序章 挨拶
姉が婚約破棄された。
そう、それは突然のことだった。
私の姉、セリーヌ・フォン・ヴァレンシュタインは、美しく、聡明で非の打ち所がない女性、そんな姉があんな男に婚約破棄されるなんて信じられないと、そして世間は私達の家系は終わったと。
問題の姉の婚約者の名前はルードヴィヒ・ライヒハルト。彼は伯爵家の中でも中央政治に関わっている家の嫡子、一方で私たちの家は一応伯爵の爵位を持っている末端で、今は地方の領主を勤めている。私の父は、中央政治に身を置きたがっていた、だから幼少の頃にこの婚約を決めていた。
でも姉は婚約破棄された。
このご時世、婚約破棄は名誉の否定であり、家の価値の切り下げであり、「あなたは不要だ」と社会から宣告される行為だ。
問題なのはルードヴィヒが連れてきた平民の女性、リリア・ヴァンデル。彼女は裕福な商家の娘で、その家の商いは王室御用達の服飾店だそうだ。
婚約破棄の場、それは王室主催の舞踏会。ちなみに私は同席していない。
ルードヴィヒはきっと、あの優雅な微笑みを浮かべていたのだろう。
「仕方がないんだ」「これは運命なんだ」と、誰かに諭すように、自分自身に言い聞かせながら。
姉は、何を言われたのだろう?
――君は何も悪くない。
――ただ、僕の心が変わってしまっただけだ。
そんな、残酷なほど丁寧な言葉で。
セリーヌは感情を顔に出さない、それが美徳だと教えられて育ってきた。
だからきっと、その場でも背筋を伸ばし、涙ひとつ見せず、完璧な礼をもって別れを受け入れたに違いない。
その姿を見て、彼は安心したのだろう。
――ああ、これで問題は終わった、と。
愚かだ。
婚約破棄は、個人の問題ではない。
それは女一人の価値を否定する行為であり、
家の歴史を汚し、未来を切り売りする政治的決断だ。
世間はこう囁いた。
「ヴァレンシュタイン家も、もう終わりだ」
「中央と繋がる糸を失った」
「長女は捨てられた女だ」
そして――妹の私は。
「可哀想に、あの次女は何も分かっていないのでしょう?」
……ええ、その通り。
私は、にこにこと笑っていた。
悲しそうに首を傾げ、姉を心配する“無知な妹”を演じながら。
だって、彼らは知らなくていい。
婚約破棄が告げられた夜、セリーヌが一人きりの部屋で、どれほど長く灯りを消さずにいたかを。
そして私は、あの夜に決めたのだ。
奪われた名誉を、力ずくで取り戻すつもりはない。
泣き喚いて訴えるつもりもない。
ただ――
選ばれたと思っている者たちに、選択の結果を突きつける。
それだけだ。
婚約を破棄したのは、あなた。
平民の少女を選んだのも、あなた。
ならばその選択が、どれほど多くのものを壊し、どれほど重い代償を伴うのか。
ゆっくり、丁寧に、理解してもらいましょう。
皆様、ごきげんよう。私の長い独り言に付き合ってくださってありがとうございます。
私はアリシア・フォン・ヴァレンシュタイン。
おバカで、脳内お花畑のヴァレンシュタイン家の次女。
――そう、“思われている”女だ。




