苦悩
『ヒロンの霊薬』という薬がある。
あらゆる病気の症状に劇的な効果があるとされる、最も万能薬に近い薬である。
ヒロンという植物の実からエキスを抽出し生成されるが、問題があった。
この植物は、寒冷地方でしか育たない。
『ヒロンの霊薬』も、熱や湿気に非常に弱い。
鮮やかなエメラルドグリーンの液体だが、熱に当てると、これが赤みがかってくる。
赤黒くなると、薬の効果は完全に失われることになるのだ。
そのため、寒冷地方では、少し高価な薬といった値段だが、高温多湿なラグマでは、黄金並の価値を持つ。
管理にも、相当な費用が掛かる。
冷蔵保存しなければならなく、魔法道具を利用することが多いからだ。
大陸南の国々と、北の国々では、平均寿命が五年以上違うと言われている。
この薬の影響は、少なからずあるだろう。
『長生きしたければ北(ホルン王国)に住め』
ラグマ王国に昔からある格言である。
今年の夏の初め、ラグマ王国国王ベルフ・ガーラック・ラグマは、ある政策を立てた。
国内にある全ての『ヒロンの霊薬』を、政府で保管する、と。
思い切った政策ではある。
高価な品物の流通を止めるということであり、経済に与える影響は大きいだろう。
反発も大きかった。
主に、『ヒロンの霊薬』の売買で儲けていた商人たちと、『ヒロンの霊薬』を購入することができる、財力がある者たちからの反発である。
その中には、多くの貴族も含まれていた。
王は、政府や人民にも敵を抱えたということになる。
だが、王は間違ってはいない。キュイは、そう思っていた。
隣国であるズターエやザッファーでも、数年前から同じような政策は取られていた。
民間に売買を任せると、貧しい生活を強いられている者には、薬は行き渡らない。
それを考えると、ラグマ政府の動きは遅すぎるくらいだ。
『メスティニ病』という病がある。
二十年前に、ラグマ全土で大流行した伝染病である。
その時は、約百万人が死亡したとされているが、古代の文献がなければ、もっと被害は拡大していただろう。
旧人類の時代にも、似たような伝染病があり、研究されていた。
それによると、鼠などの小動物を媒介に、病が拡がっていくということだった。
より正確には、菌に冒された鼠の血を吸った蚤から、人間に感染するという。
致死率はかなり高く、七割を超える。
街の衛生を保つことと、感染者の隔離により、二十年前は終息したのだが。
その『メスティニ病』が、今年の春、ロデンゼラーで流行の兆しを見せた。
すぐさま感染者は隔離されたが、それでも約一万の民草が発症していた。
キュイは、ロデンゼラーの街並みの向こうに見える、壁へと眼をやった。
城壁よりも高い壁。
その向こうに、約一万の感染者が隔離されている。
致死率七割。つまり、このままでは約七千人が死ぬ。
薬が開発されてはいるが、効果は薄い。
『ヒロンの霊薬』が集められているのは、そのためだった。
感染者のほとんどは、低所得者である。
王は、無償で『メスティニ病』の感染者に投与するつもりなのだ。
現在集められた『ヒロンの霊薬』は、約五千本。
五千人は助けられる計算となる。
かなり強引な方法で、徴発されてきたが、まだ不足していた。
徴発に逆らう者は、死罪である。
その累は、一族にまで及ぶ。
反乱が起きることも、覚悟の上だろう。
一万人の反乱を鎮めるために、兵の二万は投入しなければならない。
北のホルンも、西のズターエも、北東のザッファーも、ラグマ王国の隙を狙っているはずだ。
それでも王は、断固たる姿勢を崩そうとはしなかった。
無償の配布は、経済に打撃を与えるだろう。
だが、政府が『ヒロンの霊薬』を完全に管理できるようになれば、十年後、二十年後には利益となるはず。
今は、一部の商人が儲け過ぎているのだ。
そこまで見通しての強権である。
任務が与えられた。
キュイの通常の任務は、南西にある山々に暮らす、ラグマ政府に帰順していない民族への備えである。
四百の部下を抱えているが、二百を備えに残し、キュイはもう二百の手勢を率いて、ロデンゼラーの南東にある村、バーフィールへと向かった。
新たに、『ヒロンの霊薬』が十三本徴発されたのである。
薬を、バーフィールからロデンゼラーの王宮にある保管所まで届ける。
それが、任務だった。
キュイは、『氷狼の棺』に触れた。
一抱えほどある青い箱で、冷蔵保管できる魔法道具である。
この中に、十三本の『ヒロンの霊薬』がある。
十三人の尊い命が救われる。
「ここから先はお前が、『ヒロンの霊薬』を保管所まで持っていけ」
近くにいる部隊長の男に、キュイは言った。
王宮は、もうそれほど遠くではない。
兵の指揮を任せても問題ないだろう。
個人の売買が禁じられたため、闇市などで『ヒロンの霊薬』はさらに値を上げていた。
元々黄金並みの価値があったが、今ではミスリル銀ほどの価値となっている。
十三本の『ヒロンの霊薬』を、強奪することを考える者もいるだろう。
軍が出動して薬を運ぶのは、そのためだった。
だがさすがに、ロデンゼラーの街中で、二百の兵を相手には仕掛けられないはずだ。
なにかあれば、すぐに他の部隊が急行してくるだろう。
そうなれば、騒ぎどころの話ではなく、小さな戦争になるといえた。
キュイは、部下に兵を預け、馬も返した。
自分の愛馬のロンは、蹄を痛めていたため、部下の馬を借りていたのだ。
少し、用事がある。
一人で、そして自分の足で、キュイは近くにある国立の病院へと向かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
受付に要件を告げると、すぐに診察室の一つに案内された。
キュイを待っていたのは、見慣れた医者である。
挨拶もそこそこに、キュイは尋ねた。
「ユリマの容態は?」
知人の娘である。
そして、彼女の両親はすでに亡い。
自分が殺したも同然だと、キュイは思っていた。
「非常に厳しい状態です」
ユリマの担当医が、表情を曇らせる。
ユリマは、『サット症候群』という病に冒されていた。
原因不明、治療方法も判明していない病である。
手足が萎えて、身動きが取れなくなる。
時には、血を吐き呼吸困難にもなる。
連日してその発作が起きると、もう助からないと言われていた。
「このところ、発作の間隔が短くなってきています」
医師が、さらに沈痛な面持ちになる。
「……なんとか、なりませんか?」
両親を失ったユリマには、親戚もいない。
入院や治療の費用は、キュイが用立てていた。
そのことを、ユリマは知らない。
善意の寄付があったと、彼女には伝わっているはずだ。
「私たちも、できるだけのことはしていますが……」
ユリマの左足は、動かなくなっていた。
症状がひどい時は、両腕と右足も動かなくなり、寝たきりとなる。
発作の間隔が、短くなっているという。
覚悟を決めなければならないのか。
診察室を出た。
廊下を行き交う医師や看護師、患者たちの姿が、なぜか妙に白々しく見えた。
ユリマは、助からないのか。
まだ、十歳なのだ。
両親を奪ったのは、自分だ。
そして、病に苦しむ彼女を、救うこともできない。
『ヒロンの霊薬』。
それが、度々頭に浮かぶ。
万能薬に、最も近い薬。
『サット症候群』に対する効果も、認められている。
もう助からないとされていた患者が、この薬の力で劇的な回復を見せ、病を克服したこともあるという。
『ヒロンの霊薬』があれば。
あの運んだ十三本から、一本だけ奪ってしまえば。
馬鹿な。
キュイは、かぶりを振った。
『ヒロンの霊薬』は、『メスティニ病』の患者に投与されると決定している。
そして、キュイは軍人だった。
王と、王国に忠誠を誓っている。
『ヒロンの霊薬』を私的に扱うことは、現在のラグマ王国では、反逆罪に当たることだった。
当然、死罪である。
自分だけならいい。
だが、妻のルシタと、彼女の両親、つまり義理の両親にまで、その累は及ぶ。
「あ。キュイさん見つけた」
気楽な声。
当人としてはどうかわからないが、キュイには気楽な声に聞こえた。
客人として館に招いている、ティア・オースターという少女。
「おい、オースター……この荷物持ち。結局、俺一人で持ってんじゃねえか……」
もう一人、両手一杯に買い物袋を持った、長い赤毛の少年もいた。
あまり、病院を出入りするに相応しい格好ではない。
人のことは言えないが。
キュイは、ラグマの黒い軍服を着たままだった。
「どうしたのですか、お二人揃って?」
聞いたその時、背後で松葉杖を付く音がした。
「キュイおじさん……?」
胸が、締め付けられたような気がする。
振り返った先に、長い銀髪の少女がいた。
「ユリマ……」
少女の名前を、キュイは呟くように口にした。
◇◆◇◆◇◆◇◆
言葉にも表情にも、覇気を漲らせている男。
キュイのことを、ルーアはそう思っていた。
だがこの男も、こんなにも弱々しくなるのか。
ユリマという、松葉杖を付いた銀髪の少女に語りかけるキュイは、風が吹けば倒れてしまいそうだった。
「……いいのか? 病室を抜け出して」
「今日は、体の調子がいいですから。そういう時は、出てもいいんです」
小さな声だった。
意図的に小声で話しているというよりも、それ以上声が出せないのではないか。
そう思わせるほど、少女は儚く見えた。
「可愛い……」
ぽそっとティアが呟くのを、多分ルーアだけが聞いていた。
確かに、少女は可憐だった。
透き通るような肌をしている。
銀髪と相俟って、まるで人形のようにも見えた。
「今日は、なにしに病院に来たんですか?」
「……部下が、一人、入院しててね。その……見舞いだよ」
「そうですか……」
重苦しい空気。
とても、口を挟める雰囲気ではなかった。
そもそも、この場にいること自体が間違いなのではないか。
知るべきではない込み入った事情が、二人にはあるような気がする。
「もう、戻りますね……」
短い沈黙のあと、少女が言った。
「ユリマ……!」
思わず、といった感じで、キュイが呼び止める。
「なにか、必要な物とかないか? 私で用立てできる物なら……」
ユリマが振り返った。
「じゃあ、パパとママを返してください」
「……っ!」
キュイが、わずかに顔を伏せる。
「……すまない。それは、私には……」
「冗談ですよ」
ユリマが微笑を浮かべた。
そして、松葉杖を付きながら去っていく。
キュイは、苦渋の表情をして、拳を震わせていた。
「あの……えと、キュイさん……」
ティアが、遠慮がちに声を掛ける。
少し間を置いてから振り返ったキュイは、笑顔だった。
ただし、無理をしているのが伝わる強張った笑顔。
「……すみません、ティアさん、ルーアさん。私は、部隊をまとめなければなりませんので、お先に失礼します」
「あ……はい……」
「はいよ」
キュイは一礼すると、足早に立ち去っていく。
無言で、ティアはその背中を見つめていた。
(……よし)
ルーアは、廊下の壁に背を預け、天井を見上げた。
(なにも、見なかったことにしよう)
誰にでも、話したくない事情の一つや二つはあるだろう。
だから、なにも見なかったことにする。
なにも聞かなかったことにする。
天井の染みを見つめながら、ルーアはそう決めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ユリマの父親の名前は、カラという。
キュイと同郷で、旧くからの顔馴染みだった。
キュイよりは三つ年長で、共にテラントの部隊に配属されたこともあり、なにくれとなく面倒を見てくれたものだ。
キュイが副将軍に昇格した時、自分から志願して、年下であるキュイの下に付いてくれた。
そして、未熟なキュイを支えてくれた。
戦争があった。
南の山中に拠る民族との戦争だ。
去年の話である。
キュイの部隊には、先鋒の側面援護の任が与えられた。
構成されたばかりの部隊であり、まだ若い兵が多かった。
そして、斥候を若い兵ばかりに任せてしまい、その報告を信じた。
なぜ、熟練の兵士に任せなかったのか。
結果として、伏兵に気付くことができずに、山の間を縫うように進んでいたキュイの部隊は、四方から奇襲を受けることになった。
全滅しても、おかしくなかっただろう。
救ってくれたのは、カラだった。
彼が先頭で包囲を突破し、それから殿軍も務めた。
殿軍として残るのは、死地に立つも同然だった。
そして、キュイの眼には、他に殿軍を任せられる者を見つけることができなかった。
自分が残れば、それだけ踏み止まる兵が増え、犠牲も増すだろう。
カラと殿軍に残った者の奮闘により、奇襲を受けたにしては被害は小さかった。
だが、殿軍は全滅だった。
カラも死んだ。
回収されたカラの遺体は、首を落とされていた。
自分の未熟さが、彼を殺したも同然だった。
カラの娘であるユリマは病気を患っていたが、難病であることは知らなかった。
治療費の工面に独りで苦労することになり、疲れきったユリマの母親は、ある日ビルの屋上から身を投げた。
元々、心の弱い女だった。
カラの支えがあったから、娘の難病に向き合えていた。
ユリマは、両親を失った。
幼いユリマから、まともに歩くこともできない少女から、自分が奪った。
病院の近くにある小さな公園のベンチで、キュイは顔を覆っていた。
この上、ユリマは命も失うのか。
まだ十歳ではないか。
「よいしょっと」
わざとらしく言いながら、同じベンチに腰掛ける者がいる。
顔を上げて、そしてキュイは驚愕した。
「貴様はっ……!?」
「おー、いい反応してくれるねえ」
小柄な体躯、長い両腕、左耳の古傷。
「ズィニア……スティマ……!」
「やっぱ俺のことを知ってるか、ラグマの副将軍キュイ様よ」
テラントにとって妻の仇である男が、隣にいた。
手を伸ばせば、届く距離。
「……っ!」
「おっと。こんなとこで抜くなよ?」
知らず知らずのうちに、キュイは腰の剣の柄に手をやっていた。
住宅街の中にある公園である。
母親と幼い子供の親子連れが目立つ。
「それに、抜く前に死ぬぞ」
「……」
あのテラントが、完膚なきまでに負けたと認めた男である。
自分の剣が通用しないであろうことは、想像できた。
汗が噴き出す。
「……なにが目的だ?」
ズィニアが、口の端を上げた。
「お前に、用があってな」
「……私に?」
テラントたちと、敵対している男である。
キュイを捕らえ、どこか優位な場所にテラントたちをおびき寄せる。
それくらいしか、ズィニアにとっての自分の利用価値を、キュイは思いつかなかった。
「アスハレムで奴らに協力していたな。今もだ。ちょっと調べてみようか、というつもりにはなる。キュイ、ラグマの副将軍か」
どういうつもりなのか。
もし、自分のせいでテラントたちが窮地に陥り、死ぬことになるのならば。
キュイは、剣を握る手に力を篭めた。
自決する覚悟くらいある。
ズィニアに斬り掛かってもいい。
この男は、迷うことなくキュイを殺すだろう。
「忠誠無比、質実剛健。王からの信頼も厚い。最近は、『ヒロンの霊薬』の護送を命じられることが多いらしいな。今は、十三本の『ヒロンの霊薬』を運んだばかりか」
「……」
目的は『ヒロンの霊薬』だろうか。
十三本でも、かなりの大金に変わるだろう。
だが、ズィニアは『コミュニティ』の人間である。
個人としては莫大な金額だろうが、組織全体から見れば、端金に過ぎないのではないか。
「ラグマ王国執務官であり、現在、王宮にある『ヒロンの霊薬』の管理を任されているジェイク・ギャメとは、友人関係にある」
ジェイクも、カラと同じくキュイと同郷だった。
以前は、よく三人で飲み明かした。
「……それが、なんだ?」
「お前なら、さ……色々と詳しく調べられるだろ? 王宮のどこに『ヒロンの霊薬』が保管されているか、警備体制、その他諸々。魔法道具でロックされるくらいはしてそうだよなぁ。解錠方法とかさ、お前なら、聞き出せるんじゃねえの?」
目的は、五千本の『ヒロンの霊薬』だというのか。
「……まさか、私が貴様らに協力するとでも?」
「お前のことは調べた、って言ったよな? 忠誠無比、質実剛健。だが、実にわかりやすいアキレス腱が二本ある」
「まさか、貴様っ……!?」
ルシタを、そしてユリマを盾に脅すつもりか。
ズィニアが笑った。
(落ち着け……!)
動揺する姿を見せては、ズィニアの思う壷だ。
ルシタの側には、テラントやその仲間が、いつも数人はいる。
彼らがどれだけ頼りになる存在かは、よくわかっている。
近くには、キュイの部下たちも控えているのだ。
ルシタの危険性はそれ程でもないだろう。
だが、ユリマは。
病院の警備体制など、高が知れている。
「別に、あのお嬢ちゃんを取って喰ったりはしねえから、安心しな」
見透かしたように、ズィニアが言った。
「必要ないからなぁ。人質に取るまでもない。いつ死ぬかわからない不憫な少女。助けるために、欲しいだろ、『ヒロンの霊薬』が?」
「……っ!」
「協力してくれたら、漏れなく一本プレゼントってな」
心の中で、風が吹き荒れている。
だが、なにかおかしいとも感じていた。
「……取り引きとしては、余りにお粗末だな、ズィニア・スティマ」
「ん?」
「貴様たちに協力しなくても、『ヒロンの霊薬』を手に入れることはできる。私は、薬を護送しているのだぞ。懐に忍ばせる好機など、いくらでもある」
『ヒロンの霊薬』を我が物にするということは、国を裏切るということである。
裏切るのならば、せめて『コミュニティ』の利にならない形を取るだろう。
そして、そんなつもりは毛頭ない。
「本当の目的はなんだ、ズィニア・スティマ?」
「……」
ズィニアは、動揺する姿を見せない。
ただ、にやついている。
「私のことを、忠誠無比と評価したのは、貴様だ。ならば、動かしにくいとわかるはずだ。他に、もっと裏切らせやすい者がいたはずだ」
そもそも、誰かを裏切らせる必要もないのではないか。
『コミュニティ』は、どの国の政府にも構成員を潜伏させている。
『ヒロンの霊薬』の保管状況を調べるくらい、容易だろう。
例え魔法で施錠されていたとしても、ズィニアが持つ魔法剣は魔法を消せるという。
「……猪突猛進な奴だと思っていたが、意外と頭回るねえ」
ズィニアが、にやついたまま眼を細めた。
「お前さんの言う通り、確かにお粗末な取り引きだ。けど、それでいいのさ」
「……どういうことだ?」
「お前さんは、動揺してくれた。俺にとっては、それで充分な収穫だ」
「……意味がわからないな」
キュイが動揺して、それがなんだというのだ。
ズィニアが、そして『コミュニティ』が、なにを得するというのだ。
「これ以上説明してやる義理はないなぁ」
ひどく気軽に、ズィニアが立ち上がった。
「待て……!」
「待たねえよ」
一言。そして投げかけてくる殺意。
それだけで、キュイの体は凍り付いた。
抜けば、斬られる。
去ることを阻めば、殺される。
人のものとは思えない、異質な殺意。
「……いい子だ」
動けないでいるキュイに、ズィニアが笑いかけた。
そして、悠然と去っていく。
その背中を見送り、姿が見えなくなったところで、キュイはベンチの座席部分に手をついた。
あんな男がいるのか。
あんな殺気を放つ男が。
(……将軍は、あんな者を敵として……)
勝てるのか。
そして、ズィニア・スティマの真の目的はなんだ。
自分を揺さぶり動揺させることに、なんの意味が。
幼子が母親を呼ぶ、無邪気な声が聞こえた。
キュイは、額の汗を拭った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ユファレート・パーターは、ハウザードにとって大きな存在なのだろう。
それは、余り好ましい状態とは言えない。
ハウザードの中身は、空っぽであればいいのだから。
ユファレート・パーター。
『コミュニティ』にとって、最も邪魔な存在。
だから、消せ。
それが、クロイツからの依頼。
今のズィニアの、最優先となる仕事。
第二の標的は、シーパル・ヨゥロになるか。
これは、ズィニアが個人的に警戒しているから。
ユファレート・パーターと並ぶ力を持つ魔法使いだという。
六人で旅をしている。
彼らのことは、調査し直した。
主に、性格や、混乱時の行動の傾向。
ユファレート・パーターやシーパル・ヨゥロを殺すのは、それ程難しくはないだろう。
一人一人が、かなり戦える。
これが六人揃っていては、厄介だった。
戦闘を仕掛けても、返り討ちになるだけかもしれない。
だが彼らは、簡単に戦力を分断させる。
それぞれが実力に自信があるのか、単独行動を取ることも多い。
独りでいる時を狙えば、ユファレート・パーターもシーパル・ヨゥロも、容易く殺せる。
計算外のことがあった。
キュイという男。
ラグマ王国の副将軍であり、六人の一人、テラント・エセンツと知己である。
彼は、六人を自分の館に招き入れた。
当の六人よりも、余程危機感を持っている。
近くには四百の部下を置き、周辺をいつも警戒させている。
近付くこともままならない。
六人が行動を別々にすることも、ほとんどなくなった。
たまに市街地へ出掛ける者がいるが、部下たちがしっかりと警護に付いていく。
部下たちも、キュイの教育が行き届いているのか、寝返りそうな者などはいなかった。
隙らしい隙がない。
唯一、元々キュイの上司だったというテラント・エセンツだけは気ままに単独行動をしている。
目的を知っているのだろう、キュイも止めることはできないようだ。
今のところ、テラント・エセンツを殺すつもりはない。
餌になる可能性がある。
殺すつもりはないのが、あと二人。
組織の構成員でもごく一部にしか伝えられていないが、クロイツはルーアに利用価値を見出だし、『ヴァトムの塔』の力を吸収したティア・オースターに興味を持っている。
だから、できるだけ殺さないでおいてやる。
クロイツとしては、二人が死んでも構わないという感覚だろう。
ほとんどの構成員に、ルーアやティア・オースターをただの敵だと認識させているのは、そのためだ。
ズィニアは、隠れ家としている廃屋にいた。
そんな場所が、ここロデンゼラーに何箇所もある。
汚いソファーに座り、意味もなく壁の亀裂を眼でなぞる。
キュイに接触した。
彼は、動揺しただろう。
やり方を、間違えてはいないはずだ。
六人を調査して、気付いたことがある。
彼らは、誰かのために戦うことが多い。
ヴァトムでは、住民を守るために戦った。
あるいは、リトイ・ハーリペットを守るためでもあったかもしれない。
ヤンリの村では、憐れなシーナとその妹を救うために戦った。
集落の住民を守るために、そのシーナとも戦っている。
アスハレムでも、住民と、サンとエミリア親子のために。
キュイを精神的に追い込み苦しめれば、どうなるか。
キュイは、苦心を隠そうとするかもしれない。
だが、彼らは変化に気付くだろう。
馬鹿はいない。全員が鋭く、あるいは聡い。
特に、古くからの知り合いであるテラント・エセンツには、見抜かれるのではないか。
キュイの苦心を、このズィニアが、『コミュニティ』が接触したことを知れば、彼らはどうするか。
キュイを助けようと動き出す可能性が高い。
今、六人はキュイの館で固く守られている。
動けば、隙もできるというものだ。
ズィニアは、視線を玄関へと向けた。
廃屋に、足を踏み入れる者が、三人いる。
敵意も殺意もない。
しかし、微かな怒気は感じる。
そんなものをズィニアに向けてくる者はまれだった。
『コミュニティ』のメンバーともなれば、尚更である。
三人のうち、二人は左右に分かれる。
「……どうしたよ、ダンテ・タクトロス?」
正面、痩身の男に、ズィニアは言った。
涼しげな眼をしているが、怒気を投げ掛けているのはこのダンテである。
「……なにをぼんやりとしているのかと思ってな、ズィニア・スティマ」
「そう見えたんなら残念だな。俺としては、知的に思案しているつもりだったんだが」
「それは失礼な勘違いをした」
会話の間に、他の二人はズィニアの左右を挟むように移動していた。
右に、女と間違えてしまいそうな顔立ちの青年。
左に、茫洋とした雰囲気の、長身の男。
名前は確か、ラフとトンスだったか。
「あのキュイに眼を付けていたのは、俺たちだ」
正面のダンテが言った。
「そうだな」
視線はダンテに、だが意識は三人に向ける。
さりげなく立っているだけだが、立派に陣形になっていた。
「勝手な真似をされては困るのだ、ズィニア・スティマ」
「勝手、ねえ……」
刺がある言い方。
ズィニアの実力も性格も知ってのことである。
「俺は、協力したつもりなんだがな」
「いらぬ世話だ」
ロデンゼラーで活動している『コミュニティ』のメンバーを纏めているのが、ダンテだった。
現在は、王宮にある『ヒロンの霊薬』の回収を目論んでいる。
ルーアたちのことも、意識していた。
『コミュニティ』の敵とされている。
自分の領域に、敵がいる。
だから潰す。
そういう感覚だろう。
「協力し合うつもりはないってか?」
「ないな。俺たちには、俺たちの計画がある。お前はお前で、勝手にやればいい。だが、邪魔はするな」
「ふーん……」
ダンテも、ラフもトンスも魔法を使う。
腕はいい。
そして、取り囲んでいる。
強気な姿勢でいるのは、ズィニアと争うことになっても勝てる自信があるからだろう。
ズィニアは、意識を張り詰めていった。
争うことになったら。
一人は、確実に殺せる。
二人目も、おそらく殺せるだろう。
三人とも殺せるかは、微妙なところだった。
(……やめたやめた。アホらし)
同じ組織のメンバーではないか。
それが殺し合っても仕方ない。
ダンテも、それはわかっているだろう。
争えば、部下が死ぬ。
自分自身が死ぬ可能性があることも、わかっているだろう。
それでも、ズィニアに対して強気の姿勢を崩さない。
よそ者のズィニアが勝手をすることを、認めない。
プライドが高いのだろう。
死ぬ覚悟を持って、ズィニアに抗議している。
「……わかったよ、ダンテ。邪魔はしないようにするさ」
「……そうか」
ダンテが手を上げると、ラフとトンスがゆっくりと動き出した。
ダンテの元に集結する。
「用件はそれだけだ、ズィニア・スティマ。俺たちの邪魔をしないのならば、お前がなにをしようと構いはしない。好きなだけ暴れるがいいさ」
「ダンテ、お前さ……」
背を向けかけたダンテを、ズィニアは止めた。
「キュイを、裏切らせることができると思ってんのか? 無理だと思うぞ」
「……そうかもしれん。そうじゃないかもしれん。いずれにせよ、これまで通り真綿で首を絞めるように、少しずつ追い込んでいくさ。奴が勝手に追い込まれているだけだがな」
キュイが気に掛けている知人の娘は、日に日に衰弱していた。
病状が進めば進むだけ、キュイは葛藤するだろう。
ぎりぎりまで追い詰めてから、キュイに取り引きを持ち込むつもりだったはずだ。
キュイの指摘通り、お粗末な取り引きである。
もっとも、ダンテもそれは理解している。
王宮の攻略のために、ダンテは多くのラグマ政府の者と接触していた。
裏切る可能性がある一人として、キュイのことも観察していた、というだけ。
つまり、ダンテにとってキュイは、特別に重要な存在ではない。
それでも、キュイに接触したズィニアに腹を立てた。
「無駄にプライド高いねえ」
三人が立ち去ってから、ズィニアは呟いてソファーに寝転がった。
あのプライドの高さは、枷となるか、それとも力の源となるか。
「まあ、どうでもいいけど……」
協力を要請されることはないだろう。
そして、近いうちにルーアたちとぶつかる。
ダンテたちは、甘くはない。
必ず、隙ができる。
ユファレート・パーターと、シーパル・ヨゥロを殺せる隙が。
(それまで、のんびりとさせてもらうさ)
欠伸をしながら、ズィニアは眼を閉じた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「おい、オースター。やっぱやめとけって……」
病院の廊下を先に歩くティアに、もう何度目になるか、ルーアは声を掛けた。
病室の入り口前に掛けられた名札を確認しながら、ティアは進んでいる。
キュイの知り合いである、ユリマという少女の病室へ向かっているのだ。
「絶対関わらん方がいいって……」
「そうかもしんないけどさ……」
「あと、荷物……」
両手一杯の荷物に、いい加減肩まで痛い。
荷物持ちは、ティアの役割だった。
「それは置いといて」
「……おい」
「だって、あんなキュイさん見たら、ほっとけないわよ。もしかしたら、あたしたちで解決できるかもしれないじゃない」
「できねえよ……」
ここは病院である。
ユリマがなんの病気かはわからないが、治すのは医者で、ルーアたちの役割ではない。
『パパとママを返して』という、ユリマの台詞。
なにがあったか、少しは想像できる。
そして、簡単に解決できるとはとても思わない。
「……とか言って、ルーアも気になるくせに」
「全然なってない」
「じゃあ、先帰ればいいじゃない」
「そういう訳にもいかんだろ……」
ティアを、一人にするのは危険だった。
『コミュニティ』に狙われる、という危険もあるが、一人にするとなにをやらかすかわからない、という危険もある。
「あと、荷物なんだが……」
「この辺りのはずなんだけどなぁ……」
「……」
意地でも持たないつもりか。
キュイが去ったあの後。
ティアは、すぐに病院の受付に行き、ユリマの病室を尋ねていた。
教えてもらえるとは、思わなかった。
買い物袋を抱えた、武装している男女。
自分で言うのはなんだが、まったく見舞いに来ているようには見えない。
それでもティアは、愛想よい笑顔と話術で、ユリマの病室を聞き出していた。
ユリマの知り合いだと主張していたようだ。
知り合いではなく、一方的にちょっと知っているだけだというのに。
さすがに剣は預けることになったが、見舞いにきた者だと認識されることに成功していた。
素晴らしいティアの行動力と話術だが、無駄にしか思えないのはなぜだろう。
警備体制が甘すぎると、匿名の手紙を出して指摘しようかと、半ば本気でルーアは考えてしまった。
「見つけた」
ティアが病室の前で立ち止まり、ルーアは回想を止めた。
「なぁ……やっぱやめとけって」
ティアが、気軽に扉をノックする。
(シカトかよ……)
返事があった。
薄く、消え入りそうな声。
物おじすることなく、扉を開いて病室に入っていくティア。
買い物袋を手に、一人廊下で突っ立っているわけにもいかず、ルーアも続いた。
ベッドの上で上体を起こしていたユリマが、警戒の色を見せる。
看護師か他の見舞い客でも、想像していたのだろう。
ティアは、やはり気軽に手を振ると、愛想よい笑みを浮かべた。
怪訝な顔をしながら、遠慮がちにユリマも頭を下げる。
「あなたたちは、キュイおじさんの……」
ユリマとは会話をすることもなかったが、キュイと立ち話をしているところは見られている。
ルーアたちのことを覚えていた。
まあ、一杯の買い物袋を抱えて病院をうろつく者など、そうはいないからだろうが。
「こんにちは、ユリマちゃん。あたしはティア。よろしくね。あっちのはルーア。ロリコンだから、近付かれたら大声出してね」
「……おい」
「ねえ、座っていい? いいよね?」
返事を待たずに、ティアが椅子を引く。
少し慌てて、ユリマは頷いた。
勢いに呑まれている感じはする。
「あの……あなたたちは?」
「あたしたちね、キュイさんの家でお世話になってるの」
荷物を床に置いて、ベッドには近付かず、ルーアは壁にもたれた。
関わるべきではないという意見は、変わっていない。
「キュイおじさんの……」
「うん。それでね……」
そこで、はたとティアの口が止まる。
聞きたいことははっきりしているが、切り出し方がわからなくなったのだろう。
ユリマが、ティアを見つめている。
銀色の髪。日焼けを知らない透き通るような肌。華奢な体つき。
こういった印象を持つのは我ながら最低だと思うが、病室が似合うような儚さを感じる。
微かな溜息が聞こえた。
「キュイおじさんに、様子を見てくるように頼まれたんですか?」
「え? いや、えと……」
「違うよ」
ルーアは口を挟んで、ティアを指差した。
「そいつが、キュイさんと君になにがあったか、聞きたいんだとよ。教えてくれるか?」
早く終わらせたくなり、ルーアは単刀直入に言った。
正直、余り長居はしたくない。
ユリマも、歓迎はしていないだろう。
すぐに話してくれるならそれで良し。
話すのを拒絶するなら、帰る理由ができるというものだ。
「別にいいですけど……」
ユリマが語っていく。
父親のこと。母親のこと。自身のこと。キュイのこと。
ルーアもティアも、知らず知らずのうちに絶句していた。
ユリマの父親は軍人で、キュイの部下だったが、作戦中に死亡。
母親は、難病のユリマを残して、自殺している。
残酷と言っていい現実を、まるで人事のようにユリマは淡々と口にしていく。
十やそこらの子供とは思えない話し方だった。
「あの……それでさ……」
ティアが、なんとか声を搾り出す。
「病気って……」
「治る見込みはないそうです。いつ死んでもおかしくないって、お医者さんとキュイおじさんが話しているとこを、聞いちゃいました」
「……」
諦めているような口調と表情。
現実を受け入れているのではなく、ただ流されているようにルーアには感じられた。
こんな幼い子供が、こんな表情をできるものなのか。
両親を失い、孤独になり、現実に抗うこともできない。
ただ、流されるしかない。
そこから生じる、諦めの表情なのだろうか。
重い事実をあっさりと話してくれたのも、諦めているからかもしれない。
もうなにもかも、どうでもいいと思っているのではないか。
「バカですよね。別に、キュイおじさんのせいじゃないのに、勝手に気にして……」
キュイのせいではないと、ユリマは思っているのか。
それでも、どこかで恨んでしまっているのかもしれない。
『パパとママを返してください』
痛烈な言葉が、耳に響く。
うなだれた弱々しいキュイの姿が、脳裏に浮かんだ。
きっとあの男は、自分のせいだと思っているのだろう。
アスハレムの一件で、何度も謝罪する姿を思い出す。
キュイは、責任を一身に背負い込む。そういう性格なのだろう。
「キュイおじさんのお屋敷に、お世話になってるんですよね? どうでしたか?」
「どうって……」
ティアが、小首を傾げる。
「……お馬さん、何匹いましたか?」
「……白馬がいるだけだけど」
馬は、普通は匹ではなく頭と数える。
突っ込みたくなるのを、ルーアは我慢した。
年齢にそぐわぬ話し方を、ユリマはしていた。
それを考えると、些細な誤りが年齢相応で、むしろほっとする。
ちなみに、白馬ではなく葦毛の馬である。
まあこれも、今はどうでもいい。
「やっぱり……」
ユリマが、溜息をついた。
「キュイおじさん、五匹お馬さん飼ってたのに、売っちゃったんだ……」
「え?」
「治療費、キュイおじさんが払ってるんです。これも、たまたま聞いちゃったんですけど……」
ユリマの入院費や医療費を、キュイが支払っているのか。
かなりの高額なのだろう。
キュイの館には、必要最低限の物しかなかった。
立派な厩には、一頭の馬がいるだけだった。
生活を切り詰め、費用を捻出しているということか。
「バカな人……そんなことしたって、どうせわたしは助からないのに……」
舌打ちするのだけは耐えて、ルーアは頭を強く掻いた。
だから、関わるべきではないと言ったのだ。
椅子に座っているティアも、肩を落としている。
その姿が、小さく見えた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
キュイが、居間のソファーに腰掛けて思案している。
その前にあるテーブルに、テラントは酒瓶とグラスを二つ置いた。
キュイが、顔を上げる。
「……将軍」
「勝手に貰っている。が、一人で飲むのも寂しいからな。ちょっとだけ、付き合え」
「今は……」
「固いことは言うなよ。お互いが、二、三杯飲めばなくなる。それくらいの量だ」
テラントもキュイも、酒に弱くはない。
しかも、アルコール度の低い安酒である。
この程度で、酔いが回ることはない。
深夜である。
男同士が語り合うには、酒がある方が適当だろう。
キュイが館に戻ってきたのは、夕刻過ぎだった。
数日ぶりの帰宅となるが、いつもと同じようにルシタは出迎え、そしてキュイの様子は、少しおかしかった。
「カラの娘が、入院してるんだってな」
「……聞かれましたか」
「ああ」
テラントに話してくれたのは、ルーアだった。
迷いに迷ってから、テラントにだけは話しておこうと結論を出したらしい。
行動を共にする六人の中で、最もキュイと近いのが、テラントだからだろう。
ルシタがいるが、近すぎるため言えないこともある。
それに、女だ。
その点男同士なら、酔って殴り合うこともできる。
キュイは、堅苦しすぎる。
そして、一人で背負い込もうとする。
誰でもいい。
話して、愚痴や弱音の一つでも言えばいいのだ。
テラントも、全てを独りで背負い込もうとした。
妻のマリィが殺害され、その仇を討とうと旅に出た。
だが、なぜかその旅には、デリフィスが同道した。
それが、どれだけ救いになったことか。
テラントは、二つのグラスに酒を注いだ。
「カラは、なにもかも早かったな……」
結婚したのは、確か十五の時だった。
子ができるのも早かった。
そして、死ぬのも早かった。
豪放で、みんなに好かれていた。
他人の失敗を笑って許し、陰で後始末をしてやるような男だった。
「……私のせいなのです。私が、カラさんを死なせました。ユリマから、両親を奪いました」
「キュイ……」
テラントは、一気に呷りグラスを空けた。
敗戦について、なにがあったかは知っている。
全ての責任がキュイにあるかは、微妙なところだった。
だが、全ての責任は自分にあると、キュイは考えるだろう。
「お前は、もう少し踏ん反り返れ」
「踏ん反り返る……?」
「勝利は、自分のお陰。敗北は、全員のせい。それくらいまで、開き直ってみろ」
自分の地位に胡坐をかき、偉ぶる者には、こんなことは言わない。
どんな地位になろうとも、キュイは謙虚な姿勢を忘れないだろう。
「……私には、そういう風に考えることはできそうにありません」
「わかっている。けど俺は、敢えてそう言っている」
「……」
「その敗戦で、王が特別にお前を罰するようなことをしたか?」
「……いえ」
「そういうことだ」
テラントは、二杯目も一気に呷った。
キュイは、口をつけようともしない。
「……私からも、将軍にお伝えしなければならないことがありました」
「ん?」
「迷いましたが、やはり将軍にはお話ししておくべきなのだろうと思います」
「なんだ?」
「ズィニア・スティマが、私に接触してきました」
「……!」
「王宮にある『ヒロンの霊薬』を欲していて、私に協力を求めてきましたが……」
「……お前に?」
おかしい、と感じる。
キュイの人間性を少しでも知る者ならば、そんなものにキュイが応じるはずもないとわかるだろう。
ろくに調査もせずに、キュイに接触してきたとも考えにくい。
「その目的が、見えません。こうして、私の口から将軍にお伝えすることが目的なのかもしれません。ですから、お話しするべきかどうか迷ったのですが……」
「……いや、いい。あいつに関することは、全部話してくれ」
なにを企んでいるのか。
このロデンゼラーに来てから、足取りが掴めなくなった。
キュイと接触することに、なんの意味があるのか。
キュイが応じるはずがない。
では目的は、キュイではなく、その回りにいる者にあるのかもしれない。
「そういえば……」
ルシタの姿が思い浮かぶ。
「ルシタは、首の後ろに痣があったが……」
「……はい」
キュイの澄んだ眼に、テラントは口を噤んだ。
余計なことを言ってしまった。そう思う。
キュイが微笑した。
「将軍は、以前よりも考えが顔に出るようになりましたね」
「……そうか?」
「お察しの通りです。ルシタは幼い頃に『メスティニ病』を患いました。一命は取り留めましたが……」
二十年ほど前に、ラグマ王国内で大流行した伝染病である。
その死者は、百万に達したという。
感染者の全身の肌には、黒い痣ができる。
病が癒えたあとも、なぜか首の後ろには痣が残る。
髪で隠してはいたが、ルシタの首の後ろにも、それがあった。
「子供は?」
「おそらくは、望めません」
致死率は、七割を超える。
助かったとしても、生殖能力が著しく弱まる。
「……妾とかは、考えないのか?」
ルシタは傷付くだろうが、反対はできないはずだ。
ラグマ王国では、部将が妾を持つことは当然のこととされていた。
副将軍ともなれば、何人もの女を囲うのが普通である。
だが、キュイの周辺には、ルシタ以外に女の気配はない。
「……将軍は、妾を持とうと考えたことはありますか?」
「いや、ないな」
「それと、同じです。きっと」
マリィと出会ってからは、他の女のことを考えることはなくなった。
この女がいればいい。そう思った。
「もっと贅沢な暮らしができるはずですが、ルシタは不平の一つも口にしたことがありません。村の酒場で働いていました。充実していたようです。無理に、家の事をする必要はない、と言ったことがありますが」
館には、使用人がいない。
全ての家事を、ルシタは完璧に熟していた。
「いつも笑顔で私を送り出し、いつも笑顔で迎えてくれます。ルシタがいるから、私は安心して留守にすることができます。ルシタがいるから、館にいる間、満ち足りた気分でいることができるのです」
惚気話とは、少し違う。
感謝の気持ち。それを、誠実に語っている。
「村から、縁談話がきたんだったよな?」
「はい」
馴れ初めは、聞いたことがある。
キュイの館で世話になった初日、やはり夜で酒を飲みながらだった。
ルシタが暮らす村に、キュイの率いる部隊が駐留したことがあった。
その時に、躾が行き届いていなかった新兵が、村の若い娘に乱暴をしようとしたらしい。
止めたのは、ルシタだった。
駆け付けたキュイにも、説教をしたという。
笑いながら、キュイはその時のことを話してくれた。
「ルシタが『メスティニ病』を患った過去があることは、知っていました。ですが、縁談を受けようと思いました。後悔はしないと感じたからです。これまでに後悔したことはありません」
そして、これからも後悔することはないのだろう。
キュイとルシタの二人を見ていると、そう確信を持てる。
「子供についても、可能性が全くないわけではないのです。だから、私は諦めてはいません」
初めて、キュイがグラスに口をつけた。
一気に呷る。
「もう一杯だ」
微笑んで、テラントはキュイのグラスに酒を注いだ。