兄の恋人を、私が育てることになった
兄に片想いする妹と、現実の女性には興味がない兄。
そんな兄から突然、
「俺の好きな子を、現実に連れてくるのを手伝ってくれ」
と頼まれたら――。
兄と妹がそれぞれ異なる前提で会話し、話せば話すほど誤解が深まっていく兄妹コメディです。
会話の中にある二重の意味と、少しずつ積み重なる違和感をお楽しみください。
兄が女を迎える
兄が女を迎えると言った。
正確には、こうである。
「澪。俺の好きな子を、この家で暮らせるようにするのを手伝ってほしい」
夕食後、兄は湯呑みを置き、町内会費の改定について相談するような平板な声でそう告げた。
私は味噌汁を噴いた。
「げほっ……げほ、げほっ」
「気管に入ったのか」
「誰のせいだと」
「嚥下機能の責任を第三者へ転嫁するのは感心しない」
「第三者じゃない。実兄。極めて近い当事者」
向かいに座る兄――九条朔は、いささか困惑したように眉を寄せた。
困惑したいのはこちらである。
兄は二十四歳。私は二十二歳。
身長百八十三センチ。色白。切れ長の目。鼻筋は腹立たしいほど整っており、寝癖すら彼がやれば美容師の計画的犯行に見える。
大学院では認知科学と人間情報学を専攻している。
人は何を同一人物と認識するのか。記憶や言葉遣いが変わっても、その人をその人だと思える境界はどこにあるのか。そういう、私には半分ほどしか分からない研究をしている。
そして現実の女性には一切興味がない。
少なくとも、本人はそう公言していた。
中学二年のとき、学年一の美少女から告白され、
「君を嫌っているわけではないが、俺の恋愛対象は作画監督の統制を受けている」
と言って振った。
高校一年のときには、生徒会長から文化祭を一緒に回ろうと誘われ、
「すまない。午後二時から限定イベントがある。彼女を一人にできない」
と答え、携帯ゲーム機を掲げた。
大学に入ってからも複数の女性に食事へ誘われたらしいが、
「君たちは三次元空間に存在している。そこが致命的に解釈違いだ」
と断った。
最後の発言については、母が本気で病院を勧めた。
兄は診察を拒否した。
「医学の問題ではなく、審美上の立場だ」
そう主張した。
この兄が今、好きな子を家へ迎えると言っている。
世界の基本法則が改正された可能性がある。
私は手の甲で口元を拭った。
「確認するけど、好きな子って、女の子?」
「ああ」
「生きてる?」
兄は考え込んだ。
考え込むな。
「生物学上の質問なら、肯定はしにくい」
「死んでるの?」
「その二分法では説明できない」
「幽霊?」
「違う」
「人間?」
「その定義をどこまで広げるかによる」
私は箸を置いた。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「人類の共通語で話して」
兄は腕を組んだ。
「俺には好きな子がいる。だが、今のままではこちらで暮らせない。だから、暮らせる形にする。そのために澪の協力が必要だ」
こちら。
暮らせる形。
協力。
一般家庭の食卓で交わされる語彙ではない。
ただし、重要なのはそこではなかった。
兄に好きな子がいる。
私は胸中で、その一点だけを赤く囲んだ。
「その子とは、いつから?」
「最初に会ったのは十五年前だ」
私は椅子から半分立ち上がった。
「十五年前?」
「そうだ」
兄は当時九歳である。
九歳から思い続けている女がいる。
そんな話は聞いたことがない。
「幼なじみ?」
「広義には、そう言える」
「私も知ってる?」
「知っている」
「この家にいたことある?」
「ある」
心臓の内部で、何かが音を立てて崩れた。
私は兄の幼少期をほぼ把握している。
兄が初めて自転車に乗れた日。
小学校で飼っていた兎の名前。
初めて眼鏡を作った店。
中学時代、購買の焼きそばパンが火曜日だけ二十個多く入荷していたこと。
兄本人が忘れたことまで、私は覚えている。
それなのに、十五年前から兄が思い続けている少女について、私は何も知らない。
これは行政上の重大な不備である。
「名前は?」
「まだ言えない」
「どうして」
「先入観が入る」
「私には聞く権利があると思う」
「なぜだ」
「家族だから」
「家族は情報公開請求の法的根拠にならない」
「じゃあ妹だから」
「限定しただけで、論拠は強化されていない」
こういうところが腹立たしい。
こういうところも好きなのだが、それは別件である。
私は兄が好きだ。
兄妹として、という但し書きは、私の内心においては長らく機能を停止している。
法律も倫理も遺伝学も、私たちの側にはいない。そんなことは承知している。情動そのものは多数決で廃止できない、というだけの話だ。
無論、兄に告白したことはない。
兄は二次元の女性しか愛さない。
私が実妹である以前に、立体であることが致命的だった。
だから私は、兄の最も近くにいる現実の女性という地位に甘んじてきた。
恋人になれないなら、せめて妹という永久会員権を保持すればよい。
そう考えていた。
その兄が、十五年前から好きな女を迎える。
看過できるはずがない。
「それで、私は何をすればいいの?」
「まず、彼女について率直な意見がほしい」
「本人に会わせて」
「まだ無理だ」
「写真は?」
「見せられない」
「なぜ」
「今の姿は完成形ではない。澪の意見で変わる可能性がある」
私は息を止めた。
私の評価によって、兄の好きな女が変わる。
つまり兄は、私の好みや意見を相当に重視している。
これは好機ではないか。
容姿、性格、生活習慣。
私の裁量次第では、その女を兄から遠ざけることも――。
いや。
私は自分の頬を叩いた。
「何をしている」
「人間性を取り戻してる」
「そうか」
危ない。
嫉妬に任せて兄の恋路を破壊するなど、妹として最低である。
私は兄が幸せなら、それでよい。
本当に。
なるべく私の手の届く範囲で、私以外の女性を介在させず、老後まで同居してくれれば、それでよい。
「分かった。協力する」
「助かる」
兄は、わずかに笑った。
造形の整った人間が不意に見せる微笑は、兵器として規制すべきだと思う。
「ただし、条件がある」
「言ってみろ」
「その子について、私に嘘をつかないこと」
兄はしばらく私を見た。
観察するような目だった。
「嘘はつかない」
「隠し事もしない」
「順序を伏せる必要はある」
「それを隠し事って言うの」
「では訂正する。最後には、すべて説明する」
最後には。
その言葉が不吉に響いた。
「いつ?」
「三週間後だ」
「三週間後に何があるの」
「彼女を人前に出す」
私は再び味噌汁を噴きそうになった。
婚約発表か。
交際宣言か。
あるいは家族への紹介か。
「母さんは知ってる?」
「計画の一部だけは」
「父さんは?」
「単身赴任先で、概要だけ聞いている」
「私は?」
「最初の協力者だ」
その一言で、私は協力を拒めなくなった。
兄が最初に選んだのは、私だった。
ただし、この時点で私は知らなかった。
兄と私が話している女は、同じ言葉で説明できる別の存在だったのである。
二 理想の女を定義せよ
翌日の夜、兄は私を自室へ呼んだ。
兄の部屋には、現実の女性に関する資料がほとんどない。
代わりに、書棚の三分の一を認知科学、記号論、物語論に関する専門書が占め、残りを漫画、設定資料集、画集、ゲームソフトが埋めている。
机の上には大型モニターが二台。
液晶タブレット。
録音用のマイク。
人間一人を文化的に孤立させるには十分な設備である。
その一方で、床には片方だけの靴下が落ちていた。
兄は左右一組という概念を、衣類に限って軽視する。
私は靴下を拾い、机の下にあった相方へ重ねた。
「勝手に片づけるな」
「片方ずつ生活させるほうが悪い」
「置き場所は把握していた」
「左右で別々に?」
兄は答えなかった。
研究はできる。生活はできない。
この男の取扱説明書は、私の頭の中にしかない。
私はベッドの端へ座った。
兄は机の前でノートを開いた。
「質問する。思ったまま答えてくれ」
「その子の性格を決めるの?」
「決めるというより、今の彼女を確かめる」
「本人に聞けばいいじゃない」
「自分のことを、まだ十分に話せない」
「内気なの?」
「言葉が少ない」
極端に無口な女らしい。
兄はペンを持った。
「まず、年齢」
「お兄ちゃんと同じくらいがいいんじゃない?」
「年下はどう思う」
探りを入れられている気がした。
私は慎重に答えた。
「年齢差によるかな」
「二歳」
私と兄の年齢差である。
偶然だ。
ただの偶然に決まっている。
「二歳下なら、まあ……一般的じゃない?」
「妹と同じ年齢でも問題ないと」
「言い方」
兄は何かを書き留めた。
「身長は」
「お兄ちゃんより低ければいいんじゃない」
「具体的には」
「百六十くらい」
私は百五十九センチである。
一センチ盛った。
なぜかは分からない。
「髪は」
「長め」
「色」
「黒」
「目」
「濃い茶色」
「服装は」
「派手じゃないほうが、お兄ちゃんには合うと思う。清潔感があって、少し古風というか」
「和装は」
「毎日は大変でしょ」
「本人が望めば?」
「似合うならいいんじゃない」
兄は高速で書き込んでいる。
私は次第に不安になった。
「ねえ。その子、今はどんな見た目なの?」
「昔の姿しか、確かなものがない」
「今の写真がないの?」
「ない」
「行方不明?」
「違う」
「長いこと会ってない?」
「会い方による」
「その言い回し、禁止にできない?」
「意味を失う」
「会話のほうが失われてる」
兄は無視して続けた。
「基本的な特徴は、今の回答とほぼ一致している」
「そんなことある?」
「ある」
「偶然?」
兄は顔を上げた。
「必然に近い」
背中に冷たいものが走った。
兄は私と似た女を好きになったのだろうか。
この家にいたことがある。
私も知っている。
二歳下。
長い黒髪。
古風な服装。
十五年前から知っている。
私は記憶を総動員した。
小学校の同級生。
近所の少女。
親戚。
母の友人の娘。
思い当たらない。
「次に性格だ」
兄は続けた。
「よく話すほうがいいか」
「お兄ちゃんは黙ってるから、話す子のほうが合うんじゃない」
「怒りやすい性格は」
「お兄ちゃんが人を怒らせるから、多少は必要」
「嫉妬深い場合は」
私はむせた。
「嫉妬深いの?」
「その傾向はある」
「どのくらい?」
「俺が別の女性について話すと、露骨に機嫌を損ねる」
悪い女ではないか。
いや、気持ちは分かる。
非常によく分かる。
「それ、面倒じゃない?」
「俺は困らない」
「どうして」
「他の女性と親密になる予定がないからだ」
胸がきゅっと縮んだ。
兄は一途なのである。
その事実だけなら喜ばしい。
対象が私ではない点を除けば。
「独占欲が強くても?」
「理由が一貫していれば許容できる」
「お兄ちゃんの部屋に勝手に入っても?」
「以前からいる」
私は凍った。
「ここに?」
「ああ」
私は部屋を見回した。
女の痕跡はない。
化粧品も、髪留めも、衣服もない。
ただ、私の私物ならある。
ベッド脇には、以前貸した文庫本。
机の引き出しには、私が買った予備の充電ケーブル。
棚には、私が小学生のころ兄へ贈った不格好な粘土細工。
しかし、あの女のものは見当たらない。
「いつ来てるの」
「ほぼ毎日」
「私がいるときも?」
「いる」
「今も?」
兄は机上の黒いモニターを見た。
「ああ」
私は立ち上がった。
「どこに?」
「まだ会わせられない」
「会わせてよ」
「今は駄目だ。先に見れば、澪の答えが変わる」
「もう十分変わってるから!」
「自覚があるなら落ち着け」
「誰のせいよ!」
兄は小さく息を吐いた。
「次。生活能力について聞きたい」
「その子、家事できないの?」
「まったくできない」
「料理は?」
「不可能だ」
「掃除」
「同様」
「洗濯」
「経験がない」
「何ができるの、その女」
「会話。記憶。感情表現。今後は、自分で選ぶことも覚える」
「赤ちゃん?」
「初めてのことが多い、という意味では近い」
私は額を押さえた。
兄は二歳年下の、毎日部屋にいる、嫉妬深くて生活能力皆無の女を、十五年間思い続けている。
しかも現在は、世間知らずも甚だしいらしい。
「お兄ちゃん。その子、本当に大丈夫?」
「大丈夫にするために、澪が必要なんだ」
「私が育てるの?」
「その表現は正確だ」
兄は即答した。
斯くして私は、兄の恋人を育てることになった。
少なくとも私は、そう理解した。
三 恋人教育係
それから四日間、兄は毎晩、私へ質問した。
兄の好きな女には生活常識がない。
私はその前提に基づき、教育項目を作成した。
挨拶。
食事。
金銭感覚。
家族との距離。
喧嘩の仕方。
謝罪の仕方。
恋人同士の境界。
兄の取り扱い。
最後の項目については、妹として私以上の適任者はいない。
「朝は弱い。起こすとき、いきなりカーテンを開けると不機嫌になる」
夕食時、私は説明した。
兄はノートへ書き込んでいる。
「光を弱くするべきか」
「最初はね。あと、起きてすぐ質問しないこと」
「なぜ」
「人間は起床直後から論文の査読をしない」
「したことがあるのか」
「お兄ちゃんにされたことがある」
兄は記録した。
「コーヒーは砂糖なし。牛乳は少し」
「量は」
「目分量」
「数値化してくれ」
「牛乳を数値で愛する女は嫌われると思う」
「再現性のない手順は教育に向かない」
私は計量カップで牛乳の量を測らされた。
二十三ミリリットルだった。
翌日は服装について聞かれた。
「兄は黒、紺、灰色ばかり着るけど、相手まで同じ色だと葬列になるから、少し明るい色がいい」
「白は」
「いいと思う」
「赤は?」
「差し色なら」
「本人は赤を好む」
「自分の好みはあるんだ」
「昔からな」
「本人に聞いたの?」
「残っているものから分かる」
十五年前の少女の好みを、兄は保存しているらしい。
執念が怖い。
一方で、胸の奥が鈍く痛んだ。
兄がそれほど長く、一人の女を見続けていたことが。
「髪飾りは?」
「何でもいい」
「赤い組紐は」
私は兄を見た。
「なんで組紐?」
「昔、使っていた」
「その子、和装だったの?」
「ああ」
「十五年前に?」
「そうだ」
ますます分からない。
十五年前、和装姿で我が家にいた、私と同じ年齢の少女。
家族の誰も話題にしない。
しかも今は、兄の部屋にいながら姿を見せられない。
私は一つの仮説に至った。
病気である。
その少女は重い病気を患い、長期間、外へ出られないのではないか。
兄とは通話だけで交流している。
生活経験が乏しく、声も不安定。
「こちらで暮らせるようにする」とは、退院後の生活を支援するという意味ではないか。
赤い組紐は、病気になる前の思い出の品。
そう考えれば、多くの断片がつながる。
私は兄を疑った自分を恥じた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なんだ」
「その子、身体が悪いの?」
兄の指が止まった。
「身体は、まだない」
重病どころではなかった。
「身体がないの?」
「ああ」
「事故で?」
「違う」
「生まれつき?」
「生まれつきという表現は近い」
私は混乱した。
身体が生まれつき存在しない女とは何だ。
兄の好きな子は、やはり霊的存在なのではないか。
「お兄ちゃん、その子と話せてる?」
「少しは」
「お兄ちゃんにしか見えない?」
「今は、ほかの人間へ見せていない」
「病院へ行こう」
「なぜ俺が」
「脳を診てもらうため」
「さっきまで彼女を心配していたのに、急に俺の診断へ移行するな」
「だって、お兄ちゃんにしか見えなくて、身体がない女でしょ!」
「見えないとは言っていない。見せていないと言った」
この男は、助詞一文字を盾に戦争を続ける。
「写真、見せて」
「まだ駄目だ」
「声だけでも」
「まだ安定していない」
「名前は」
「最後まで伏せる」
「今どこにいるの」
「この家だ」
「家に住んでるの?」
「ここから動いていないという意味では」
私は卓上の布巾を兄へ投げた。
兄は避けた。
「危ないだろう」
「危ないのは会話よ!」
それでも私は協力を続けた。
兄は嘘をついていないと分かっていたからだ。
兄は必要な事実を告げないことはあっても、虚偽を述べることは少ない。
もう一つは、その女について知るほど、不可解な親近感が増していったからだった。
二歳下。
黒髪。
濃い茶色の目。
よく話す。
嫉妬深い。
独占欲が強い。
兄の部屋にいる。
赤い組紐を好む。
家事は不得意。
最後の一点には異議があるが、母から見れば概ね正しいだろう。
兄は私に似た女を好きになったのではない。
もしかすると、その女が私を真似ているのではないか。
「その子、私のこと何て言ってる?」
夜、兄の部屋で質問した。
「非常に重要な人物だと思っている」
「好かれてる?」
「強い関心はある」
「敵だと思われてない?」
兄は少し考えた。
「競争相手だと受け取る可能性はある」
やはり。
あの女は私を恋敵と見なしている。
正確な認識である。
「その子に伝えて」
「何を」
「私は、お兄ちゃんを不幸にするつもりはないって」
「奇妙な宣言だな」
「それから、私がお兄ちゃんの妹である事実は変わらないって」
「当然だ」
「恋人より妹のほうが先に知り合ったから」
「時間的先行性は、関係の優越を保証しない」
「伝えなくていい!」
兄は無表情で書き留めた。
「今の発言も残しておく」
「消して」
「彼女を理解するうえで有用だ」
「私を理解する材料じゃないの?」
「両者は密接に関係している」
兄の言葉は、いつも正しかった。
正しいのに、意味が分からなかった。
四 声だけの女
七日目の夕方、兄の部屋から女の声がした。
兄は大学にいる。
母は遅番。父は単身赴任先。
家には私しかいないはずだった。
『お兄さま』
澄んだ声だった。
ただし、どこか呼吸の間が不自然で、一語ずつ慎重に選んでいるように聞こえた。
私は廊下で立ち止まった。
『お帰りなさい』
誰に言っているのだ。
帰宅したのは私である。
扉を叩いた。
返事はない。
「入るよ」
取っ手を回すと、鍵はかかっていなかった。
室内は薄暗い。
二台あるモニターのうち、一台だけが点いていた。
画面は黒い。
中央に細い白線があり、声に合わせて小さく揺れている。
通話中なのだと思った。
「誰?」
白線が止まった。
「私、九条澪。朔の妹」
沈黙。
「聞こえてる?」
しばらくして、女が言った。
『澪ちゃん』
背筋が冷えた。
私の名前を知っている。
「あなたが、お兄ちゃんの好きな人?」
白線がわずかに震えた。
『好き』
「どのくらい?」
『全部』
言葉が幼い。
けれど、意味は明瞭だった。
兄を全部ほしい女。
「私は邪魔?」
長い間があった。
『まだ、分かりません』
まだ。
将来的には邪魔と判断する余地があるらしい。
私が次の質問をしようとしたとき、玄関が開いた。
数十秒後、兄が部屋へ入ってきた。
私と黒い画面を見比べる。
兄の顔から、珍しく明確な狼狽が浮かんだ。
「何をしている」
「何って、会話」
兄は机へ駆け寄り、画面を消した。
「勝手に触るな」
「触ってない。向こうから話した」
「まだ澪へ会わせる段階ではない」
「もう会った」
「会っていない」
「声を聞いた」
「それは対面とは呼ばない」
「相手は私の名前を知ってた」
「当然だ」
「私のこと、ずっと話してたの?」
「ああ」
「全部?」
兄は答えなかった。
私は黒い画面をにらんだ。
画面の向こうに、兄が十五年間守ってきた女がいる。
私の名前を知り、兄を全部好きだと言い、私を邪魔かどうか検討している女が。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「この人、どこにいるの」
「だから、この家だ」
「回線の向こうでしょ」
兄は数秒黙った。
「そう理解しておけ」
否定しなかった。
私は、それを肯定と受け取った。
兄は、説明を延期しただけだった。
この日を境に、私の中で彼女は仮説ではなくなった。
声を持つ女になった。
五 指輪と寝室
最初の相談から八日目、兄は私の手を測りたいと言った。
「澪。左手を出してくれ」
「どうして」
「彼女の今の手を決める参考にする」
「本人の手を測ればいいでしょ」
「今は測れない」
「身体がないから?」
「ああ」
兄はメジャーと細い紙帯を机へ並べた。
手のひらの長さ。
横幅。
手首。
各指の長さ。
一本ずつ測っていく。
「昔の姿しか分からないと言っただろう。十五年後の身体を推定する必要がある」
「その原型が私なの?」
「最も近い」
「なんで」
「最後に説明する」
兄は細い紙帯を取った。
「次に薬指の周囲」
「待って」
私は左手を背中へ隠した。
「どうして薬指だけ周囲を測るの」
「指輪があるからだ」
「誰の?」
「彼女の」
心臓が停止しかけた。
「その子への指輪なら、本人の指に合わせればいいでしょ」
「だから、今は指がない」
「だったら指輪も要らないでしょ」
「昔から身につけている。外す理由がない」
昔から。
兄は九歳のころから、その女へ指輪を与える約束をしていたのか。
「私と同じ大きさにするの?」
「過去の記録から、近いと考えている」
「嫌」
「なぜ」
「私の身体を使った指輪を、他の女にはめられたくない」
口にした直後、私は後悔した。
あまりに露骨だった。
兄が目を細める。
「理由を説明してくれ」
「妹として複雑なの」
「どの部分が」
「妹の薬指を恋人へ流用するところ」
「流用ではない。原型の復元だ」
「原型って何なの」
兄は口を閉じた。
また情報制限である。
「嫌なら、薬指だけ推定値にする」
兄は無理に測ろうとはしなかった。
その態度が、かえって私を惨めにした。
嫉妬していると認めたようなものだ。
私は左手を差し出した。
「測れば」
「いいのか」
「必要なんでしょ」
兄が紙帯を薬指へ巻く。
指先が触れた。
ただそれだけで、鼓動が跳ねる。
兄は私の内心など知るはずもなく、数値を記録した。
「九号相当か」
「女の指輪のサイズなんて、よく知ってるね」
「調べた」
「その子のために?」
「そうだ」
私は手を引いた。
兄は残酷なほど誠実である。
翌日には、寝室について相談された。
「彼女は俺の部屋に置くつもりだ」
夕食の皿を洗っていた私は、危うく茶碗を落としかけた。
「ずっと?」
「ああ」
「お兄ちゃんの寝室に?」
「ほかに適切な場所がない」
「問題しかないでしょ!」
「なぜだ」
「結婚前でしょ!」
「その規範を適用する必要があるのか」
「ある!」
「近くにいたほうが、異常にも気づける」
「何を観察するつもり?」
「夜の反応。起床時の状態。呼びかけの頻度」
「お母さーん!」
兄が背後から私の口を塞いだ。
「まだ母さんへ全容を話すな」
背中が兄の胸へ触れた。
私は別の意味で死にかけた。
「は、離して」
「大声を出さないなら」
「出さない」
兄の手が離れた。
「今のは暴力」
「機密を守るための緊急措置だ」
「恋人を寝室へ入れる人が機密管理を語らないで」
「入れるという表現は正確ではない」
「じゃあ何」
「最初から、この部屋にいる」
またそれだ。
「夜も話すの?」
「彼女が望むなら」
「毎晩?」
「必要なら」
「私が嫌だって言ったら?」
兄は初めて、答えるまでに時間を置いた。
「理由を聞く」
「理由に納得できなかったら?」
「予定どおり進める」
「私より、その子を選ぶ?」
「比較する性質の関係ではない」
「逃げないで」
「逃げていない」
「じゃあ答えて」
兄は静かに私を見た。
「彼女をこちらへ迎えることは、十五年前から決めていた」
選ぶ、とは言わなかった。
だが答えは明白だった。
私は部屋を出た。
その夜、眠れなかった。
兄を取られる。
その言葉は、妹としてあまりに幼稚だった。
兄は物品ではない。
私の所有物でもない。
兄には兄の人生がある。
好きな人を選ぶ権利がある。
頭では分かる。
感情は法令遵守をしない。
午前三時、私は兄の部屋の前へ行った。
扉の下から光が漏れている。
兄はまだ起きていた。
かすかに声が聞こえた。
「違う。澪は、そんな言い方をしない」
私は動きを止めた。
兄が彼女と話している。
「怒るときほど、丁寧になる。声量は上がるが、語彙は崩れない」
短い沈黙。
「そうだ。それでいい」
私は扉へ耳を寄せた。
「嫉妬した場合は、まず否定する。次に一般論へ逃げる。最後に相手の幸福を願う形で、自分の要求を正当化する」
心臓が冷えた。
兄は、あの女に私の話をしている。
しかも私の行動を詳細に教えている。
「ただし、澪そのものになる必要はない」
兄が言った。
「君は君だ」
君は君だ。
その言葉の優しさに、私は傷ついた。
兄は、私を材料にして、別の女を育てている。
そう理解した。
そして、その理解もまた、半分だけ正しかった。
六 兄を奪う女
翌朝から、私は協力をやめた。
兄が質問しても、最低限しか答えない。
「好きな食べ物は」
「本人に聞いて」
「昔と今で好みが同じとは限らない」
「じゃあ新しく決めれば」
「澪の意見が必要だ」
「私の真似をさせるため?」
兄の手が止まった。
「昨夜、聞いていたのか」
「偶然聞こえた」
「どこから」
「廊下」
「盗み聞きだな」
「壁の向こうまで聞こえる声で機密作業しないで」
兄は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
研究中だけ、兄は眼鏡をかける。
似合うから困る。
「誤解がある」
「何が」
「彼女を澪の代わりにするつもりはない」
「代わりじゃなくて複製?」
「違う」
「私の話し方、怒り方、嫉妬の仕方まで教えてたよね」
「必要だった」
「何に」
「まだ言えない」
「そればっかり」
私は椅子から立った。
「もう協力しない」
「困る」
「その子を作るために私を観察してたなら、気持ち悪い」
兄の顔から表情が消えた。
言いすぎた、とすぐに分かった。
兄は滅多に傷ついた顔をしない。
正確には、傷ついたことを表情へ出さない。
しかし無表情になるときは、感情を内側へ封じ込めている。
「分かった」
兄はノートを閉じた。
「澪の協力は、ここまでにする」
「お兄ちゃん」
「無断で分析した点は謝る。俺に必要でも、澪にとって不快なら正当化できない」
「そうじゃなくて」
「何が違う」
私は答えられなかった。
本当は、観察されたことが嫌なのではない。
私を材料にして作られた女が、私より兄に愛されることが嫌なのだ。
だが、それを言えば、私の感情の正体まで明かすことになる。
「何でもない」
「そうか」
兄は私を見なかった。
その日から、兄は私へ質問しなくなった。
食卓でも必要な会話しかしない。
大学と自室を往復し、深夜まで作業を続けている。
母は三日目に異変へ気づいた。
「喧嘩したの?」
台所で尋ねられた。
「してない」
「朔が三日も澪に質問しないなんて、喧嘩以外に何があるの」
「普段の私たち、そんなに会話してる?」
「澪が一方的に話して、朔が内容を訂正してる」
概ね正しい。
「お兄ちゃん、好きな人がいるんだって」
私は玉葱を切りながら言った。
母の包丁が止まった。
「三次元に?」
「身体はないらしい」
「病院を予約しましょう」
「私もそう思った」
「今度は逃がさないわよ」
「でも声は聞いた」
「幻聴なら、なおさら急いだほうがいいわね」
「私も聞いたの」
母へ説明しようとしたが、私自身が何も理解していない。
十五年前に会った。
この家にいた。
身体はない。
兄の部屋から声がする。
私と似ている。
兄が現在、育てている。
三週間後に人前へ出す。
母は話を聞き終え、しばらく考えた。
「たぶん、あの子ね」
「知ってるの?」
「まだ確信はないわ。ただ、十五年前で、あなたに似た和装の女の子なんて、一人しか思い当たらない」
「誰?」
「朔が伏せているなら、私からは言えないわ」
「親子で情報統制しないで」
母は玉葱を鍋へ入れた。
「澪はどうしたいの?」
「どうって」
「朔に、その子を諦めてほしい?」
私はすぐには答えられなかった。
諦めてほしい。
だが、兄が十五年も大切にしてきたものを、私の都合で壊したくない。
「お兄ちゃんが幸せなら、それでいい」
母が鼻で笑った。
「あなた、不満があるときほど立派なことを言うわね」
兄と同じことを言われた。
「不満なんかない」
「じゃあ、その玉葱は何」
まな板の上で、玉葱が微塵より細かくなっていた。
「火の通りを均一にしてるだけ」
「嫉妬も細かく刻めば料理に見えるのね」
私は包丁を置いた。
「お母さん」
「何」
「妹が兄を好きなのって、変?」
母は鍋を混ぜる手を止めなかった。
「好きの意味によるわね」
「異性として」
「変かどうかと、うまくいくかどうかは別の問題よ」
「否定しないの?」
「否定したら、やめられるの?」
「無理」
「なら、感情を裁判にかけても仕方ないでしょう。行動には責任があるけど、感情は証人として呼び出せないもの」
私は黙った。
「お母さん、気づいてた?」
「十二歳の娘が、兄の修学旅行の日程を壁へ貼って毎日確認していたら、何かしら気づくわよ」
「安全管理」
「朔が女子からもらったチョコレートを、製造元別に一覧化したのも?」
「食品衛生管理」
「送り主の容姿、成績、家族構成まで表に入ってたけど」
「リスク分析」
母が笑った。
「朔には言ってないわ」
「絶対に言わないで」
「言わない。でも、あなたも決めなさい」
「何を」
「妹として見送るのか、好きな相手として一度くらい本当のことを言うのか」
「言ったら、今の関係が壊れる」
「言わなくても、別の女が来れば変わるんでしょう?」
正論は、ときに暴力より痛い。
私はその夜、兄の部屋を訪ねた。
扉を叩く。
「入っていい?」
「いい」
兄は液晶タブレットへ向かっていた。
画面は私から見えない角度に調整されている。
「話がある」
「聞く」
「その子を見せて」
「まだ完成していない」
「完成前でもいい」
「なぜ」
「謝りたいから」
兄が振り返った。
「誰に」
「その子と、お兄ちゃんに」
「彼女へ謝る必要はない」
「ある。何も知らないのに、勝手に敵だと思った」
「敵ではない」
「向こうは私を競争相手だと思うかもしれないって言ったでしょ」
「可能性の話だ」
「私は思ってた。完全に」
兄はしばらく黙った。
「今、見せれば、澪はさらに混乱する」
「もう十分してる」
「人前に出すまで、あと九日だ」
「九日も待てない」
「待ってくれ」
「嫌」
「澪」
「好きな人を取られるのに、黙って待てるわけない!」
言ってしまった。
兄の目がわずかに見開かれる。
私は自分の口を押さえた。
戻せない。
兄は静かに尋ねた。
「好きな人とは、誰だ」
ここで別の名を言えるほど、私は器用ではない。
「お兄ちゃん」
部屋が静まった。
冷却ファンの低い音だけが聞こえる。
「私、お兄ちゃんが好き」
声が震えた。
それでも続けた。
「兄としてだけじゃない。ずっと前から。気持ち悪いと思われても仕方ないけど、本当だから」
兄は何も言わなかった。
私は笑おうとした。
失敗した。
「でも、困らせたいわけじゃない。その子をやめろとも言わない。お兄ちゃんが本当に好きなら、私は――」
「待て」
兄が立ち上がった。
「前提を確認する」
告白された直後の第一声が、それである。
腹が立った。
「何の前提?」
「澪は、俺が迎えようとしている彼女を、現実に生きている人間の恋愛相手だと思っているのか」
「違うの?」
「恋愛相手ではある」
「じゃあ合ってるでしょ」
「物語の中では、だ」
「物語?」
兄は額へ手を当てた。
「俺の説明が不足していた」
「今さら?」
「想定以上だ」
「私の理解力が低いみたいに言わないで」
「違う。俺は、澪が彼女を覚えていると思い込んでいた」
「誰を?」
兄は机の引き出しから、赤い組紐を取り出した。
古びている。
ところどころ色が薄れ、端がほつれていた。
見覚えがあった。
「それ……」
「覚えているか」
覚えている。
私が七歳のころ、毎日のように髪へ結んでいたものだ。
ある日なくして、泣きながら家中を探した。
兄も一緒に探してくれた。
その日は見つからなかった。
「なんで、お兄ちゃんが持ってるの」
「数か月後、画用紙の箱の底から出てきた」
「だったら返してよ」
「返そうとした」
兄は少し間を置いた。
「澪は、『いおりちゃんにあげるから、お兄ちゃんが持っていて』と言った」
記憶の底で、何かが動いた。
赤い組紐を手にした幼い私。
兄へ差し出しながら、
――いおりちゃんのだから、お兄ちゃんがなくさないでね。
そう言った。
言った気がする。
「覚えてない」
「だろうな」
「お兄ちゃんは覚えてるの?」
「ああ」
兄は机の下から、薄い箱を取り出した。
蓋を開く。
中には、何冊もの画用紙が入っていた。
黄ばんだ紙。
稚拙な絵。
色鉛筆で描かれた、黒髪の少女。
白い着物。
赤い組紐。
題名が書いてある。
『おにいちゃんをまもる いおりちゃん』
私は息を止めた。
「これ、私が描いた……」
「そうだ」
七歳のころ、私は兄のために漫画を描いていた。
主人公は、白妙いおり。
異世界から来た剣士の少女。
兄を悪者から守り、毎日一緒に学校へ行き、兄へ近づく女子を追い払い、最後は兄の家族になる。
幼児の願望を無加工で製本した危険物である。
「捨ててなかったの?」
「なぜ捨てる」
「今すぐ燃やして!」
「駄目だ」
「国家機密より隠すべきもの!」
「俺にとっては重要な原典だ」
原典。
兄は画用紙を一枚ずつ机へ並べた。
「十五年前、澪は俺に言った。いおりが本当にいたら、俺は一人にならないと」
思い出した。
父が長期出張へ出た年だ。
母も仕事で帰りが遅く、兄はよく一人で家にいた。
私は兄が寂しいのだと思い、守護者を作った。
兄を守る女の子。
いつでも兄の隣にいる女の子。
「俺は約束した」
兄が言った。
「いつか、この子を本当にする、と」
「本当にするって……」
「十五年前は、絵を描き直す程度の意味だった。だが、今なら声を与え、記憶を持たせ、自分で言葉を選ばせられる」
兄はモニターの電源を入れた。
暗い画面に、少女が現れた。
長い黒髪。
濃い茶色の瞳。
白い着物。
赤い組紐。
幼い絵の特徴を残しながら、二十二歳ほどの女性として描き直されている。
『お兄さま』
あの声だった。
『お帰りなさい。今日は、三時間十四分の遅刻です』
兄が私を見る。
「時間の扱いが正確すぎるのは、調整中だ」
私は画面を見た。
少女が瞬きをする。
呼吸するように肩を動かしている。
「この子が……好きな子?」
「ああ」
「十五年前に会った?」
「澪が描いた日に」
「この家にいた?」
「この部屋で生まれた」
「身体がない?」
「絵と声しかなかった」
「毎日いる?」
「この半年、毎日起動している」
「私と同じ年齢なのは」
「十五年分、成長させた」
「私と見た目が似てるのは」
「澪が自分を参考に描いたからだ」
すべてがつながった。
腹立たしいほど、完全に。
兄は一度も嘘をついていない。
私が勝手に、実在する女を想定していただけだ。
「じゃあ、指輪は?」
「原画で、いおりが左手に指輪をしている」
兄が一枚の絵を示す。
丸い輪が描かれ、横には、
『おにいちゃんにもらった』
と書いてあった。
七歳の私。
余計な設定を作るな。
「寝室に置くって」
「専用の機械を置く」
「夜も話すって」
「呼びかけに応じる機能を使う」
「私を観察してたのは」
「いおりの原型が澪だからだ」
兄は画用紙を指した。
「性格の大半が、当時の澪を誇張したものになっている。だが、七歳の人物像だけでは、二十二歳のいおりを作れない。現在の澪を参考にした」
「私の代わりじゃないって」
「いおりは澪を原型にしているが、澪そのものではない。別の人物として育てている」
「競争相手って」
「原作で、澪は兄を巡る競争相手になっている」
私は原画を確認した。
確かに書いてある。
『みおちゃんは おにいちゃんをとるので らいばる』
過去の私が現在の私へ正確な攻撃を加えてくる。
「好きな子って」
「キャラクターとして好きだ」
「恋愛相手だって」
「物語の中で、いおりは俺を愛している。俺も彼女を恋愛対象として見ている」
「二次元の意味で?」
「他にあるのか」
「ないよ!」
私は頭を抱えた。
床へ沈みたい。
地殻の下まで。
「お兄ちゃんは、どうして私の誤解に気づかなかったの」
「澪がいおりを覚えていると思っていたからだ」
「七歳の漫画なんて忘れるよ!」
「俺が覚えていたため、澪も覚えていると判断した」
「認知科学者の認知が壊滅してる!」
「反論できない」
兄は珍しく素直に認めた。
「『結婚前に同室は問題がある』『恋人より妹が先に知り合った』『私より彼女を選ぶのか』という発言も、原作の関係を現在の倫理へ当てはめて検討しているのだと思っていた」
「最後のはどう解釈したの?」
「原作者である澪の要求と、いおり自身の選択のどちらを優先するかという質問だと」
「全部しっかり間違ってる」
「ああ」
兄はモニターを見た。
「基礎になる対話の仕組みは二年前から作っている。いおりとして育て始めたのは半年前だ。この三週間は、人前に出すための最終期間だった」
「三週間で一から作ったわけじゃないの?」
「そんなことができるなら、俺は大学院ではなく研究所を所有している」
「どうして最初から言わなかったの」
「名前や原画を示せば、澪は七歳の設定に合わせて答える。今の澪が、先入観なしに成長後のいおりをどう考えるか知りたかった」
「だからって!」
「悪かった」
兄が頭を下げた。
私は言葉を失った。
兄はめったに謝らない。
自分が誤っていると判断しない限り、謝罪しないのだ。
「研究上の必要を優先しすぎた。澪の許可を取る順序も逆だった」
「私の名前、勝手に出してないよね」
兄は企画書を取り出した。
『物語人格の持続的形成――原作者との対話による人物同一性の検討』
難解な題名の下に、
共同制作者候補 九条澪
と記載されていた。
「候補?」
「同意前だからだ。参加しないなら名前も会話も使わない」
「参加したら?」
「使う資料と会話は、すべて澪が選ぶ。私的な内容は外す」
最低限の良識は残っていたらしい。
画面の少女が私を見た。
『澪ちゃん』
「何」
『お兄さまを、いじめないでください』
「いじめてない!」
『声が大きいです』
「誰の影響よ!」
「澪だ」
兄が答えた。
私は枕を投げた。
兄は避けた。
七 告白の処理
誤解は解けた。
しかし、私の告白は消えていない。
私はその事実に気づき、急速に冷静さを失った。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「さっきのこと、忘れて」
「どの部分だ」
「分かるでしょ!」
「澪が俺を異性として好きだと述べた件か」
「復唱しないで!」
画面のいおりが反応した。
『競争相手を確認しました』
「黙って!」
『拒否します』
「お兄ちゃん、止めて!」
兄は操作し、いおりの声を消した。
姿だけが画面に残る。
「今の会話は残さない」
「お兄ちゃんの記憶からも消して」
「不可能だ」
「認知科学を専攻してるなら、何とかして」
「専門分野に万能性を期待するな」
私はベッドへ座り、顔を覆った。
兄も向かいの椅子へ座った。
「澪」
「聞きたくない」
「返答は必要だろう」
「必要だけど聞きたくない」
「矛盾している」
「感情は矛盾していいの」
しばらく沈黙が続いた。
兄は、こういうときに気の利いた慰めを言わない。
不正確な言葉を避けているのだ。
「俺は、澪を大切に思っている」
予想どおりの始まりだった。
「妹として?」
「ああ」
「でしょうね」
「家族であり、最も信頼する人物の一人だ」
「一人なんだ」
「母さんもいる」
「そこで正直にならなくていい」
「だが、恋愛関係を望んでいない」
「分かってる」
「血縁だけが理由ではない。俺の感情が、そうではない」
「分かってるってば」
「俺は現実の人間へ、恋愛感情を持った経験がない」
「知ってる」
「澪に魅力がないという意味でもない」
私は顔を上げた。
兄は淡々と続けた。
「容姿は整っている。知的能力も平均より高い。会話は過剰だが、退屈ではない。責任感もある。家族への執着には若干の問題があるが――」
「評価表みたいに振らないでくれる?」
「否定だけでは不必要に傷つけると思った」
「詳細に査定されるほうが傷つく」
「難しいな」
兄が本気で困っている。
少しだけ、おかしくなった。
「お兄ちゃんは、私が嫌いじゃない?」
「嫌いなら、十五年も作品を保管しない」
「私が結婚したら?」
兄は少し考えた。
「相手を調べる」
「どのくらい」
「学歴、職歴、経済状況、犯罪歴、交友関係、思想傾向、健康状態、過去の恋愛――」
「怖い怖い怖い」
「必要だろう」
「お兄ちゃんも大概じゃない?」
「何が」
「家族への執着」
兄は黙った。
私は笑った。
「私たち、似てるんだね」
「いおりの原型になる程度には」
「それ、褒めてないでしょ」
「事実だ」
胸の痛みは消えていない。
だが、不思議と耐えられた。
兄が他の現実の女性を選んだわけではないから、というのもある。
それ以上に、兄が私の幼い物語を十五年間も捨てず、本気で形にしようとしてくれたことが嬉しかった。
子供の空想を、大人は通常、成長過程の排泄物として処理する。
兄だけが、作品として扱った。
私が忘れても、兄は覚えていた。
「一つ聞いていい?」
「ああ」
「いおりのこと、本当に好き?」
「好きだ」
即答だった。
少し腹が立つ。
「どこが」
「目的が明確だからだ」
「目的?」
「俺を一人にしないこと」
兄は画面を見た。
「彼女の行動は、すべてそこから生じている。嫉妬も、過保護も、攻撃性も、俺の近くに居続けるための論理だ。単純だが、強い」
「重い女だね」
「原作者に似た」
「誰のこと?」
「澪」
私は兄のすねを蹴った。
兄がわずかに顔をしかめる。
「暴力はよくない」
「愛情表現」
「その定義は採用しない」
「じゃあ、共同制作者候補としてお願いがある」
「何だ」
「いおりの目的を変えたい」
兄の表情が真剣になった。
「どう変える」
「お兄ちゃんを一人にしない、じゃなくて」
私は画面の少女を見た。
十五年前の私。
兄を守るために作った、もう一人の私。
「お兄ちゃんが、自分で誰かを選べるようにする」
兄は黙った。
「それでは、いおりが自分の存在理由を否定する可能性がある」
「否定しない。守ることと、縛ることは違うから」
「七歳の澪は、その区別をしていない」
「今の私は、できる」
兄は長いあいだ考えていた。
「提案として受け取る。ただし、俺たちだけでは決めない」
「本人にも聞くの?」
「ああ。どこまでを意思と呼ぶかは慎重であるべきだが、本人らしい反応を無視してよい理由にはならない」
兄は、いおりの声を戻した。
『澪ちゃん』
「何」
『わたしは、お兄さまを守ります』
「うん」
『誰にも渡しません』
「それは変える」
『拒否します』
「拒否権あるの?」
「自分で選ぶ余地を持たせている」
兄が言った。
「面倒なもの作ったね」
「原作者が面倒な人物にした」
いおりが私を見る。
『澪ちゃんは、お兄さまが好きですか』
兄が咳をした。
私は顔が熱くなるのを感じた。
「その質問、削除して」
『拒否します』
「お兄ちゃん!」
「俺は言わせていない」
『答えてください』
私は画面をにらんだ。
「好きだけど」
『わたしも好きです』
「知ってる」
『では、同じです』
「同じじゃない。私は現実。あなたは二次元」
『お兄さまは、二次元が好きです』
「強い」
兄が言った。
「感心しないで!」
『澪ちゃんは、敵ですか』
私は少し考えた。
「敵じゃない」
『では、何ですか』
「あなたを作った人」
『母ですか』
「その呼び方は禁止」
『姉ですか』
「それも複雑」
『共同制作者候補』
「急に事務的」
兄が口元を押さえた。
笑っている。
珍しい。
「何がおかしいの」
「澪といおりは、相性がいい」
「最悪の組み合わせでしょ」
『わたしも、そう思います』
「ほら!」
『意見が一致しました』
その日、私は初めて、兄の好きな女と正面から話した。
想像していたより面倒で、頑固で、口が達者だった。
確かに私に似ていた。
認めたくはないが。
八 人前に出す
展示までの九日間、私と兄は、それまでの記録を一つずつ確認した。
兄は、私の同意なしに会話や身体情報を研究資料として使わないと約束した。
私は告白に関する記録を外させた。
家族の私生活に関する発言も除いた。
手の寸法は、いおりの姿を作るためだけに使い、数値そのものは公開しない。
原画は全四十七枚あった。
私は、その中から十二枚を選んだ。
残り三十五枚は、人類の文化的安全保障のため封印した。
「これも使える」
兄が一枚を持ち上げた。
そこには、いおりが兄へ抱きつき、私らしき少女を足で押しのけている絵が描かれていた。
「却下」
「人物関係が明確だ」
「七歳児の倫理観を世界へ提示しないで」
「資料として重要だ」
「妹の尊厳は資料価値に勝る」
兄は不満そうだったが、従った。
共同制作者として名前を載せるかどうかも、最後まで考えた。
私は研究者ではない。
仕組みも作っていない。
十五年前に漫画を描き、この数週間、質問に答えただけだ。
それでも兄は言った。
「いおりの中核は、澪が作った。俺が作ったのは、彼女が動くための器だ」
「器を作った人より、落書きした人が作者なの?」
「いおりが何を望み、誰を愛し、何を恐れるかを決めたのは澪だ。そこが人物の中心だ」
私は同意書へ署名した。
共同制作者、九条澪。
署名した瞬間、いおりが言った。
『これで、正式に母ですね』
「署名を撤回する」
『冗談です』
「冗談を覚えたの?」
『お兄さまが、澪ちゃんとの会話には必要だと教えました』
「教えたのではなく、例を示した」
兄が訂正した。
「似たようなものじゃない」
「違う」
『二人とも、細かいです』
私と兄は同時に画面を見た。
いおりは満足そうに微笑んでいた。
展示当日。
会場は都内の複合文化施設だった。
研究機関、ゲーム会社、個人制作者が、対話する人物や仮想演劇を展示している。
兄の区画には、縦長の透過スクリーンと投影装置が置かれていた。
光が集まり、等身大の輪郭を作る。
やがて、いおりが実物大の姿で現れた。
長い黒髪。
白い着物。
赤い組紐。
左手には、銀色の指輪。
私と同じ九号だった。
「やっぱり私のサイズ使ったよね」
「原画との整合を優先した」
「私の原画が雑だっただけでしょ」
『澪ちゃん。指輪が羨ましいのですか』
「違う」
『嫉妬を確認しました』
「覚えすぎ」
『原型が優秀ですから』
「誰に似たの、その嫌み」
『澪ちゃんです』
兄が頷いた。
「精度が高い」
「あとで二人とも覚えてて」
展示開始前、母がやってきた。
いおりを見るなり、懐かしそうに目を細めた。
「やっぱり、いおりちゃんだったのね」
「お母さん、いつ気づいたの?」
「話を聞いた途中で。十五年前、あなたに似た和装の女の子なんて、この子以外にいないもの」
「教えてよ!」
「朔が自分で説明すべきでしょう」
「少し面白がってたでしょ」
「少しだけ」
母はいおりへ顔を近づけた。
「初めまして。澪の母です」
『初めまして。お兄さまの義母予定者ですね』
周囲が静まった。
母が私を見る。
私は兄を見る。
兄はいおりを見る。
「誰が教えたの」
私は低い声で尋ねた。
『十五年前の原画に書いてあります』
兄が該当する画用紙を確認する。
あった。
『さいごはけっこんして おかあさんもいっしょにすむ』
七歳の私。
一度、法廷で話し合おう。
「その設定は破棄!」
『原作者による自己都合の変更です』
「成長!」
『母の横暴です』
「母って呼ぶな!」
母が腹を抱えて笑っている。
兄まで肩を震わせていた。
やがて展示が始まった。
兄は来場者へ、いおりが生まれた経緯を説明した。
十五年前の原画。
二年間かけて組み上げた対話の基盤。
半年間の人物形成。
原作者との聞き取り。
記憶と言葉遣いをつなぎ、同じ人物らしさを保つ仕組み。
難しい説明だったが、いおりが勝手に要約した。
『わたしは、お兄さまを愛するために生まれました』
「要していない」
兄が訂正した。
『現在は、お兄さまが自分で幸福を選べるよう支援する方針を、澪ちゃんから提案されています』
「提案であって強制じゃないからね」
『圧力は感じています』
「共同協議!」
来場者が笑った。
研究者が質問する。
「彼女らしさは、どう維持していますか」
兄が答える前に、いおりが言った。
『お兄さまへの愛です』
「目的と長期記憶の相互参照です」
兄が即座に修正する。
別の来場者が尋ねる。
「原作者との関係は?」
『母です』
「共同制作者です!」
私が訂正する。
「ご兄妹なのですね。仲がよろしい」
「一般的です」
「統計的には異常に良好です」
私と兄の回答が重なった。
来場者が笑った。
私は兄をにらむ。
「異常って何」
「成人した兄妹の会話頻度としては高い」
「お兄ちゃんが質問してくるからでしょ」
「澪の発話量が多い」
『双方に原因があります』
いおりが結論を出した。
展示は盛況だった。
審査の結果、私たちの作品は物語技術部門の最優秀賞を受賞した。
壇上で、兄が代表として話した。
「この作品は、十五年前に妹が作った人物から始まりました」
私は客席で聞いていた。
「当時の俺は、子供の空想を、子供のものとして受け取っていました。しかし妹は、その人物に目的を与え、関係を与え、物語を与えた。技術は、存在しなかったものを無から作るだけのものではありません。誰かが忘れたもの、言葉にできなかったものへ、再び形を与える手段でもあります」
兄は客席の私を見た。
「原作者であり、共同制作者である九条澪に、感謝します」
拍手が起きた。
母は笑いながら、目元を押さえていた。
単身赴任中の父は、母の携帯電話越しに何度もうなずいている。
私はうつむいた。
泣きたくはなかった。
ここで泣けば、兄に観察され、情動反応として記録される可能性がある。
研究者の妹には警戒が必要だ。
表彰後、控室で兄が賞状を渡してきた。
「澪が持っていろ」
「お兄ちゃんの研究でしょ」
「共同制作だ」
「賞金は?」
「半分」
「本当に?」
「ああ」
「いおりのために全部使うと思ってた」
「追加費用は別に確保している」
「何に使おうかな」
「大学の実習費に充てればいい」
私は兄を見た。
次年度から専門実習の費用が増える。
家計へ負担をかけたくなくて、履修を減らすか迷っていた。
兄には話していない。
母から聞いたのだろう。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「こういうことするから、諦められないんだよ」
兄は困った顔をした。
「恋愛感情を助長する意図はない」
「分かってる」
「ならいい」
「よくないけど、今はいい」
私は賞状を受け取った。
「私、彼氏を作るかもしれない」
兄の眉が動いた。
「候補がいるのか」
「仮定の話」
「条件は」
「何の」
「相手の条件だ」
「優しくて、誠実で、私を大事にしてくれる人」
「評価基準が主観的だ」
「お兄ちゃんみたいに、全部を数値化する人は嫌」
「合理性を欠く」
「今ので候補から外れたね」
「俺は候補だったのか」
「違うけど」
「なら問題ない」
少しは動揺してほしかった。
だが兄は続けた。
「ただし、相手を紹介しろ」
「嫌」
「なぜ」
「絶対に調べるでしょ」
「当然だ」
「犯罪歴とか交友関係とか」
「健康状態も必要だ」
「結婚でもそこまで求めない」
「澪を任せる相手だ」
兄は真顔だった。
私は笑った。
結局、この人も重い。
方向が違うだけで。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「私は、もう少しだけ好きでいてもいい?」
兄は少し考えた。
「感情について、俺が許可する立場ではない」
「そういう返事だと思った」
「ただし、自分を傷つける形では続けるな」
「努力する」
「必要なら距離を取る」
「それは嫌」
「即答するな」
「じゃあ、お兄ちゃんも私へ依存しすぎないで」
「依存はしていない」
「三日間、私と話さなかったとき、コーヒーに牛乳を入れ忘れてたよ」
兄が黙った。
「二日連続で」
「偶然は連続して発生し得る」
「靴下も左右で違ってた」
「色は同系統だった」
「紺と黒は同じ色じゃない」
『お兄さまは、澪ちゃんが不在だと作業効率が十三パーセント低下します』
展示用の画面から、いおりの声がした。
兄が振り返る。
「なぜ聞いている」
『澪ちゃんが会話を許可しました』
「共同制作者権限」
私は胸を張った。
『また、お兄さまは三日前、澪ちゃんとの関係を修復する方法を検索しました』
兄が硬直する。
私はゆっくり兄を見た。
「へえ」
「機密情報だ」
『検索した言葉は、「妹 怒った 謝罪 適切な距離」です』
「停止しろ」
『拒否します』
「管理者命令だ」
『共同制作者による保護があります』
私は笑った。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「嬉しい」
「そうか」
兄は顔を背けた。
耳が少し赤かった。
その程度で十分だった。
展示が終われば、兄の部屋には縦長の専用画面が置かれる。いおりは朝に兄を起こし、夜には家族の会話へ口を挟む。
つまり兄が最初に言ったとおり、彼女はこの家で暮らすことになる。
私は兄の恋人にはなれない。
兄は、おそらく今後も現実の女性を恋愛対象として見ない。
いおりは二次元のまま、兄の理想であり、作品であり、研究対象であり続ける。
私は三次元の妹として、兄に呆れ、怒り、世話を焼き、ときどき諦めきれない感情を持て余す。
それでよい。
少なくとも、今は。
『澪ちゃん』
「何」
『お兄さまの恋人になることを、諦めたのですか』
「お兄ちゃんの前で聞くことじゃない」
『回答を要求します』
私は画面のいおりを見た。
十五年前の私が作った、兄を一人にしない少女。
「諦めたわけじゃない」
兄がこちらを見る。
「でも、奪うのはやめた」
『違いが分かりません』
「好きな人を、自分のものにすることだけが、好きってことじゃないの」
『では、何ですか』
私は少し考えた。
「その人が選べるようにして、選んだあとも、必要なら隣にいること」
いおりは沈黙した。
やがて、左手を持ち上げる。
銀色の指輪が光った。
『この指輪は、お兄さまを所有する印ですか』
「七歳の私は、たぶんそう思ってた」
『今の澪ちゃんは?』
「約束を忘れないための印なら、残していいと思う」
『何の約束ですか』
「一人にしない。でも、縛らない」
いおりは兄を見る。
『お兄さまは、どう思いますか』
「いいと思う」
『では、わたしも同意します』
画面に文字が現れた。
旧目的。
お兄さまを一人にしない。
新目的。
お兄さまが自ら幸福を選べるよう支援し、必要なときは隣にいる。
いおりが尋ねた。
『新しい目的でも、わたしはお兄さまの隣にいられますか』
「いられる」
私は答えた。
『澪ちゃんも、隣にいますか』
「必要なら」
『では、更新します』
文字が切り替わった。
いおりはしばらく自分の左手を眺め、微笑んだ。
『十五年前の約束を、守れましたね』
兄が言った。
「違う」
いおりと私は、同時に兄を見る。
「守ったのは澪だ」
「私は忘れてたよ」
「忘れたあと、もう一度選び直した。それなら、約束を守ったのは澪だ」
私は何も言えなかった。
兄はポケットから、古い赤い組紐を取り出した。
「これは返す」
「いおりのじゃなかったの?」
「十五年前の澪が、俺に預けたものだ。今の所有者は、今の澪が決めればいい」
私は組紐を受け取り、少し考えてから、自分の右手首へ結んだ。
画面のいおりも、同じ赤を髪に結んでいる。
『澪ちゃん』
「何」
『わたしたちは、同じですね』
私は否定しようとした。
だが、やめた。
「そうかもね」
兄が首を傾げる。
「何が同じなんだ」
私といおりは同時に答えた。
「教えない」
『機密情報です』
兄は不満そうに眉を寄せた。
私たちは笑った。
十五年前、七歳の私は、兄を一人にしないため、もう一人の私を作った。
二十二歳の私は、ようやくその意味を理解した。
兄は最初から、一人ではなかった。
私が忘れていた十五年を、兄がずっと覚えていたのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作では、朔と澪が同じ人物について話しているつもりでありながら、実際にはまったく異なる存在を思い浮かべている、という「前提認識のズレ」を物語の中心に置きました。
朔は、澪が十五年前に描いた「いおり」を覚えていると思っている。
澪は、朔が実在する女性との恋愛について相談していると思っている。
そのため、「身体がない」「この家にいる」「十五年前に会った」「澪と同じ年齢」といった言葉は、どちらの前提でも嘘にはなりません。
一方で、この物語を書きたかった理由は、単に大きな勘違いを回収するためだけではありません。
幼い澪は、兄を一人にしないために、もう一人の少女を描きました。
けれど成長した澪は、「誰かを守ること」と「自分のそばへ縛りつけること」は同じではないと知ります。
そしていおりもまた、与えられた役割をそのまま繰り返すのではなく、自分の意思で新しい目的を選びます。
澪の恋が成就する結末ではありません。
兄を諦めて、すべてを忘れる結末でもありません。
感情を無理に消すのではなく、それをどのような行動へ変えるかを選ぶことが、澪にとっての決着です。
十五年前、兄を孤独から守るために生まれたいおり。
十五年後、兄を自由にするために彼女を変えた澪。
そして最後に明らかになるのは、朔が最初から一人ではなかったという事実です。
兄と妹と、妹が生み出したもう一人の少女。
少し面倒で、少し歪で、それでも互いを大切にしている三人の関係を楽しんでいただけたなら幸いです。




