霊薬』目的で、キュイさんに接触したわけだ。ユリマを助けたいだろ、みたいなことを言って」
「そうだ。『コミュニティ』に協力して『ヒロンの霊薬』を手に入れなければ、ユリマは助からない。人質に捕らなくても、人質になってるようなものさ」
ルーアは、空を仰いだ。
「キュイさんには、きっついな……」
キュイの性格上、王国を裏切ることも、『コミュニティ』に協力することもできそうにない。
「まあ、それについては、俺に考えがある」
ダンテ・タクトロスという男が、『ヒロンの霊薬』を隠し持っているという話がある。
それを奪えば、問題解決に大きく前進する。
「でも、なんか変な感じ。『コミュニティ』がそんな『ヒロンの霊薬』を欲しがるなんて」
ティアが言った。
「なにが変なんだ、ティア?」
「あ、うん、南国では物凄い価値があるのはわかってるんだけど。あたしが育った孤児院って、ホルン王国の北にあるから」
聞いたことはある。
大陸の北端に近い。
『ヒロンの霊薬』は、ヒロンという植物の実から採れるエキスが原材料だが、寒冷地方でしか育たない。
熱や湿気に弱い薬なため、北国と南国では、製造や管理に掛かる費用が、かなり違うだろう。
「北じゃあ、そこまでの価値はないからな」
「て言うか、あたしの孤児院で、て言うか村全体で、普通にヒロン栽培してた」
「マジか!?」
驚きはしたが、有り得ないことではない。
ヒロンが育つ条件は、寒冷地方であることなのだから。
「なんか勝手に貧しい孤児院を想像してたけど、そうでもなさそうだな」
「裕福ではなかったよ。国に安く買い叩かれてたから」
ともかく、『コミュニティ』が『ヒロンの霊薬』を求めることについて、ティアが違和感を持つ理由がわかった。
幼い頃から身近にあれば、高価な物だと聞かされても、ぴんとこないのだろう。
「なあ、ところで……」
ルーアが手を上げた。
「ユリマが狙われないなら、俺ら戻った方がいいよな?」
「そうだな。お前らは戻れ」
「テラント?」
「俺は、親父のとこ行ってくるわ」
「なんでだ?」
「こうなった以上、キュイのとこも安全とは言えないからな。親父のとこなら、王宮の近くだし、軍隊がいつも警邏している。ルシタだけでも匿ってもらえないか、頼んでみるわ」
「なるほど、いい考えだ」
ルーアが、頷いた。
「一人じゃ危ないからな。俺もついて行ってやるよ、ぼっ……ラント」
「そうね。面白そ……じゃなくて、心配だから、あたしもついてくよ、テラント」
「……」
絶対に、親に会わせたくない。
心から、テラントはそう思った。
逃げよう。
「……そうか、わかった。それじゃあ……」
言葉と微笑みで牽制して、いきなりテラントは駆け出した。
だが、読まれていたのだろう。
ルーアとティアに同時にタックルを喰らい、テラントは地面に倒されていた。